第106話

文字数 2,874文字

 舞台袖に待機する。
 袖からそっと客席の方を伺うと、席はギッシリと埋まっていた。

(うわっ、凄い……)

 こんなに客席が埋まってる中で、一人で弾くのか……。
 何だか急に怖くなってきた。
 足許から震えが上がって来る。

(やだ、どうしよう……)

「浅葱さん……」

 ビクッとして振り返る。
 原が微笑みを浮かべて立っていた。

「あ、原先生……」

「大丈夫かい?緊張してるみたいだね」

「あ、すみません。客席が一杯で、こんなの初めてで……」

 恥ずかしくて、うろたえた。

「そうか。ソロは君にとっては初めてだものね。だけど、真田君と一緒の時には、いつだって超満員でしょう」

「はい、そうですけど……。伴奏は脇役だし」

「大丈夫。あなたならやれるよ。ソロの時は、いつも真田君とやってるつもりでやりなさい。コンチェルトの時には、僕とオーケストラが一緒だ。一人じゃない」

 原の言葉に芹歌はハッとした。

「この間のオケリハ、凄く良かったけど、あれが本領じゃないんでしょう?あの後、真田君が、『本番はもっと凄いですよ』と言ってきた。僕はそれを楽しみにしてるんだ」

(え?幸也さんが、そんな事を?)

「さぁ。気持ちを落ち着かせて。あなたなら、できる。大丈夫だ。あなたの音楽を証明してらっしゃい」

 原のニコニコした顔が、優しかった父、庸介を思い出させた。
 なんだか、父が乗り移ったような錯覚を覚える。

 みんなが芹歌を応援してくれている。期待してくれている。
 原の言葉が胸に沁みた。そして、真田の想い……。

――俺を、愛してる?

(愛してます)

――その想いを、音楽にぶつけてきてくれ。

 芹歌は大きく頷いた。

「原先生、ありがとうございます。頑張ります」

 アナウンスが入り、名前を呼ばれた。

 芹歌は大きく息をして、ピアノに向かって歩き出した。
 拍手の中、正面を向いてお辞儀をする。

 目が自然に真田の所へ向く。
 薄暗い中でも、確かにそこにいると分かった。

 ピアノの椅子を調整し、息を整える。
 ショパン、華麗なる大ポロネーズ。

 ポロネーズとは、元々はポーランドの民族舞踊から発展したもので、3拍子だが、ショパンのポロネーズは民族性を持ちながらも独自に展開されている。

 この曲は、アンダンテスピアナートと言う前奏とセットになって演奏される事が多いが、今回は、ポローズのみだ。

 ト音で始まるファンファーレで序奏が始まり、転調して変ホ長調の主部が現れる。
 明るく華やかな曲だ。

 芹歌はこの曲に、自分の想いをぶつけた。
 この華やかさは、艶やかな真田のバイオリンと通じている気がする。

 速く細かなフレーズがキラキラと輝くようで、とても魅力的だ。
 耳の底に真田のバイオリンが響いてくる。一緒に演奏した時間が蘇る。

 一度は諦めた二人の夢のような時間。
 それを再び手にする事ができて、どれだけ充実した時間を過ごせた事だろう。

 すぐそこに、伸びやかな肢体を使って華麗に弾く真田の姿が見える。
 二人で奏でる愛の音……。芹歌はそれに陶酔した。

 想いが軽やかに指を伝って鍵盤の上を転がり、跳ねる。
 深い想いが深い音としてホールに響く。
 強い想いが毅然とした音となって主張する。
 どこまでも、深く強く、そして優しく……。

 最後に思いきり歌いあげて鍵盤を離れた時、ピアノの音に代わって大きな拍手が耳を襲った。

 急激に鼓動が高まった。気持ちが高揚している。
 十分に弾けた充実感が、芹歌の心を満たしている。
 芹歌は立ち上がって、客席に向かってお辞儀をした。
 顔を上げると、満場の拍手なのが分かった。

(良かった……)

 ホッとした。

 自分の心をぶつける事ができた。
 聴いてくれた人達にも届いたと、この拍手が教えてくれている。
 暫く止みそうも無い勢いが感じられた。

 だが芹歌は、3回ほど礼をした後、椅子に座った。
 それと同時に拍手が収束し始めた。

 オーケストラのメンバーが入って来た。

 着席する様子を眺めながら、芹歌は興奮した息を整えた。
 いよいよオーケストラとのコラボレーションだ。ここが勝負どころだ。

 指揮者の原道隆が姿を現すと、会場から拍手が起きた。
 芹歌は立ち上がって指揮者を迎える。
 原は芹歌の前で立ち止まると、手を差し出した。その手に手を添える。

「一緒に奏でましょう」

 その言葉に感動する。
 「はい」と答えて頷くと、再び椅子に座って準備を整える。

 チャイコフスキー、ピアノ協奏曲第1番変ロ短調。演奏時間約35分。

 準備が整った芹歌は、原に視線を向けて頷いた。
 それを受けて原が指揮棒を上げる。

 ホルンの序奏が始まった。
 そしてピアノ。

 雄大で印象的な始まりは心を掻き立てる。
 オーケストラの掛けあいで繰り返される序奏の主題。
 これだけ印象的でありながら、この後、このフレーズは使われない。

 ひと区切りついた後は、ピアノのソロ部分とオーケストラ部、そして競演……。
 抒情的であり、ダイナミックであり、様々な展開を繰り返し、曲が進んで行く。

 全3楽章の3部構成の曲が、雄大さと繊細さと激しさをピアノとオーケストラが共に掛けあうように奏でながら盛り上がっていくのが、とても気持ち良かった。

 こんなに贅沢な時間は無い。
 オーケストラは素晴らしかった。そのオーケストラの一員になったような気がした。
 互いに支え合い、盛り上げる。

 芹歌はこの時も、真田が共に弾いてくれているのを感じた。
 表情豊かなバイオリンの音が時に芹歌を支え、時にリードし、作品世界の深い所まで連れて行く。

 豪華絢爛な世界が芹歌を迎え入れてくれて、最高に楽しい。
 そうして、そのまま終焉に向かって華麗に駆け抜ける。

 ピアノの音を助けるようにオーケストラの豊かな音が聞こえ、芹歌は夢中で弾きあげた。
 速く激しいフレーズを一気に弾き切って、オーケストラと共に終わった。

 それと同時に、激しい拍手が潮騒のように場内を包んだのだった。

 芹歌はチャイコフスキーの夢から覚めて、暫く呆然とした。
 割れんばかりの拍手が演奏の成功を告げている。
 自分自身が感動して目じりに薄く涙が滲む。

「浅葱さんっ!」

 原に呼ばれた。
 立ち上がると抱きしめられた。

「よくやったね!素晴らしかったよっ。最高だ!」

「あ、ありがとうございます」

 背中をポンポンと軽く叩かれ、その後、コンサートマスターにも軽く抱擁された後に握手を交わし、再び原と握手する。
 原は自分の事のように嬉しそうに高揚していた。

 そして、手を取られて客席に向かって礼をする。

 芹歌は何も考えられなかった。
 夢から覚めても頭はまだ真っ白だ。ただ、歓声を浴びている事がひたすら嬉しい。

 原と共に何度もお辞儀をしているうちに、客席の真田に気付いた。
 心から讃え、心から喜んでいるのが伝わって来た。

(幸也さん、私、やったよ)

 心の中で、そう呼びかけた。
 二人の音楽を、しっかり弾ききれた。最高の瞬間だった。

 これから先も、この舞台の上で、彼と一緒に生きていきたい。
 ここが私の生きる世界。

 音楽を作り奏でられる事に、改めて感謝の気持ちが湧いてくるのだった。
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