第81話
文字数 4,558文字
「君は、そんなんだから芹歌ちゃんと上手くいかないんだよ」
「心外な言葉だな」
あれからずっと、芹歌とは逢っていない。
渡良瀬教授の家で、最後に芹歌があんな風に出るとは思ってもみなかった。
自分を引き止める為に追いかけてきたんだろうに、最後に突き放してきた。
「なんでもっと、彼女を理解してやらないんだよ」
「どうせ俺は、女の気持ちのわからない無粋な男だよ。だから、女は嫌いなんだ。面倒くさいったらない」
片倉は呆れかえったように、ソファにのけ反った。
「自分ばかりを押し通して、相手を理解しようとしない。それって、男女の関係ないと思うよ」
声音がどこか批判的だ。
「そうだな。思うに俺には、お前の婚約者のような女が一番似合ってるかもな」
「はぁ??何言ってるんだよ」
「俺様の俺には、ああいう従順な女が合ってるって言ってるのさ。俺はお前みたいに派手な遊び人じゃないしな。まぁ、時々、手がかからなそうな女と浮気する程度だ」
「はっ。全く自分に都合のいい事ばっかり言うんだな。じゃあ、あげようか?と言いたい所だけど、生憎彼女は、この春俺と結婚する事に決まってるからね。今更チャラにはできない。類は友を呼ぶって言うからさ、彼女の友達でも紹介してもらう?それとも、お母さんに頼んで相応しい女と見合いさせてもらったら?」
暫く互いに気難しい顔で睨み合った。
先に視線を逸らせたのは真田だった。
「ねぇ、ユキ……。女を面倒くさいって思うのはいいけど、芹歌ちゃんの事は別だよ?彼女の事まで面倒くさいと思ったら、おしまいだよ。わかってる?」
「じゃぁ、おしまいなのかもな」
「おい!」
真田は力ない目で片倉を見る。
「あいつの鈍さは解ってる。まぁ、時々それを忘れてつい、あれこれ要求してしまうんだけどな。もっと察してくれと思う事が多いんだ。だけど、それはまだいいんだ」
問題なのは、あいつの俺に対する気持ちだ。
よく解らない。
あいつは本当に俺が好きなのか?
俺があまりに強引だから、引きずられているだけなのかもしれない。
そんな風に思えて仕方ない。
真田は渡良瀬家での顛末 を片倉に語った。
「冷めた目をして、『どうぞお帰り下さい』だぞ。呆然としたよ」
片倉はそれを聞いて、呆れたように首を振りながら吐息を漏らした。
「全く、どっちもどっちだな。不器用者同士の、不毛なやりとり……」
不毛だとは真田も自覚している。
不毛過ぎる。だからウンザリするのだ。
「だけどさ。彼女、調子良くないみたいじゃない。恵子先生がこぼしてたよ。それは君も聞いてるんじゃないの?」
「ああ……」
だからこそ、ジレンマなのだ。
もう1週間あまりで1次予選だと言うのに、得意なバッハですら音の切れが悪いらしい。
ベートーベンに至っては、かなり乱れているとの話しだった。
「助けてあげないの?」
「どうやって」
「それ、僕に訊くの?」
「……」
「このままじゃ、元の木阿弥だよ。くだらない事でやり合ってないでさ。なんでもっと、気持ちのままに行動しないんだろうね。僕が君なら、もう、毎日毎日、彼女のそばで彼女に尽くすよ。思いきり愛して可愛がって……」
真田は思わず片倉を睨んだ。
「ほらほら。その気持ち。それが大切だよ。独占欲が強いくせに、しっかり摑まえてないんだから、呆れるよ?そんなんだから、『お帰り下さい』なんて言われちゃうんだよ。全くもって、情けない」
「そうは言うけどな……」
と言いかけた所で、携帯が鳴った。
「あれ?幸也の?」
「ああ……」
一体何事かと出てみると、渡良瀬だった。
「真田君?」
「はい、そうですが」
声が慌てている。何かあったようだ。
「今どこにいるの?こっちに来て欲しいんだけど」
「え?今、片倉のマンションなんですが」
「ええ?校内じゃなかったの?てっきりレッスン室にいるのかと」
「恵子先生、どうしたんですか?何かあったんですか」
「あのね。芹歌ちゃんが使ってるレッスン室にね。変な男が来てるのよ」
「変な男?」
真田の胸が急にざわつく。
「あのね。神永君のお兄さんなんだけど、胡散臭い男なの。私、これから授業があって。だから、あなたに来て欲しかったんだけど……」
「わかりました。これからすぐに行きますから」
真田は相手の返事を待たずに切ると、立ち上がった。
「どうしたの?恵子先生、何て?」
「話してる暇がない。悪いが車を出してくれないか」
「わかった」
二人は素早く身支度を済ませ、マンションの階下にある駐車場へ降りた。
「目的地は大学だよね?」
「ああ。恵子先生が言うのには、神永って奴の兄が、芹歌の所に来てるらしい」
「え?神永君って、お兄さんがいたの?」
「知らない。俺も初めて聞いたよ。だけど、恵子先生は、胡散臭い男だと言っていた。あの先生は結構、鋭いから、きっと正しいと思う」
「じゃぁ、急がないとね」
「ああ」
片倉のマンションは大学に近い。車なら10分の場所だ。
だが今の真田には、その10分が長く感じた。
片倉は大学の校内まで車を入れて、真田を下ろす。
「僕は駐車場に止めてから行くから」
「ああ、頼む」
真田は芹歌のレッスン室を目指して走った。
何も無ければ良いのだが、と気持ちが逸 る。
怪我はもう治っているとは言え、以前のようにはいかなくて、もどかしかった。
レッスン棟の中に入って奥まで進むと、廊下の先に芹歌がいた。
中肉中背の男がそばに立っている。それを見て、少しだけ安堵した。
レッスン室の中ではなかったからだ。
防音個室の中で男と二人となったら、何が起きるかわかったものでは無い。
「芹歌っ」
少し大きな声で呼びかけた。
芹歌が気付いてこちらを見た。真田の姿を認めて、安堵の表情を浮かべた。
「どうした?」
真田が走り寄って声をかけると、傍にいた男が「おや、あなたは真田さんだ」と言ったので、男の方へ顔を向けた。
男は神永悠一郎に似ていたが、目つきが鋭い、
抜け目のなさそうな印象を受けた。
「あなたは、どなたですか?」
真田は上がった息を静めるように、呼吸を大きくとった。
「僕は神永健と言います。芹歌さんとお付き合いさせてもらってる悠一郎の兄です」
引っ掛かる物言いに一瞬カッとなったが、真田は自身の波立った心を理性で押さえた。
「そのお兄さんが、彼女にどんな用が」
「いえね。弟がここ最近、掴まらないので、どこにいるのか尋ねに来たんですよ」
神永健の言葉に真田は芹歌の方へ顔を向けると、芹歌は「知らないの」と言った。
「彼女は知らないと言ってますが」
渡良瀬の連絡から10分以上経っている。
それだけの用事なら、とっくに済んでて良い筈だ。
それなのに、まだいると言うのはどういう了見 なのか。
「ええ。それは、さっきから何度も聞いてます。だけど、どこか心当たりは無いのかな。いないと困るんですよ」
「困るとは?」
健はうすら笑いを浮かべた。
「いえね。あいつに金を貸してるんですよ。僕は今、失業中なんで、なけなしの金です。すぐに返して貰わないと困るんだ」
(金がらみか)
こういうトラブルの元は大抵が金だ。
だが、金が絡むと始末が悪い。
「あなたは困るかもしれないが、この人には関係ない。知らないと言ってる以上、これ以上は無駄でしょう。帰ったらどうです?彼女も暇人じゃないんだ」
「いやぁ~、そんな事は無いですよ」
健は下から睨め上げるように真田を見た。
「関係なくは無いです。だって、芹歌さんは弟の恋人でしょう?悠一郎はお母さんにも気にいられて、この分でいくと浅葱家の婿になりそうじゃないですか。それなら、悠一郎に代わって金を返してくれもいいんじゃないですかね」
弟の恋人と言う言葉が、真田の胸に突き刺さった。
「それにね。あいつは、あんな澄ました顔をしてるが、実はとんでもない奴なんですよ。そろそろ時効だから言いますが、あいつは母親を殺したんですよ」
へらへら笑いながら言っている言葉に、真実味が感じられない。
だが衝撃的な話だった。
「そんな事、嘘っ。お母さんは蒸発したんだって、神永君言ってたし」
芹歌が興奮して叫ぶように言った。
健は嘲笑うような顔つきだ。
「まぁそりゃ、普通はそのまま信じるよね。でも僕は知ってる。兄だから。当時、悠一郎は4歳だったからね。本人自身も、もしかしたら覚えてないかもしれない。恐ろしくて記憶を封印して、蒸発したんだと思い込んでるのかもしれない。だけど、そんな秘密を持った男なんだよね。時効になってもさ。こんな事、周囲に知られたくないでしょう。あっ、あなたのお母さんが知ったら、凄いショック受けるかもしれないねぇ」
厭らしい笑みを見て、真田は吐き気を催した。
芹歌はビクビクと身を竦めている。
「それで、金を寄越せと言ってるのかな?」
「さすがに真田さん。話しが早い。このお嬢さんには、なかなか話しが通じなくて」
「話しが通じたとしても、金を出す謂われは無いでしょう。この人は悠一郎君の恋人じゃない。僕の婚約者なんだから」
野良犬を見下げるように、健を見た。
健は鋭い目つきで見返して来る。
「ほぉ~。それはいつの間に。この人と悠一郎は確かに付き合っていた筈。僕、見ましたよ?二人が仲良くデートして、いちゃついてる所。キスなんかも、してましたよねぇ」
芹歌を責めるような目で見た。
真田は怒りが湧いてくるのを感じた。手が微かに震える。
「それは過去の話しでしょう。今は僕の婚約者だ。それに、仮に悠一郎君と恋人関係にあっても、彼女が彼の借金を返す義務はない。夫婦じゃないんだ。他人なんだから」
真田は怒りを押さえるように、低い声で言った。
「他人……。それはそうだ。だけど、真田さん。婚約者を強調してるけど、その婚約者の過去の交友関係や、その相手の秘密とか、世間にばらまかれて困りませんか?あなたの社会的地位や名声に傷が付くんじゃないのかなぁ」
卑劣な奴だ。
真田の怒りのボルテージが上がっていく。
「50万でいいですよ。本当は100万貸してるんだけど、せめて半分でも回収できれば当座はしのげる。都合して貰えませんかね」
人の弱みにつけこんで、こうやって金を絞り取っていくのだろう。
そんな事に頭や労力を使うなら、真面目に働けと思うが、この類の人間には通用しないに違いない。
「1円だって払う義務は無い。世間にばら撒きたきゃ、そうすればいい。こちらは痛くも痒くも何ともない」
真田はこれでもかと言うくらい、威圧的に相手を睨んだ。
こんなチンピラ風情に負けるつもりはない。
「あんたねぇ……」
まだ因縁をつけて来ようとする相手に、真田はキッパリと告げた。
「警察、呼びますよ?これ以上しつこくするなら」
健はグッと言葉につまった。
目が僅かに揺れている。動揺しているようだ。
そこへ、片倉がやってきた。
「芹歌ちゃん、大丈夫?誰?この人……」
汚物でも見るような嫌悪感まるだしの表情だ。
今にも冷酷に排除しそうな目をしている。
こういう時の片倉は、まるで悪魔のように見える。
その視線にやられたのかはわからないが、神永健は「ふん」と言って、逃げるように小走りでその場を去って行った。
真田はホッとした。
「あいつが、神永君のお兄さん?悪そうなヤツだね」
片倉にはひと目でどんな人間なのか解ったようだ。
「心外な言葉だな」
あれからずっと、芹歌とは逢っていない。
渡良瀬教授の家で、最後に芹歌があんな風に出るとは思ってもみなかった。
自分を引き止める為に追いかけてきたんだろうに、最後に突き放してきた。
「なんでもっと、彼女を理解してやらないんだよ」
「どうせ俺は、女の気持ちのわからない無粋な男だよ。だから、女は嫌いなんだ。面倒くさいったらない」
片倉は呆れかえったように、ソファにのけ反った。
「自分ばかりを押し通して、相手を理解しようとしない。それって、男女の関係ないと思うよ」
声音がどこか批判的だ。
「そうだな。思うに俺には、お前の婚約者のような女が一番似合ってるかもな」
「はぁ??何言ってるんだよ」
「俺様の俺には、ああいう従順な女が合ってるって言ってるのさ。俺はお前みたいに派手な遊び人じゃないしな。まぁ、時々、手がかからなそうな女と浮気する程度だ」
「はっ。全く自分に都合のいい事ばっかり言うんだな。じゃあ、あげようか?と言いたい所だけど、生憎彼女は、この春俺と結婚する事に決まってるからね。今更チャラにはできない。類は友を呼ぶって言うからさ、彼女の友達でも紹介してもらう?それとも、お母さんに頼んで相応しい女と見合いさせてもらったら?」
暫く互いに気難しい顔で睨み合った。
先に視線を逸らせたのは真田だった。
「ねぇ、ユキ……。女を面倒くさいって思うのはいいけど、芹歌ちゃんの事は別だよ?彼女の事まで面倒くさいと思ったら、おしまいだよ。わかってる?」
「じゃぁ、おしまいなのかもな」
「おい!」
真田は力ない目で片倉を見る。
「あいつの鈍さは解ってる。まぁ、時々それを忘れてつい、あれこれ要求してしまうんだけどな。もっと察してくれと思う事が多いんだ。だけど、それはまだいいんだ」
問題なのは、あいつの俺に対する気持ちだ。
よく解らない。
あいつは本当に俺が好きなのか?
俺があまりに強引だから、引きずられているだけなのかもしれない。
そんな風に思えて仕方ない。
真田は渡良瀬家での
「冷めた目をして、『どうぞお帰り下さい』だぞ。呆然としたよ」
片倉はそれを聞いて、呆れたように首を振りながら吐息を漏らした。
「全く、どっちもどっちだな。不器用者同士の、不毛なやりとり……」
不毛だとは真田も自覚している。
不毛過ぎる。だからウンザリするのだ。
「だけどさ。彼女、調子良くないみたいじゃない。恵子先生がこぼしてたよ。それは君も聞いてるんじゃないの?」
「ああ……」
だからこそ、ジレンマなのだ。
もう1週間あまりで1次予選だと言うのに、得意なバッハですら音の切れが悪いらしい。
ベートーベンに至っては、かなり乱れているとの話しだった。
「助けてあげないの?」
「どうやって」
「それ、僕に訊くの?」
「……」
「このままじゃ、元の木阿弥だよ。くだらない事でやり合ってないでさ。なんでもっと、気持ちのままに行動しないんだろうね。僕が君なら、もう、毎日毎日、彼女のそばで彼女に尽くすよ。思いきり愛して可愛がって……」
真田は思わず片倉を睨んだ。
「ほらほら。その気持ち。それが大切だよ。独占欲が強いくせに、しっかり摑まえてないんだから、呆れるよ?そんなんだから、『お帰り下さい』なんて言われちゃうんだよ。全くもって、情けない」
「そうは言うけどな……」
と言いかけた所で、携帯が鳴った。
「あれ?幸也の?」
「ああ……」
一体何事かと出てみると、渡良瀬だった。
「真田君?」
「はい、そうですが」
声が慌てている。何かあったようだ。
「今どこにいるの?こっちに来て欲しいんだけど」
「え?今、片倉のマンションなんですが」
「ええ?校内じゃなかったの?てっきりレッスン室にいるのかと」
「恵子先生、どうしたんですか?何かあったんですか」
「あのね。芹歌ちゃんが使ってるレッスン室にね。変な男が来てるのよ」
「変な男?」
真田の胸が急にざわつく。
「あのね。神永君のお兄さんなんだけど、胡散臭い男なの。私、これから授業があって。だから、あなたに来て欲しかったんだけど……」
「わかりました。これからすぐに行きますから」
真田は相手の返事を待たずに切ると、立ち上がった。
「どうしたの?恵子先生、何て?」
「話してる暇がない。悪いが車を出してくれないか」
「わかった」
二人は素早く身支度を済ませ、マンションの階下にある駐車場へ降りた。
「目的地は大学だよね?」
「ああ。恵子先生が言うのには、神永って奴の兄が、芹歌の所に来てるらしい」
「え?神永君って、お兄さんがいたの?」
「知らない。俺も初めて聞いたよ。だけど、恵子先生は、胡散臭い男だと言っていた。あの先生は結構、鋭いから、きっと正しいと思う」
「じゃぁ、急がないとね」
「ああ」
片倉のマンションは大学に近い。車なら10分の場所だ。
だが今の真田には、その10分が長く感じた。
片倉は大学の校内まで車を入れて、真田を下ろす。
「僕は駐車場に止めてから行くから」
「ああ、頼む」
真田は芹歌のレッスン室を目指して走った。
何も無ければ良いのだが、と気持ちが
怪我はもう治っているとは言え、以前のようにはいかなくて、もどかしかった。
レッスン棟の中に入って奥まで進むと、廊下の先に芹歌がいた。
中肉中背の男がそばに立っている。それを見て、少しだけ安堵した。
レッスン室の中ではなかったからだ。
防音個室の中で男と二人となったら、何が起きるかわかったものでは無い。
「芹歌っ」
少し大きな声で呼びかけた。
芹歌が気付いてこちらを見た。真田の姿を認めて、安堵の表情を浮かべた。
「どうした?」
真田が走り寄って声をかけると、傍にいた男が「おや、あなたは真田さんだ」と言ったので、男の方へ顔を向けた。
男は神永悠一郎に似ていたが、目つきが鋭い、
抜け目のなさそうな印象を受けた。
「あなたは、どなたですか?」
真田は上がった息を静めるように、呼吸を大きくとった。
「僕は神永健と言います。芹歌さんとお付き合いさせてもらってる悠一郎の兄です」
引っ掛かる物言いに一瞬カッとなったが、真田は自身の波立った心を理性で押さえた。
「そのお兄さんが、彼女にどんな用が」
「いえね。弟がここ最近、掴まらないので、どこにいるのか尋ねに来たんですよ」
神永健の言葉に真田は芹歌の方へ顔を向けると、芹歌は「知らないの」と言った。
「彼女は知らないと言ってますが」
渡良瀬の連絡から10分以上経っている。
それだけの用事なら、とっくに済んでて良い筈だ。
それなのに、まだいると言うのはどういう
「ええ。それは、さっきから何度も聞いてます。だけど、どこか心当たりは無いのかな。いないと困るんですよ」
「困るとは?」
健はうすら笑いを浮かべた。
「いえね。あいつに金を貸してるんですよ。僕は今、失業中なんで、なけなしの金です。すぐに返して貰わないと困るんだ」
(金がらみか)
こういうトラブルの元は大抵が金だ。
だが、金が絡むと始末が悪い。
「あなたは困るかもしれないが、この人には関係ない。知らないと言ってる以上、これ以上は無駄でしょう。帰ったらどうです?彼女も暇人じゃないんだ」
「いやぁ~、そんな事は無いですよ」
健は下から睨め上げるように真田を見た。
「関係なくは無いです。だって、芹歌さんは弟の恋人でしょう?悠一郎はお母さんにも気にいられて、この分でいくと浅葱家の婿になりそうじゃないですか。それなら、悠一郎に代わって金を返してくれもいいんじゃないですかね」
弟の恋人と言う言葉が、真田の胸に突き刺さった。
「それにね。あいつは、あんな澄ました顔をしてるが、実はとんでもない奴なんですよ。そろそろ時効だから言いますが、あいつは母親を殺したんですよ」
へらへら笑いながら言っている言葉に、真実味が感じられない。
だが衝撃的な話だった。
「そんな事、嘘っ。お母さんは蒸発したんだって、神永君言ってたし」
芹歌が興奮して叫ぶように言った。
健は嘲笑うような顔つきだ。
「まぁそりゃ、普通はそのまま信じるよね。でも僕は知ってる。兄だから。当時、悠一郎は4歳だったからね。本人自身も、もしかしたら覚えてないかもしれない。恐ろしくて記憶を封印して、蒸発したんだと思い込んでるのかもしれない。だけど、そんな秘密を持った男なんだよね。時効になってもさ。こんな事、周囲に知られたくないでしょう。あっ、あなたのお母さんが知ったら、凄いショック受けるかもしれないねぇ」
厭らしい笑みを見て、真田は吐き気を催した。
芹歌はビクビクと身を竦めている。
「それで、金を寄越せと言ってるのかな?」
「さすがに真田さん。話しが早い。このお嬢さんには、なかなか話しが通じなくて」
「話しが通じたとしても、金を出す謂われは無いでしょう。この人は悠一郎君の恋人じゃない。僕の婚約者なんだから」
野良犬を見下げるように、健を見た。
健は鋭い目つきで見返して来る。
「ほぉ~。それはいつの間に。この人と悠一郎は確かに付き合っていた筈。僕、見ましたよ?二人が仲良くデートして、いちゃついてる所。キスなんかも、してましたよねぇ」
芹歌を責めるような目で見た。
真田は怒りが湧いてくるのを感じた。手が微かに震える。
「それは過去の話しでしょう。今は僕の婚約者だ。それに、仮に悠一郎君と恋人関係にあっても、彼女が彼の借金を返す義務はない。夫婦じゃないんだ。他人なんだから」
真田は怒りを押さえるように、低い声で言った。
「他人……。それはそうだ。だけど、真田さん。婚約者を強調してるけど、その婚約者の過去の交友関係や、その相手の秘密とか、世間にばらまかれて困りませんか?あなたの社会的地位や名声に傷が付くんじゃないのかなぁ」
卑劣な奴だ。
真田の怒りのボルテージが上がっていく。
「50万でいいですよ。本当は100万貸してるんだけど、せめて半分でも回収できれば当座はしのげる。都合して貰えませんかね」
人の弱みにつけこんで、こうやって金を絞り取っていくのだろう。
そんな事に頭や労力を使うなら、真面目に働けと思うが、この類の人間には通用しないに違いない。
「1円だって払う義務は無い。世間にばら撒きたきゃ、そうすればいい。こちらは痛くも痒くも何ともない」
真田はこれでもかと言うくらい、威圧的に相手を睨んだ。
こんなチンピラ風情に負けるつもりはない。
「あんたねぇ……」
まだ因縁をつけて来ようとする相手に、真田はキッパリと告げた。
「警察、呼びますよ?これ以上しつこくするなら」
健はグッと言葉につまった。
目が僅かに揺れている。動揺しているようだ。
そこへ、片倉がやってきた。
「芹歌ちゃん、大丈夫?誰?この人……」
汚物でも見るような嫌悪感まるだしの表情だ。
今にも冷酷に排除しそうな目をしている。
こういう時の片倉は、まるで悪魔のように見える。
その視線にやられたのかはわからないが、神永健は「ふん」と言って、逃げるように小走りでその場を去って行った。
真田はホッとした。
「あいつが、神永君のお兄さん?悪そうなヤツだね」
片倉にはひと目でどんな人間なのか解ったようだ。