第9話
文字数 2,406文字
「幸也 、おつかれー」
割れんばかりの拍手を受けて楽屋に戻って間もなく、片倉純哉が陽気な声で入って来た。
「……」
「おおっ、凄い花だな、相変わらず」
返事をしない幸也にお構いなしで、陽気に口笛を吹きながら花の匂いを嗅いでいる。
「お疲れ様でした~」
ノックと共に関係者たちが入ってきた。
「今日は本当に素晴らしい演奏でした。テクニックがとにかく素晴らしい。以前にも増して磨きがかかって、円熟されてきましたよね。聴衆もみんなウットリしてましたし。大成功ですよ」
真田は興奮して口が止まらない様子の連中に一瞥 くれると、深呼吸を始めた。
何度も吸っては吐く。
その様子に気付いた関係者たちは焦りの表情を浮かべた。
「いや、すみません、お疲れのところを。今日はこの辺で退散しますが、またいずれよろしくお願いします」
何人かは訳が分からないと言った顔をしたが、下っ端なのだろう。
上の連中に合わせるようにお辞儀をすると、揃って「失礼します」と出て行った。
「まったく、うるさくてかなわない。放っておいて欲しいといつも言ってるのに」
「まぁまぁ、いいじゃないの。喜んでくれてるんだからさぁ。批難されてる訳じゃなし」
「自分達も一度くらい人前で演奏してみればいいんだ。そうすれば、演奏前後の精神状態を理解できるものを」
「それは無理だと思うよ~。同じ体験した所で、分からない人は分からない。実際、僕には分からない」
にこにこと笑っている片倉を見て、真田は呆れ顔になる。
「だな……。お前みたいな能天気もいるからな」
「なんだよそれ。楽天的とか天真爛漫とか言い様があるんじゃないの?」
「はっ!物は言い様だな」
「相変わらず、辛辣 なやつ……」
「今に始まった事じゃない」
「それはそうだけどさ。まさか幸也、他でもそんな調子なんじゃないだろうね?」
おちゃらけていた顔が真剣になっていた。
「そうだな。ここまででは無いと思ってるが、どうだろうな?自分の事は分からない。それに、演奏の前後は著 しく機嫌が悪いんだ。特にこの数年、困った事にそれが顕著 だと自分でも感じてる」
片倉は一瞬ためらうような表情を浮かべてから「まさかスランプとか?」と言った。
その言葉が真田の胸に突き刺さった。
「よく分からない。弾けなくなったと言うわけじゃないしな。ただ気持ち良く弾けない。それに、最近富に感じるんだ。異邦人なんだなってね」
「何言ってんだよ~。最初から異邦人じゃないか」
「そうなんだが、俺が言ってるのはちょっとニュアンスが違う」
真田は小さく息を吐いた。
「ところで、チケット。ちゃんと渡ったんだよな?」
チラリと片倉を見やった。
「ああ。ちゃんと渡ってるよ。来てたしね」
「そうか。来てたか……」
「お前の所からだって、見えただろう?」
「ああ。でも本人かどうかまではな」
1階の15列ど真ん中。聴くには良いが見るには少し遠い。
まして客席の方が暗いのだから、本人かどうかなんて確認はできない。
「もうすぐ花を持って、ここへ来るんじゃないの?」
フッと笑みが浮かぶ。
純哉は本当に能天気だ。どうしてこんなに単純なんだろう。
それはコイツの美点だし、だからこそ親しく付き合えるのだが。
コイツの陽気さが少しでも自分にあったらな、と思う時が多々ある。
――コンコン
ノックの音にビクリとした。
「ほら。噂をすれば何とやらだ」
片倉はニンマリ笑うと、ドアまで歩いて扉を開けた。
「せんぱーい、お久しぶりでーす。今日はとっても素晴らしかったですよ~」
満面の笑みを浮かべて、中村久美子が立っていた。
「やぁ、いらっしゃい」
まるで自分の客のように片倉が声を掛けた。
「あ、純哉君」
なんだ、その馴れ馴れしい様子は。
想定外の人物の登場と馴れ馴れしい態度に、真田は思わず唇を噛んだ。
そんな真田の神経に触ったような雰囲気を感じたんだろう。
片倉が久美子に、
「沙織ちゃんと芹歌ちゃんは一緒じゃないの?」と質問した。
真田と片倉の最も知りたい事でもある。
「二人とも帰っちゃったわ。沙織は明日の授業の準備があるからって言ってたけど、先輩と会うのが何故か恥ずかしいって……。訳わかんないし。芹歌はいつもの事だけど、遅くなるとお母さんがね。うるさいから」
久美子は半ば睨 むような視線を投げかけて来た。
真田が芹歌の事を気にかけているのか否か、探りでもするように。
真田は置いてあるペットボトルを手にして口に付けた。ミネラルウォーターだ。
よく冷えていて喉に心地良い。それに少し気持ちが落ち着いた。
「今日の幸也の演奏、どうだった?」
片倉がにこやかな顔を久美子に向けた。
久美子は真田を一瞥 してから、片倉の方をみて笑った。
その様子が目の前の鏡に写っている。
「凄く良かったです。相変わらずの超絶技巧。誰もができる芸当じゃないですよね。ほんとに惚れぼれしちゃう」
まるで目の前の男がプレイヤーのようなやり取りだ。
真田は口角が軽く上がるのを感じた。
「で。音楽的にはどう思った」
鋭い口調を久美子に投げつけた。
久美子がびっくりしたように視線を片倉から真田に移した。
「良かったに決まってるじゃないですか」
真田は笑った。だが喜んでいるわけではない。
引きつっているかもしれない。
「お世辞なら、いらないが」
「お世辞なんかじゃありませんよ」
怒ったように軽く口を突き出す久美子を見て、どうやら本当にそう思っているらしいと悟った。
誰もが褒める。
ヨーロッパでもそうだった。
「お前はどう思う?」
片倉に振ると、掌を返しながら首をすくめるような仕草をした。
何と答えたら良いのか分からないのだろう。
能天気な男でさえ、手放しで褒める事をしない。
矢張り純哉には分かるんだ。
そしてもう一人。
きっと彼女にも分かった筈だ。
(浅葱芹歌……。俺のベストパートナー。なぜ来ないんだ……)
真田は空になっていたペットボトルをギュッと握りしめた。
割れんばかりの拍手を受けて楽屋に戻って間もなく、片倉純哉が陽気な声で入って来た。
「……」
「おおっ、凄い花だな、相変わらず」
返事をしない幸也にお構いなしで、陽気に口笛を吹きながら花の匂いを嗅いでいる。
「お疲れ様でした~」
ノックと共に関係者たちが入ってきた。
「今日は本当に素晴らしい演奏でした。テクニックがとにかく素晴らしい。以前にも増して磨きがかかって、円熟されてきましたよね。聴衆もみんなウットリしてましたし。大成功ですよ」
真田は興奮して口が止まらない様子の連中に
何度も吸っては吐く。
その様子に気付いた関係者たちは焦りの表情を浮かべた。
「いや、すみません、お疲れのところを。今日はこの辺で退散しますが、またいずれよろしくお願いします」
何人かは訳が分からないと言った顔をしたが、下っ端なのだろう。
上の連中に合わせるようにお辞儀をすると、揃って「失礼します」と出て行った。
「まったく、うるさくてかなわない。放っておいて欲しいといつも言ってるのに」
「まぁまぁ、いいじゃないの。喜んでくれてるんだからさぁ。批難されてる訳じゃなし」
「自分達も一度くらい人前で演奏してみればいいんだ。そうすれば、演奏前後の精神状態を理解できるものを」
「それは無理だと思うよ~。同じ体験した所で、分からない人は分からない。実際、僕には分からない」
にこにこと笑っている片倉を見て、真田は呆れ顔になる。
「だな……。お前みたいな能天気もいるからな」
「なんだよそれ。楽天的とか天真爛漫とか言い様があるんじゃないの?」
「はっ!物は言い様だな」
「相変わらず、
「今に始まった事じゃない」
「それはそうだけどさ。まさか幸也、他でもそんな調子なんじゃないだろうね?」
おちゃらけていた顔が真剣になっていた。
「そうだな。ここまででは無いと思ってるが、どうだろうな?自分の事は分からない。それに、演奏の前後は
片倉は一瞬ためらうような表情を浮かべてから「まさかスランプとか?」と言った。
その言葉が真田の胸に突き刺さった。
「よく分からない。弾けなくなったと言うわけじゃないしな。ただ気持ち良く弾けない。それに、最近富に感じるんだ。異邦人なんだなってね」
「何言ってんだよ~。最初から異邦人じゃないか」
「そうなんだが、俺が言ってるのはちょっとニュアンスが違う」
真田は小さく息を吐いた。
「ところで、チケット。ちゃんと渡ったんだよな?」
チラリと片倉を見やった。
「ああ。ちゃんと渡ってるよ。来てたしね」
「そうか。来てたか……」
「お前の所からだって、見えただろう?」
「ああ。でも本人かどうかまではな」
1階の15列ど真ん中。聴くには良いが見るには少し遠い。
まして客席の方が暗いのだから、本人かどうかなんて確認はできない。
「もうすぐ花を持って、ここへ来るんじゃないの?」
フッと笑みが浮かぶ。
純哉は本当に能天気だ。どうしてこんなに単純なんだろう。
それはコイツの美点だし、だからこそ親しく付き合えるのだが。
コイツの陽気さが少しでも自分にあったらな、と思う時が多々ある。
――コンコン
ノックの音にビクリとした。
「ほら。噂をすれば何とやらだ」
片倉はニンマリ笑うと、ドアまで歩いて扉を開けた。
「せんぱーい、お久しぶりでーす。今日はとっても素晴らしかったですよ~」
満面の笑みを浮かべて、中村久美子が立っていた。
「やぁ、いらっしゃい」
まるで自分の客のように片倉が声を掛けた。
「あ、純哉君」
なんだ、その馴れ馴れしい様子は。
想定外の人物の登場と馴れ馴れしい態度に、真田は思わず唇を噛んだ。
そんな真田の神経に触ったような雰囲気を感じたんだろう。
片倉が久美子に、
「沙織ちゃんと芹歌ちゃんは一緒じゃないの?」と質問した。
真田と片倉の最も知りたい事でもある。
「二人とも帰っちゃったわ。沙織は明日の授業の準備があるからって言ってたけど、先輩と会うのが何故か恥ずかしいって……。訳わかんないし。芹歌はいつもの事だけど、遅くなるとお母さんがね。うるさいから」
久美子は半ば
真田が芹歌の事を気にかけているのか否か、探りでもするように。
真田は置いてあるペットボトルを手にして口に付けた。ミネラルウォーターだ。
よく冷えていて喉に心地良い。それに少し気持ちが落ち着いた。
「今日の幸也の演奏、どうだった?」
片倉がにこやかな顔を久美子に向けた。
久美子は真田を
その様子が目の前の鏡に写っている。
「凄く良かったです。相変わらずの超絶技巧。誰もができる芸当じゃないですよね。ほんとに惚れぼれしちゃう」
まるで目の前の男がプレイヤーのようなやり取りだ。
真田は口角が軽く上がるのを感じた。
「で。音楽的にはどう思った」
鋭い口調を久美子に投げつけた。
久美子がびっくりしたように視線を片倉から真田に移した。
「良かったに決まってるじゃないですか」
真田は笑った。だが喜んでいるわけではない。
引きつっているかもしれない。
「お世辞なら、いらないが」
「お世辞なんかじゃありませんよ」
怒ったように軽く口を突き出す久美子を見て、どうやら本当にそう思っているらしいと悟った。
誰もが褒める。
ヨーロッパでもそうだった。
「お前はどう思う?」
片倉に振ると、掌を返しながら首をすくめるような仕草をした。
何と答えたら良いのか分からないのだろう。
能天気な男でさえ、手放しで褒める事をしない。
矢張り純哉には分かるんだ。
そしてもう一人。
きっと彼女にも分かった筈だ。
(浅葱芹歌……。俺のベストパートナー。なぜ来ないんだ……)
真田は空になっていたペットボトルをギュッと握りしめた。