第66話

文字数 2,703文字

 芹歌は後ろ髪が引かれるような想いで退院した。
 結局、あれ以来、真田の病室を訪れていない。

 翌日の新聞に事件の事が大々的に掲載されて驚いた。
 しかも、舞台の上で抱きしめられた時の写真がスポーツ紙を飾っていた。

 あの写真を見て、当日現場にいなかった母と神永は機嫌が良くない。
 それに、母が言うには真田の母親である麻貴江も相当怒っているらしく、特に事件に巻き込んだ芹歌に対して怒りを燃やしているそうだ。
 それを聞いて、一層、見舞う気持ちが萎えてしまった。

 麻貴江の気持ちは良くわかる。結局、芹歌と関わらなければ巻き込まれる事は無かったのだから。
 あれでもし、真田の演奏家生命が断ち切られたりでもしていたら、一生大きな悔恨を抱いて生きて行く事になっただろう。

 入院中、色んな人が見舞いに来てくれた。
 大学関係者も来たし、合唱団の理事長も詫びに来た。
 久美子や沙織、片倉、教室の生徒達も保護者と共に何人かやってきた。

 そういう中には、芹歌と真田の関係を知りたがる人間もいた。
 芹歌はそれには、ただ笑ってやり過ごした。

 三日間、あまり動く事無く退屈に過ごし、退院したものの、まだ腕が痛くて満足にピアノが弾けない。
 何よりそれが一番辛かった。もし、本当に弾けなくなっていたら、死ぬ事を考えるかもしれないと、改めて思うのだった。

「あまり閉じこもってても、良くないわよ」

 母にそう言われた。
 一番、そう言われてきていた人に言われて苦笑する。

 母の世話は須美子がやってくれているし、芹歌自身まだ体のあちこちが痛いから、家の役にはたたない。
 リハビリも兼ねて、少し散歩くらいはしようと、芹歌はコートを着て帽子を被り、外へ出た。

 歩いて十分ほどの所に噴水のある公園がある。
 今は冬だから噴水は止まっているが、周辺の憩いの場として昼間はそれなりに人がいる。

 外はすっかり冬の装いだ。
 まだ残った銀杏の葉が道路の上を彩っているが、なんだか見苦しい。

 クリスマスが終わると、もう街は正月ムードになる。
 この時期は何故か寂しいと感じてしまうのは、矢張り父が亡くなってからか。

 大きな支柱を失ってしまった気がした。
 母にとっても自分にとっても、父は大きな存在だったのだ。

 もう小さい子どもではなくても、それでも父の存在があったからこそ、安心して自分の好きな事に打ち込めたと思う。

 真田の事を思い出す。

 愛してると言われた。

 本気だとも……。

 未だに信じられない思いだ。
 病院で本気だと言われた時には、死ぬかと思った。

 いきなり息が止まって、苦しくなった。
 看護師さんが『過呼吸みたい』と言っているのを聞いた時、なんで自分が過呼吸?と思いながらも、このままでいったら失神すると感じて恐ろしくなった。

 看護師さんのお陰で何とか呼吸が戻って来たが、すぐに自分の病室に戻された。

(私、先輩に何も言って無い)

 でも……。

 神永の顔が浮かんだ。
 ショックを受けたようだった。
 その顔を見た時、胸が痛んだ。

「浅葱さん……」

 背後からいきなり声を掛けられた。
 男の声だ。
 ビクリとして、そっと振り返ると、自分と同じくらいの年格好の男が立っていた。

「浅葱芹歌さん、ですよね?」

 笑顔で尋ねられた。
 知らない人間だが、どこかで見たような、誰かに似てるような、そんな気がした。

「あ、あの……」

 比較的整った顔立ちをしており、人相は悪くない。
 だが知らない男にフルネームで呼ばれたら自然と警戒する。
 まさか、マスコミの人間か?
 男はにこやかに一歩前に踏みだして、「弟がいつも、お世話になっているみたいで」と言った。

(弟?)

 一体、誰の事だ。

「あ、すみません、申し遅れまして。私は神永健と言います。悠一郎の兄です」

「えっ?」
 言われて、なるほどと思った。
 誰かに似ていると言うのは神永だった。

 細面で優しげな顔をした神永とは違い、兄の方は少し顔がゴツく、眉毛がキリリとしている分、キツそうに見える。

 だが、兄がいるなんて聞いていない。
 高校生の時に父親が亡くなって天涯孤独だと言っていた筈だ。
 だが目の前の男は確かに似ている。一体、どういう事だ。

「あ、あの……。本当にお兄さんなんですか?ご兄弟がいるとは聞いてないんですけど」

 芹歌の言葉に、神永健は、酷く驚いた顔をした。

「え?そうなんですか?あいつ……。何で言って無いんだ」
「あの……」

「ああ、すみません。弟とは別々に暮らしてましてね。僕は最近、こっちに出て来たんです。前は小田原にいまして、そこで働いてたんですが、会社が倒産してしまったので、都会の方が仕事があるだろうと思って上京したんです」

 それでは失業中と言う事か。

「あのじゃぁ、今はどちらに?」

「弟のアバートに厄介になろうかと思ってたんですが、友人のアパートの方に住まわせて貰ってます。家賃を半分払ってくれると逆に助かるって言われまして」

 そう言って笑った顔は神永とよく似ている。

「あの、それで?」

 一体、何の用なのだろう。こんな場所で声を掛けてくるなんて。
 もう少し歩けば公園に辿りつくが、まだ住宅街の中である。

「ああ、すみません。弟の家を訪ねて来たんですが、いないんですよ。最近、浅葱さんのお宅にお邪魔する事が多いと聞いていたものですから、こちらに来てみたら、ちょうど、あなたが歩いてる所に遭遇して」

 暮れとは言っても、まだ仕事の人間が多い。
 仕事納めまでは、1,2日ある。
 昼間に訪ねて行っても、いなくて当然ではないだろうか。少し不審に感じた。

「弟さんなら、今日は仕事ですよ」
「え?まだ休みじゃないんですか?」
「ええ……」
「あー、そうだったのか。うっかりしてたな。もう休みだと思ってました」

 困ったようにポリポリと頭を掻いている。

「すみません、私、もう行かないと」

 別にただの散歩だったから、急いでもいないのだが、このままここで、この人に付き合っているつもりはない。
 本当なら神永の兄なら、もう少し色々と話しても良さそうだが、神永本人から何も聞かされていない、兄と言う存在がいきなり登場しても、ただ不審に思うばかりだ。

「ああ、すみません。お引きとめしちゃって。またそのうち、ご挨拶に伺わせて貰います。弟がお世話になってるんですから、お母さんの方にも挨拶しておかないと、失礼ですものね」

 神永健はそう言うと、ペコリと頭を下げて(きびす)を返した。
 スタスタと足早に歩いて行く。

(何だったんだろう)

 それにしても、兄がいるってどうして言ってくれてないんだろう。
 しかも、まるで一人っ子のような口ぶりだった。
 何か言えないような事情があるのか?
 ふとそう思った。
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