第19話

文字数 3,433文字

 美味しいケーキとお茶を頂いた後、3人はレッスン室へと移動した。

「ここへ入るのは、久しぶりね」

 実花が部屋の中を感慨深げに見まわしている。
 父が生前中は、よく夫婦揃って芹歌のピアノをここで鑑賞していた。
 事故以来、ここへは入りたがらなかった実花が、何の躊躇(ためら)いもなく入室し、穏やかな表情で部屋の中を見回している姿に、芹歌は大きく安堵した。

(やっぱり、変わってきてる。それも良い方に)

 実花は部屋の中を見回した後、神永の方に視線を移した。

「ねぇ、ゆう君。食べたばかりで歌えるの?腹ごなしに、ピアノを先に弾いたらどうかしら?おばさん、聴きたいな。ゆう君のピアノ」

「それは、お断りします」
「あら、どうしてぇ?」

 まさか断られるとは思っていなかったようだ。
 理解できないと言いたげな顔をしている。芹歌も少し驚いた。
 神永はそんな二人の顔を交互に見たあと、おもむろに笑った。

「やだな。二人ともそんな顔、しないで下さいよ」
「そんな顔って、どんな顔?」

 芹歌が訊ねた。

「信じられないって顔してます。そんなに驚く事ですか?」

 首を傾げて笑う姿が、やけに無邪気な少年のように見えた。

 確かに、言われてみればそうかもしれない。
 歌う事すら嫌がったのだから、ピアノだって嫌がるのは自然の反応かもしれないと芹歌は思い直した。
 だが、理由はそうでは無かったようだ。

「ピアノは。もうすぐ発表会ですよね。来て貰えたら聴けますよ?浅葱さん」
「え?」

 何でも無い事のように言われて、今度は実花の方が固まった。

「僕のピアノ、聴きたいんですよね?」
「え、ええ……」
「だったら、聴きに来て下さい」
「でも……」
「でも、なんですか?」

 オロオロとしている実花の前に、神永は膝をついて下から見上げた。
 優しい表情をしている。

「でも、あたし……。ずっと外出してなくて……」

「なら、ちょうどいいじゃないですか。僕、当日迎えに来ますよ。エスコートします。だから、一緒に行きましょう」

「あ……、あの……、なんか、ゆう君。……キラキラしてる……」

「はぁ?」

 実花の突拍子もない言葉に神永はキョトンとした。

 実花は微かに頬を染めている。
 芹歌はその様子を見て、胸に何とも言えない(うず)きを感じた。
 それは決して良い感情とは言えそうにない。

「と、とにかく、浅葱さん」
 実花の反応にたじろいでいた神永だったが、落ち着きを取り戻した。

「一緒に行って、僕のピアノ、聴いて下さい。当日までまだ2週間ちょっとありますから、今すぐじゃなくていいですから、考えといて下さい。ね?」

「わ、わかりました……」

 女学生のように、急にしおらしくなった。
 神永は満足したように頷くと立ち上がった。

「じゃぁ、歌いますね。お二人の為に。芹歌さん、伴奏お願いしていいですか」
「え、ええ。勿論」

 芹歌はピアノの(ふた)を開けた。

「何を歌うのかしら?」
「えーとっ、折角だから、イタリア歌曲でも歌おうかなと……」

 イタリア歌曲……。
 合唱団で歌った曲とかではない事に驚いた。
 好きだとは言っても、いきなり歌って欲しいと言われて選ぶ曲が歌曲とは。

「カロ・ミオ・ベン、はどうでしょう?短い曲ですけど、いきなりのリクエストなんで、このくらいで許して貰えたら有難いんですけど……」

 はにかんだように、視線があちこちに泳いでいた。
 なるほど。歌曲と聞いて驚いたが、この曲なら妥当と言えるだろう。
 高校などの音楽の授業でも扱われる曲だ。

「分かったわ。楽譜あるけど、いる?」
「いえ、大丈夫です。覚えてるので」

 小さく笑った顔が、少し固い。矢張り緊張しているのか。
 神永がピアノの横に立って、芹歌の方へ合図するように視線を送って来た。
 芹歌は静かに頷いて鍵盤に指を下ろす。


―― Caro mio ben

     Caro mio ben, credimi almen,
     senza di te, languisce il cor.
     Il tuo fedel, sospira ognor.
     Cessa, crudel, tanto rigor!


 テナーの綺麗な声が、イタリア語の歌詞を紡いだ。
 まさか原語で歌うとは思っていなかった。
 イタリア語は基本的にローマ字読みに近いので、日本人でも馴染みやすいが、発音が微妙に難しい部分がある。
 だが、そういう部分も含めて神永は上手かった。

 意味は大体こんな感じだ。

  愛しい人よ、信じておくれ
  君に会えず、恋焦がれる日々
  君に忠実な男は、溜息ばかり
  どうか冷たくしないでくれ

 イタリア歌曲は恋の歌が多い。情熱家のイタリア男らしい歌ばかりだ。だからか、とても上手に歌ってはいるが、歌詞の意味が分かる芹歌からすると、神永のイメージにはそぐわない歌だな、と思う。

 だが、実花はうっとりとした顔で聴いていた。
 彼女も歌詞を知っている。
 夫と共に海外旅行も数多く行っており、ヨーロッパでオペラ鑑賞なども堪能している。
 だから、イタリア歌曲もドイツ歌曲も大分通じているのだった。

 神永が歌い終わると、実花は思いきり手を叩いた。

「上手、上手―、凄いわ、ゆう君。素晴らしかったわよ。感動したわ」

 頬が蒸気していた。興奮しているようだ。

「あー、すみません。緊張して、声が今ひとつで……」

 神永はしきりに頭に手をやって、ぺこぺことお辞儀をしている。

「そんな事、ないわよ?ねぇ、声楽も本格的に習ったらどう?こんなに上手なんじゃ、合唱だけじゃ物足りなくない?」

 実花は「ねぇ?」と芹歌に同意を求めて来た。

「そうね。歌うの好きなんでしょうから、習ってみてもいいかもしれないわね」

「いやぁ、そこまでは……。歌は好きですけど、一人で歌うより合唱の方が楽しいと言うか……。習った所で、人前で歌うのはちょっと。オペラ歌手になりたいわけでもないですしね。時々ひとりでこっそり練習して自己満足して、それで十分なんです」

「あら~、なんだか勿体ない気がするわ~」

 確かに、勿体ない気がしなくもない。
 だが、目的も無い者が高いレッスン料を払ってまで習いに行く事もないのだろう。金持ちの道楽ならいざ知らず。

 彼にとっては、合唱団とピアノだけで精いっぱいに違いない。

「神永君。イタリア語の発音がとても上手だったわ。読みやすい言語とは言っても、細かい発音までちゃんと歌える人って、素人ではいないものなのよね。誰かに教わった?」

「あの、ほんとですか?イタリア語の読み方は、高校の時の音楽の先生に教わったんですが、発音はパバロッディのCDを繰り返し聴いて真似しながら練習したんです。なんか、褒められて凄く嬉しいです」

 朝日を浴びて恥ずかしげに咲き始める朝顔のような、そんな初々しい喜びが浮かんだ顔が芹歌の心に響いた。
 褒められれば嬉しいには違いないが、こんなに喜ぶとは思わなかった。
 一途な感じがして好感度が増してくる。

 ふと母を見ると、彼女も嬉しそうに頷いている。
 我が子の喜びを噛みしめる母のようだ。

 専門家につく事も無く、独学でここまで歌えるのは立派だし、本人も随分と頑張ったのだろう。ピアノもだが、彼は音楽のセンスがあると改めて思った。

「神永君、良かったら今後、ピアノのレッスン後に少し歌の練習をしていってもいいわよ?あなた一番最後だから、大丈夫よ」

「えっ、いいんですか?」

「歌うのが恥ずかしいとか、歌いたく無いとかって言うなら、無理に勧めないけど」

「あ、いえ……。だけど僕……」

「レッスン料はいらないわ。基本的な事しか教えてあげられないし。あなたの趣味の延長の範囲内で、ちょっと手助けしてあげる程度よ。そもそも、あたしは声楽科出身じゃないわけだし。それで良ければ」

「そうよ、ゆう君。遠慮はいらないわよ?芹歌から言い出してる事なんだから、甘えちゃいなさいよ」

 全く持って、母は神永贔屓だ。
 だが自分も、いつの間にか彼贔屓になっているように思えた。
 こんなこと、いいのかな?と疑問に思う自分もいる。
 だからこそ、無理にとは言わない。

「ありがとうございます。じゃぁ、ご厚意に甘えさせて貰います。最初は、急に歌えなんて言われて、ちょっと心外だったんですけど、歌って良かったですね。凄いご褒美(ほうび)貰っちゃった気分です」

 神永は思いきり笑顔になった。
 綺麗な歯並びの白い歯が、何の穢れも無いピュアな精神を現すように輝いて見えた。
 爽やかさを絵に描いたような笑顔だと芹歌は思った。

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