第76話

文字数 4,042文字

「それで、今後、どういう流れで進めていくつもりなの?コンクールの事以外でも、色々と障害が多いでしょう。芹歌ちゃんのお母さんの問題が一番大きいけれど、あなたのお母さんだって、ちょっと難しいんじゃなくて?」

 真田の母親の事だ。

「僕の母の事は心配いりません。まぁ、ギャァギャァと煩いですが、何より僕を尊重してくれているので、僕にとって芹歌は必要な人間なんだとわかれば、文句は言わなくなります。だからこそ、コンクールで優勝して貰わないと。優勝すれば、もう、ぐうの音も出ませんよ。まぁ何にせよ、文句は言わせませんが」

「まぁ。真田君は強いのね。頼もしいわ。ねぇ?芹歌ちゃん。この分なら、嫁姑問題で苦しむ事もなさそうね」

 渡良瀬は感心したように言っているが、実際問題、そう上手くいくものなのかと芹歌は危ぶんでいる。
 ただ、もし嫁姑の間で何か問題が起こっても、この人はきっと私を守ってくれるに違いない、とは思っていた。

「それで、結婚と渡欧の件はいつ話すの?」

「渡欧の件に関しては、家族が旅行から戻って来て落ち着いたら話すつもりです。結婚の件は、芹歌の本選の少し前ごろと思ってます。あまり早くに伝えてアレコレ言われても鬱陶しいですから」

「そうね。何より、芹歌ちゃんの方が大変そうですものね。こちらの方はいつ?」

 二人は顔を見合わせた。

「その件については、まだこれからです。何よりコンクールの方が先ですから。こちらの対策を早く練らないと」

「そうね。まずはそれね」
 自然と三人の顔が引き締まる。

「事務局が開いたら、すぐに芹歌ちゃんの受験登録、してくるわね。それまでに書類を揃えておくわ。だから取り敢えずは、何を弾くのか決めておかないとね。それは考えてある?」

 芹歌は頷いた。

「1次予選では、バッハとベートーベンを弾こうかと。2次予選ではリストとドビュッシーを。本選のソロはショパンで、協奏曲はチャイコフスキーにしたいと思うんですが、どうでしょう?」

 コンクールは、それぞれ特徴があり、山際の特徴は幅広い年代の曲を弾く事にある。
 古典から近現代に渡って、一通りそれなりの技術と音楽性を問われる。

 1次予選では、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの中から二人各1曲を自分で選ぶ。古典時代を中心としている。
 ベートーベンは古典とロマン派の境にあたるが、ここでは古典の括りに入っている。

 2次予選は、ロマン派から一人、近現代から一人を選ぶ。
 本選は自由選択だ。

「そうね。上手くバランスは取れてると思うけど、選曲次第かしら。真田君はどう思う?」

「僕も選曲次第じゃないかと。ただ、本選が少し弱い気がしなくもない。コンチェルトをチャイコにしたのは、芹歌に合ってる気はしますが、これ、1番なんだよな?」

 芹歌は頷いた。

「コンチェルトは凄く迷ったんですけど、弦楽器の色が濃いチャイコが自分としては弾きやすいかと思ったので。ソロがショパンもちょっと弱い気はしますが、だからこそ、予選で難曲をやろうかと。バッハは平均律22番、ベートーベンはピアノソナタ15番、リストはメフィスト・ワルツ1番、ドビュッシーは少し難易度を落として月の光を。で、ショパンは華麗なる大ポロネーズを弾こうかと」

「おい、大丈夫か?お前、熱でもあるんじゃないのか?」

 真田が呆れたように言った。
 渡良瀬の方は水でも浴びせられたような顔をしている。

「変ですか?」

「変じゃない。だが、そこまで難曲ばっかり持ってきて大丈夫なのかよ。時間が無いんだぞ?それこそ、超絶技巧で押して音楽的には中途半端になりかねないじゃないか」

 1次予選は月末に、2次予選は2月末、そして本選が3月末だ。
 それぞれ1カ月しか時間が無い。

 このスケジュールだったら、予選は手堅い曲を選んで、さらう程度。
 同時進行で本選の練習をするべきだろう。

「大体、1次で2曲とも難曲を選ぶなんて、どうかしてるぞ。田園の方なんか、曲自体が長いじゃないか。練習時間もそれだけ要するだろう。2次のリストだって、ここまで難しい曲じゃなくていいだろうに。最後のコンチェルトの練習に、どれだけ時間がかかると思ってるんだよ。お前、卒業コンチェルトで少しはわかってるだろうに」

 国芸の卒業課題の1つが、オーケストラとの協奏曲である。
 芹歌はその時はモーツァルトのピアノコンチェルトをやった。

「そうよ、芹歌ちゃん。真田君の言う通りだわ。バッハの平均律をやるにしたって、22番じゃなくてもいいと思うし、ベートーベンだって、田園じゃなくて、そうね、26番はどう?告別。こっちの方がはっきりしてて良いんじゃなくて?まぁ少し長いけど」

 芹歌は少し考えて、ベートーベンの方は26番で良いような気がしてきた。

「じゃぁ、ベートーベンは26番で。でもバッハは22番で行きたいと思います。本選がメジャー過ぎる曲だけに、予選でしっかり稼いでおきたいんです。だから、リストもメフィストにしました。その代りドビュッシーは少し難易度を下げたので。曲調がなるべく異なる曲を選曲したつもりです。バッハは元々得意なのでいけると思いますし」

 芹歌としては、最初の予選でガツンといきたかった。
 最初が肝心だと思っている。

「解った。お前の戦略が。それなら尚更、バッハとベートーベンは気が抜けないぞ。しっかり決めないと選曲した意味がなくなる」

 芹歌はにっこり微笑んだ。
 矢張り、真田は解ってくれた。それが嬉しい。

「だけど芹歌ちゃん。バッハとドビュッシーは、あなたのピアノに合ってると思うわ。ショパンも大好きなだけにまぁまぁだけど、ベートーベンよりはモーツァルト、リストももう少し難易度を下げてもって思うんだけど。リストなんて、あなたにもっと合う曲があるじゃない」

 とても不安そうな顔をしている。

「恵子先生、似たような曲調ばかり弾いても意味がないですよ。芹歌はそういう事を考えて選曲したんです。実力が出し切れれば、逆にこの選曲は効を奏すと僕は思いますよ」

 真田の口調は力強かったが、渡良瀬は尚も心配そうだ。

「真田君の言う事はわかるわ。その通りだと思うけど、如何せん時間が。それに、優勝を逃して困るのは真田君でしょう?いいの?もう少し勝算の高い戦略じゃなくて。これじゃぁ、まるで一か八かって感じじゃないの」

 渡良瀬の言葉に、真田はアハハと陽気に笑った。

「それは言えてますね。だけど、本人がやるって言ってるんだから、やらせるしかないでしょう。その変わり、途中で泣きごとなんて許しませんよ。先生も、そのつもりで厳しく指導して下さい」

 厳しい顔を向けられて、芹歌は肩を竦めた。

「そうね。それしかないわね。じゃぁ、もうお正月休みなんて呑気な事は言ってられないわ。明日からウチへレッスンに来る事。大学が始まったら大学のレッスン室でね。で、お教室の方は、どうするつもり?」

 それが一番悩める事だった。
 だが、無責任に辞める事はできない。

「教室の方は、今年度いっぱいは続けます。ただ来年度以降は、余所へ移って貰わないとならないので、他の教室を紹介しないと……」

 途中で投げ出す事になるのが心苦しい。
 みんな、余所では大変だから芹歌の所へ来たのだ。
 移った先でやっていけるのか心配だ。

「そうね。移動先は、私も合間を見て考えておくわ。発表会で大体、皆の事はわかってるから、相性の良さそうな教室を探してみましょう。だから、あなたはコンクールの方に集中してちょうだい」

「すみません。ありがとうございます」

「じゃぁ、3時くらいまでに帰宅しないとならないわけね。伴奏の仕事の方は?」

「そちらは、今年はまだ入れていないので、このままで」

「そうね。じゃぁ、取り敢えず大体は決まったから、これから浅葱家へ行きましょうか」

「は?」
 渡良瀬は当然のような顔をして腰を上げた。

「あ、あの?うちへ行くんですか?先生も?」
「そうよ。決まってるじゃないの。コンクールに出る話しを、お母さんにちゃんと報告しないとね」
「え?でも……」

 受験申込をして、予選が近くなったら言うつもりでいた。
 芹歌は真田を見た。
 彼も驚いた顔をしている。と言うことは、やはり渡良瀬の独断か。

「二人ともどうしたの?戸惑うような顔をして」

「あ、いえ、言うのはもう少し先のつもりだったので……」

「何言ってるの。決まったらさっさと言わないと。明日から大忙しなのよ?毎日朝から出かけるのに、親が不審に思わないわけないでしょう。大丈夫。私が上手く言うから。だから、真田君は来ないのよ。結婚の件は、もっと先でいいんだから。わかったわね?」

 芹歌と真田は顔を見合わせた後、「はい」と答えた。

 三人は渡良瀬が呼んだハイヤーに乗り込み、先に真田家で真田だけ下ろして浅葱家へ向かった。

「芹歌ちゃん。これから大変よ?でも、やっと決意してくれたんだから、私はできるだけ協力するから。こうなることをずっと望んでたのよ。だから全力を尽くすわよ」

 タクシーの中で芹歌の手をギュッと握りながら、興奮した面持ちだ。

「ありがとうございます。本当に先生がいらっしゃらなかったら、こんな挑戦をしようとも思いませんでした。ずっと期待して頂いていたのに、不肖の弟子で。今度こそ、御恩返しできるように私も全力を尽くします」

 渡良瀬の手は大きくて温かかった。
 芹歌はこの教師に憧れて国芸に入学したのだった。

 だから担当教授が渡良瀬になった時には、狂喜したものだった。
 渡良瀬はクールな面を持ちながらも、自分が担当した生徒には才能の如何に関わらず、親身に世話を焼く。

 だからこそ、ずっと見捨てずにいてくれた事を感謝していた。
 本当に恩返しをしなければと思う。

 ハイヤーが門前に着き、芹歌は緊張した。
 母はどんな反応を示すだろう。

 どうして今さらと思うに違いない。
 もしかしたら、反対するかもしれない。

 それでも芹歌は怯まずに突き進もうと思う。
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