第63話

文字数 5,100文字

 二人は救急車で病院へ運ばれた。

 目が覚めた時、芹歌は病室のベットに寝かされていた。
 すぐそばに、心配そうな顔をした神永と実花がいた。

「目が覚めましたか……」
「神永君……。お母さんも……」

 車椅子の実花の顔は近かった。

「びっくりしたわよ、連絡貰って。慌ててゆう君を呼んで連れて来て貰ったのよ」

「あ、神永君、ごねんね?」

「そんなの、大丈夫ですよ。それより、こんな状況で、よく人の心配してますよね、芹歌さん」

 神永が軽く睨んだ。
 芹歌が辺りに目をやると、どうやら6人部屋の端っこらしい。
 窓の外が既に暗い。

 そう言えば山口と揉めている間に、どんどん周囲が暗くなっていく感じだったなと思い出した。

「あ、あのっ、真田さんは?」

 神永の顔が(かげ)った。
 それを見て、えっ?と不安に思う。それに気付いたのか、神永は「大丈夫ですよ」と言った。

「大丈夫って……」
 そう言われても心配だ。

「太ももを刺されてたけど、特に問題ないそうよ。治るまでに2週間くらいかかるらしいけどね」

 実花が言った。

「他は?他はどうなの?手は?指は?折れたり傷ついたりしてない?」

 早口に捲し立てる芹歌に、実花は溜息をついて「それも大丈夫」と答えた。

「擦り傷と軽い打撲があるそうだけど、すぐに治るって」

 それを聞いて、芹歌はやっとホッとした。

「山口さんに襲われたって……」
 神永が厳しい顔で(たず)ねて来た。

「ええ……。逆恨みとしか思えない。こんな事になるなんて」

「警察がね。目が覚めたら事情聴取したいって言ってるんだけど」

「え?そうなの?でも……。その前に、真田さんに会いたいんだけど」

「今は駄目よ」
 実花の口調が厳しかった。

「どうして?事情聴取があるから?」

「そうね。まずは、それが先よ。それから、向こうも向こうで取り込んでるみたいだから。落ち着くまでは無理だと思うわ」

 不愉快そうな顔をしている。傍にいる神永も苦い顔だ。
 一体、どうしたと言うんだろう。

「とにかく、まずは警察ね」

 実花の言葉に、神永が頷いて病室の外へ出た。
 警官を呼びに出たようだ。

「お母さん。私の体はどうなってるの?」

 あちこちが痛いし、体全体が重たい。
 重石でも乗せられてるようだ。

「体中傷と痣だらけ。まったく女の子が大の男に立ち向かっていくなんて」

 呆れたように言う。

「だって……。腕は、大丈夫なのかな?二の腕切られたんだけど」

 包帯が巻かれている。

「出血が思ったよりあったみたいだけど、でもまぁ大丈夫ですって。神経まで達して無いから、すぐに治るそうよ。あなたも、真田さんも、二人とも楽器演奏に影響するような怪我は負って無いから、安心しなさい」

 芹歌は、ふぅ~、と大きく息を吐いた。
 何よりそれが一番心配だったからだ。

「どうですか?」

 神永に案内されて、刑事がやってきた。

 それから小一時間ほど、病室で事情聴取された。
 神永も元合唱団員として、傍で話を聞いて時々質問された。

 事情聴取が終わり、遅れた夕食を摂り終わった頃には、夜の8時を回ろうとしていた。
 神永が一晩付き添いたいと言ったが、病院側で断られた。

 完全看護付きだし、重病人な訳でも無い。
 それに、実花を家まで連れ帰らねばならない。

「神永君。本当にごめんね。色々ありがとう」
「いいえ。そんな遠慮はしないで下さい。僕がどれだけ心配したと思ってるんです?本当に心臓が縮まる思いでしたよ」

 泣きそうな彼の顔を見て、芹歌の胸が痛んだ。
 彼に対して何故か後ろ暗い気持ちが湧いて来て、芹歌の胸を刺す。

「ごめんなさい……」
 笑みを(つくろ)った。

 二人が帰った後、6人部屋の狭い一人分のスペースの中で、今日の事を思い返す。

 夢のような舞台。
 そして、夢から覚めた現実は、あまりにも恐ろしかった。

 山口は異常だ。
 元々理解しがたい人だと思っていたが、まさかあんな風に逆恨みして襲ってくるとは思ってもみなかった。

 何かと人のせいにする人ではあったが。
 彼は高校教師だ。そんな人が、と思う。

「具合はどうですかぁ?」
 看護師がカルテを持ってやってきた。

「あ、あちこち痛いです……」
「そう。大変だったわね。でも痛みどめ打ってあるから、それでも大分マシなのよ?」

 体温計を渡された。腋に挟む。

「なんか、詳しい事を聞かされてないんですけど、どのくらい入院するんですか?」
「そうね。3日くらいかな。骨折も無いし。ラッキーだったわね」

 腋からピーピーと小さい音が聞えて来たので、取り出した。
 見ると微熱だ。看護師に渡す。
 看護師はそれを確認して、体温計をケースにしまった。

「あの、看護師さん」
「なぁに?」
「あ、あの……、私と一緒に怪我した人に、逢いたいんですけど」
「え?それなら、退院の時とかでいいんじゃない?長くないんだし」
「そうなんですけど、でもできれば今……」
「今ぁ?駄目よ、そんなの」

 看護師は少し厳しい顔つきになった。

「面会できないほど、悪いんですか?」
「そんな事は無いけど……」
「就寝時間まで、まだありますよね?」
 芹歌は食い下がった。

「えーっと、浅葱さん……。すぐに逢えるようになるんだから、もう少し我慢しましょうよ。落ち着いてからでいいじゃない」

 (さと)すような口ぶりだ。
 非常識な事なのだろうか?
 でも、逢いたいと強く思う。

「大丈夫だっていくら言われても、心配なんです。だから、逢って確かめたいの」

 看護師は困ったように溜息をついた。

「お願いします……」
 芹歌は頭を下げた。

「そうは言っても、あなた自身、歩けるの?立てる?腰を強打したみたいだから、今日明日は無理なんじゃない?」
「行っていいなら、自分の力で歩いて行きます」

 芹歌はそう言うと、布団をめくって起きあがった。
 瞬間、腰に痛みが走った。
 全身も重い。だが、動かせない程では無い。

「ちょっと、駄目よ、無理しないで」
「でも、行きたいんです」

 頑固な芹歌に諦めたのか、
「しょうがないわね。ちょっと待ってて。車椅子持って来るから」と廊下に取りに出た。

 芹歌は安堵する。

(良かった……)

 看護師がすぐに車椅子を持ってきて、乗るのを手伝ってくれた。

「彼は一人部屋だから、上の階なのよ?そんな体で一人で自力って無理だから」

 看護師は「今回だけですからね」とブツブツ言いながら、芹歌の車椅子を押しだした。

 エレベーターに乗って、上の階へ行く。
 看護師が止まった病室の名札に『真田幸也』の名前が書かれていた。
 コンコンとノックして、看護師がそっと扉を開いて中を覗いた。

「真田さん……、起きてますか?」
 遠慮がちに尋ねている。

「はい……」
 静かな声が返ってきた。

「お客様ですよ」
 真田は看護師に押されて入って来た芹歌を見て、息を止めたように驚いた。

「どうしても、あなたに逢いたいってしつこくてね。暫く入院するんだから、今じゃなくてもいいのにって言ったんだけど」

 真田は芹歌に視線を止めたまま、看護師に「ベッドを上げて貰えませんか」と頼んだ。
 看護師はベッドのハンドルを回してから、終わったらコール鳴らしてね、と言って出て行った。

「芹歌……、どうして車椅子なんだ?まさか足が?」

 眉間に皺を寄せて心配そうに芹歌を見ている。
 芹歌は首を振った。

「腰を強打したらしくて、まだ痛くて一人でここまで来るのが無理で。トイレに行く程度なら平気なんですけど。私は下の病室だから」

 芹歌の話しに真田の眉間の皺が消えた。

「そうか。腕の方は?」
「そっちも大丈夫ですって。痛いけど」
 口の端を上げて笑った。

「来てくれて良かった。心配してたんだ。母さんは何も教えてくれなくてね」
「え?」

 芹歌は周囲を見回した。

「みんな帰ったよ。面会時間も終わったし」

「先輩……。取り敢えず、私も先輩も、楽器を演奏するのに心配な怪我はしてないって。母が教えてくれたんですけど……」

「そうか。俺も、自分の怪我が大した事ないってのは聞いたんだ。でも、芹歌の様子を全然教えてくれないものだから、ずっと心配してた」

 真田はそう言って、ジッと芹歌を見つめた。

「あの男、お前が伴奏してた合唱団の指揮者なんだってな。何がなんだか分からなくて、ただ、お前が襲われてたから助けに入ったんだが、警察の連中はしつこくて参った」

「しつこいって……」
 確かに、何度も同じ事を訊かれてウンザリはしたが。

「女一人に男二人だからな。痴情のもつれとか、疑ってたみたいだ」

「ええー?何ですかそれ。酷い。でも私にはそんな事言ってませんでしたけど」

「そうなのか。じゃぁ、何で俺にだけ……。それを聞いて、母さんが逆上しちゃってね。困ったよ。お陰で風当たりがキツい……」

 母が、向こうは取り込んでるとか言っていたのは、その事なのだろうか。
 そうだとしたら、本当にとんだ事だったと思うし、迷惑をかけてしまって本当に申し訳ないと思う。

「先輩、ごめんなさい。巻き込んでしまって……」

 芹歌は項垂(うなだ)れる。
 本当に、大事な人を巻き込んで怪我を負わせてしまった事が何より悲しい。

「気にするな。お前だって、被害者だ。好きでこうなったわけじゃないだろう?」
「でも……」
「大体な。俺を置いてさっさと帰ろうとするからだ」
「は?」

 芹歌は顔を上げた。
 少しふくれた顔が芹歌を見降ろしている。

「あの……、一緒に帰る約束とか、してましたっけ?」

 つい声が恐る恐るになってしまう。

「してない。だけど、あの流れなら待つものじゃないのか?」

 芹歌は溜息をつきながら首を小さく振った。
 言っている事が全然、解らない。

「なんか、どうしてそうなるのか解らないんですけど。それに、楽屋口へ行ったら、先輩は女性に囲まれて談笑してたじゃないですか。だから私、お邪魔かと思って。いつだって演奏後は、色々とお忙しいようですし」

 言いながら、嫌みになってる気がしてきて、苦い思いが喉元まで湧いてくる気がした。
 真田の顔色が変わった。表情も少し硬くなった。

「お前はいつだって、平気そうにしてるな。それがお前の答えなのか……」

「答えって……、何なんです?本当にさっきから、言いたい事が解らないんですけど」

 真田は黙って芹歌を見つめた。
 考え込んだり迷ったり、不安気だったり、そんな気持ちが彼の中で巡っているようだった。
 そんな真田を芹歌も黙って見ていた。

 一体自分は何しにここへ来たんだと思う。
 看護師の反対を押し切って、何日か待てば逢えるのに、わざわざ今来たのは何故なんだ。

 そう思ったら、涙がこぼれてきた。

「芹歌……。何故泣く」

 真田が慌てた。

「ご、ごめんなさい。よく解らないんですけど、先輩を見てたら出て来ちゃって。多分、つくづく、無事で良かったって安心したと言うか。本当に、無事で……」

 自分でもはっきりした理由は分からなかった。
 ただ急に切なくなったのだ。

「芹歌……、俺、もう耐えられないよ」
「え?」

 芹歌は驚いて涙越しに真田を見た。
 せつなそうな目が芹歌を捉える。
 胸の動悸がいきなり激しくなってきた。

「お前を愛してるんだ」

 唐突な言い方だった。

「ずっと前から……。でも我慢してた。自分で認めたく無かったのもあったし、お前とのいい関係を壊したく無かったからだ。だけどもう、耐えられなくなった。今日の演奏で、俺の堤防が決壊したようだ。告げずにはいられなかった」

「あ、あの……」

 顔が真っ赤になっているのではなかろうか。
 胸の中は時限爆弾でも入ってるんじゃないかと思うくらい、高鳴っている。

「お前の耳は、音楽しか聞えないのかな。それとも、その心は鉄か氷か?俺は確かに告げたのに、お前はまるで素知らぬ顔だ」

 心外な言われようだ。

「でもだって……。そんなのって。き、聞えてはいましたよ?ちゃんと。でも、だって、いっつも意地悪だし、女の人はたくさんいるし、私なんてただの伴奏者に過ぎないって思ってたから……。だから、あの時も、最高の演奏に感動して、それができた事で、感極まって言った言葉なのか、な、って思って、……その……」

 滑稽(こっけい)なほどうろたえた。
 真田のような人から言われて、それをそのまま信じられる方がおかしい気がする。

 はぁ~っと大きな息が真田の口から洩れた。

「もしかして、本気に受け取られて無かったって事なのか?」
「あ、あの……、本気、だったんですか?」

「当たり前だろうがっ!俺がそんな冗談言うかよ!大体、何人もの女と寝て来たが、愛してるなんて言った事は一度もないんだぞ。本気で無きゃ、言えるわけが無いだろうが!」

 芹歌は首を絞められたように、息が止まった。顔が真っ赤になる。

「お、おいっ、大丈夫か?芹歌?おい!」

 失神しそうだった。
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