第31話
文字数 3,595文字
レッスン室に入って来た神永は、少し怖い顔をしていた。
一緒に映画を見た翌日のレッスンの時には、普段と変わらず、何事も無かったような様子でレッスンを受け、恒例化した浅葱家での食事を済ませて、普通に帰宅していったのだが、今週は様子が違った。
だが芹歌は、そんな彼の様子には全く気付きもしないような顔で彼を迎えた。
一生徒の内面にまで踏み込む権利もなければ余裕もない。
小さい子ども相手なら気にするが、相手は一人前の大人だ。
レッスンは淡々と進んで行った。普段なら、もう少し仄々 とした雰囲気だ。
それは神永自身が仄々としていたからだ。
こんな風に事務的で余所余所しい雰囲気は初めてだった。
理由は多分、合唱団の事だろう。
レッスンが終わる頃に、「先生、本当に合唱団辞めるんですか」と気難しい顔で問いかけて来た。
「先週言ってたトラブルって、この事だったんですね」
「……」
あの後、理事長から電話が掛って来た。
もう、山口と一緒には無理なので、辞めますとはっきり伝えた。
考え直してくれないかと言われたが、もう決めたからと拒絶した。
「昨日、見知らぬピアニストが山口さんと一緒に来て、『浅葱さんは辞めたので』って、それだけ言って練習が始まったけど、合唱祭でやる新しい曲を披露されてビックリしました。何ですか、あれは。あんな曲をやらされるなんて、みんな非難轟々 ですよ。先週のトラブルって、きっとこの事に違いないってすぐに分かりました」
矢張り、団員達も納得いかないのだろう。
素人とは言っても、合唱経験は豊富だ。
山口はクラシックばかりしか知らないと思っているようだが、実際にはそんな事はない。
前の指揮者の時にも現代音楽は何度も歌っている。
「先生、辞めないで下さい。今までだって、先生がいたから皆、やれてたんです。昨日来た伴奏の人なんか、全然駄目です。曲も訳が分からなければピアノも訳が分からない。全然、歌えません。これまでいかに先生が、歌いやすいように弾いてくれてたのか、改めて知った思いです」
熱心な口ぶりに、少し胸が痛んだ。
団員達の事を思えばこそ、芹歌だって今まで我慢していたようなものなのだ。
だから、神永の言う事は分かる。
だがもう無理だ。
芹歌は神永の視線を避けるように俯いた。
「ごめんなさい。あなたの言う事は凄くよく分かるけど、でももう駄目なの。もう、きっぱり辞めちゃったから」
「そ、そんなの、撤回すれば大丈夫ですよ。理事長だって本当は芹歌さんの方が良いって思ってるに違いないですし。芹歌さんが撤回すれば……」
神永の言葉が終わらないうちに、首を大きく振った。
「もう、決めた事なのよ。誰に何と言われようと、私は戻らないから」
芹歌は睨みつけるように神永を見た。
神永は竦 んだ。
「芹歌さん……。先週、凄く泣きましたよね。あれだけ泣いたせいで、スッキリしちゃったのかな。あれで、きっぱりと割り切っちゃったのかな……」
どういう訳か、神永は悲しそうな顔をしている。
捨てられそうな子犬のような目だと思った。
どうしてそんな目で私を見るの?
「僕……、あの時、今にも泣きそうな芹歌さんを見て……。思いきり泣いた方がいいって思ったんです。だけど、そんな事を言っても人前で泣けないだろうから、悲しい映画に連れてったんですよ。泣いて下さい、なんて言わなきゃ良かった……」
そうだったのか。
芹歌を気遣っての事だろうと思ってはいたが。
「神永君。それは誤解よ。あの時、思いきり泣いて確かにスッキリはしたけれど、それと辞める事は関係ないの。もう、公民館を出た時点でキッパリと決めていた事だから。映画に行こうが行くまいが、泣こうが泣くまいが結果は同じ」
「どうしてそこまで……。山口さんのあの曲は酷過ぎるし、だから芹歌さん、反対されて、それで悶着になったんでしょう?山口さんの横暴は今に始まった事じゃないから、いい加減、キレてしまったのも分かるけど、だからって僕たちを見捨てるんですか?」
芹歌の唇がキュッと結ばれる。
団員達には済まないと思っている。
だが、芹歌は合唱団の指導者でも無ければ管理者でもない。
合唱団に対する責任は芹歌には無い。
彼らに対する同情だけで、もう続けて行く事は無理なのだ。
人として、音楽家として、あれだけ侮辱されて、尚、彼の言う通りの伴奏なんて死んでも嫌だ。
仕事にしているのだからプロだが、仕事だからと言って全ての誇りを擲 つべきだとは思わない。収入に困っているならいざ知らず、そういう訳でもないのだから。
「僕、合唱団を辞めますよ」
「え?」
「あなたがいない合唱団なんて、意味が無い」
「ちょ、ちょっと待って。何を言ってるのよ。歌うのが好きで入団したんでしょうに」
神永の突然の発言に面食らった。
「そうです。でも、山口さんは駄目だ。最初はビックリして、こんな人もいるんだな、って思うようになりました。でも、何て言うか、ずっと不完全燃焼な感じがあったと言うか。昔からのメンバー達の話しを聞くと、尤もだって思ってました。だから、芹歌さんがいなかったら、すぐに辞めていたと思います。他のメンバーだって多分同じです」
どうしてこんな風になってしまうのだろう。
自分一人が我慢さえすれば、全て丸く収まるのだろうか。
「そんな……悲しい顔をしないで下さいよ」
そう言う神永の方が余程悲しそうな顔をしている。
「僕、あなたを苦しめるような事を言ってるのかな」
「……あなたに、歌う事を辞めて欲しくないだけよ」
「そう思ってくれるなら……」
「駄目」
首を振る。
「歌うだけなら……。ここでも出来ます」
「でも合唱が好きなんでしょう?」
「ええ。でも、ピアノも大好きだし、ここで歌うのも好きです。あなたに聞いて貰えるのが何より嬉しい」
その言葉に、芹歌の胸がドキンと波打った。
「この間の発表会の時。…言いましたよね?あなたを想って弾いたって。あの時、芹歌さんを想う事で、凄く集中して気持ち良く弾けたんです。多くの拍手を貰って、びっくりしました。嬉しかった。音楽って、芸術って、こういう事なんだなって。なんか生意気な事を言ってますね、僕……」
自嘲ぎみに笑っている。
芹歌は、どう受け止めたら良いのか混乱していた。
「神永君……」
うろたえている自分がいる。
どこを見たら良いのか分からなくて、落ち着かない。
「すみません。先生に対してこんな事を言って。でも、何て言うか、僕にとって芹歌さんは、他の人とは違うんです。ずっと一人で生きて来て、色んな事があって……」
神永は少し逡巡するように、言葉を繋いだ。
「仕事も物凄く大変だったんです。介護の方ですけど。そんな中で合唱の練習に出れる日が楽しみで。なかなか行けないのが悲しかった。参加してみると山口さんが変わってる人で。でも芹歌さんの存在が心をホッとさせてくれていたと言うか……」
「神永君……。ありがとう。私思うんだけど……。他の合唱団を探すといいかもしれない。規模は少し小さくなるかもしれないけど、合唱が好きなら、それでもいいんじゃないかな」
我ながら妙案だと思う。
山口のような指揮者の所より、遥かにマシだろう。
勿体ない気もするが、いずれ時期を見て、もっと良い合唱団に移籍すれば良い。
神永は、少し呆気にとられたような顔をしたが、すぐに真剣な眼差しになった。
「芹歌さん、他にも伴奏の仕事で行かれた事あるんですよね?その中でお勧めとかあるんですか?」
首を軽く振る。残念ながら無い。
良い合唱団ならあるにはあるが、対象に彼は入らない。
合唱団は市井には、多くある。
だがサークルと言った感じで少人数ばかりだ。
だからこそ、市民合唱団に入団するとなかなか辞められないのだ。
規模は小さいなら小さいなりに、ハーモニーを楽しむ事ができるが、コーラスの醍醐味は矢張りそれなりの人数が揃っていないと味わえない。
だが、当面の間、小規模でも自分に合った場所で歌うしかない。
「いずれ、都民合唱団の方で募集が出た時に応募するといいわ。それまでは、どこかで繋いで……」
「嫌ですね」
きっぱりとした口調だ。
「その辺の合唱団で歌うくらいなら、どこにも入らない方がマシです。都民合唱団は、芹歌さんが言うように、募集が出たら応募しようと思います。でも、繋ぎでどこかで歌うのはごめんです」
「そう……。分かったわ。なら、好きなようにすればいい。あなた自身の事なんだし」
もう、引き止めるのは止めようと思う。
自分だってどう言われても決意は変わらないのだから。
この人も、見かけに寄らず頑固な人のようだ。
「じゃぁ、歌のレッスンの方もよろしくお願いします。。都民合唱団にいつでも入団できるように、鍛えておかないとなりませんからね」
気難しかった顔に笑顔が生じている。
やれやれと、芹歌はやっとホッとした。
一緒に映画を見た翌日のレッスンの時には、普段と変わらず、何事も無かったような様子でレッスンを受け、恒例化した浅葱家での食事を済ませて、普通に帰宅していったのだが、今週は様子が違った。
だが芹歌は、そんな彼の様子には全く気付きもしないような顔で彼を迎えた。
一生徒の内面にまで踏み込む権利もなければ余裕もない。
小さい子ども相手なら気にするが、相手は一人前の大人だ。
レッスンは淡々と進んで行った。普段なら、もう少し
それは神永自身が仄々としていたからだ。
こんな風に事務的で余所余所しい雰囲気は初めてだった。
理由は多分、合唱団の事だろう。
レッスンが終わる頃に、「先生、本当に合唱団辞めるんですか」と気難しい顔で問いかけて来た。
「先週言ってたトラブルって、この事だったんですね」
「……」
あの後、理事長から電話が掛って来た。
もう、山口と一緒には無理なので、辞めますとはっきり伝えた。
考え直してくれないかと言われたが、もう決めたからと拒絶した。
「昨日、見知らぬピアニストが山口さんと一緒に来て、『浅葱さんは辞めたので』って、それだけ言って練習が始まったけど、合唱祭でやる新しい曲を披露されてビックリしました。何ですか、あれは。あんな曲をやらされるなんて、みんな
矢張り、団員達も納得いかないのだろう。
素人とは言っても、合唱経験は豊富だ。
山口はクラシックばかりしか知らないと思っているようだが、実際にはそんな事はない。
前の指揮者の時にも現代音楽は何度も歌っている。
「先生、辞めないで下さい。今までだって、先生がいたから皆、やれてたんです。昨日来た伴奏の人なんか、全然駄目です。曲も訳が分からなければピアノも訳が分からない。全然、歌えません。これまでいかに先生が、歌いやすいように弾いてくれてたのか、改めて知った思いです」
熱心な口ぶりに、少し胸が痛んだ。
団員達の事を思えばこそ、芹歌だって今まで我慢していたようなものなのだ。
だから、神永の言う事は分かる。
だがもう無理だ。
芹歌は神永の視線を避けるように俯いた。
「ごめんなさい。あなたの言う事は凄くよく分かるけど、でももう駄目なの。もう、きっぱり辞めちゃったから」
「そ、そんなの、撤回すれば大丈夫ですよ。理事長だって本当は芹歌さんの方が良いって思ってるに違いないですし。芹歌さんが撤回すれば……」
神永の言葉が終わらないうちに、首を大きく振った。
「もう、決めた事なのよ。誰に何と言われようと、私は戻らないから」
芹歌は睨みつけるように神永を見た。
神永は
「芹歌さん……。先週、凄く泣きましたよね。あれだけ泣いたせいで、スッキリしちゃったのかな。あれで、きっぱりと割り切っちゃったのかな……」
どういう訳か、神永は悲しそうな顔をしている。
捨てられそうな子犬のような目だと思った。
どうしてそんな目で私を見るの?
「僕……、あの時、今にも泣きそうな芹歌さんを見て……。思いきり泣いた方がいいって思ったんです。だけど、そんな事を言っても人前で泣けないだろうから、悲しい映画に連れてったんですよ。泣いて下さい、なんて言わなきゃ良かった……」
そうだったのか。
芹歌を気遣っての事だろうと思ってはいたが。
「神永君。それは誤解よ。あの時、思いきり泣いて確かにスッキリはしたけれど、それと辞める事は関係ないの。もう、公民館を出た時点でキッパリと決めていた事だから。映画に行こうが行くまいが、泣こうが泣くまいが結果は同じ」
「どうしてそこまで……。山口さんのあの曲は酷過ぎるし、だから芹歌さん、反対されて、それで悶着になったんでしょう?山口さんの横暴は今に始まった事じゃないから、いい加減、キレてしまったのも分かるけど、だからって僕たちを見捨てるんですか?」
芹歌の唇がキュッと結ばれる。
団員達には済まないと思っている。
だが、芹歌は合唱団の指導者でも無ければ管理者でもない。
合唱団に対する責任は芹歌には無い。
彼らに対する同情だけで、もう続けて行く事は無理なのだ。
人として、音楽家として、あれだけ侮辱されて、尚、彼の言う通りの伴奏なんて死んでも嫌だ。
仕事にしているのだからプロだが、仕事だからと言って全ての誇りを
「僕、合唱団を辞めますよ」
「え?」
「あなたがいない合唱団なんて、意味が無い」
「ちょ、ちょっと待って。何を言ってるのよ。歌うのが好きで入団したんでしょうに」
神永の突然の発言に面食らった。
「そうです。でも、山口さんは駄目だ。最初はビックリして、こんな人もいるんだな、って思うようになりました。でも、何て言うか、ずっと不完全燃焼な感じがあったと言うか。昔からのメンバー達の話しを聞くと、尤もだって思ってました。だから、芹歌さんがいなかったら、すぐに辞めていたと思います。他のメンバーだって多分同じです」
どうしてこんな風になってしまうのだろう。
自分一人が我慢さえすれば、全て丸く収まるのだろうか。
「そんな……悲しい顔をしないで下さいよ」
そう言う神永の方が余程悲しそうな顔をしている。
「僕、あなたを苦しめるような事を言ってるのかな」
「……あなたに、歌う事を辞めて欲しくないだけよ」
「そう思ってくれるなら……」
「駄目」
首を振る。
「歌うだけなら……。ここでも出来ます」
「でも合唱が好きなんでしょう?」
「ええ。でも、ピアノも大好きだし、ここで歌うのも好きです。あなたに聞いて貰えるのが何より嬉しい」
その言葉に、芹歌の胸がドキンと波打った。
「この間の発表会の時。…言いましたよね?あなたを想って弾いたって。あの時、芹歌さんを想う事で、凄く集中して気持ち良く弾けたんです。多くの拍手を貰って、びっくりしました。嬉しかった。音楽って、芸術って、こういう事なんだなって。なんか生意気な事を言ってますね、僕……」
自嘲ぎみに笑っている。
芹歌は、どう受け止めたら良いのか混乱していた。
「神永君……」
うろたえている自分がいる。
どこを見たら良いのか分からなくて、落ち着かない。
「すみません。先生に対してこんな事を言って。でも、何て言うか、僕にとって芹歌さんは、他の人とは違うんです。ずっと一人で生きて来て、色んな事があって……」
神永は少し逡巡するように、言葉を繋いだ。
「仕事も物凄く大変だったんです。介護の方ですけど。そんな中で合唱の練習に出れる日が楽しみで。なかなか行けないのが悲しかった。参加してみると山口さんが変わってる人で。でも芹歌さんの存在が心をホッとさせてくれていたと言うか……」
「神永君……。ありがとう。私思うんだけど……。他の合唱団を探すといいかもしれない。規模は少し小さくなるかもしれないけど、合唱が好きなら、それでもいいんじゃないかな」
我ながら妙案だと思う。
山口のような指揮者の所より、遥かにマシだろう。
勿体ない気もするが、いずれ時期を見て、もっと良い合唱団に移籍すれば良い。
神永は、少し呆気にとられたような顔をしたが、すぐに真剣な眼差しになった。
「芹歌さん、他にも伴奏の仕事で行かれた事あるんですよね?その中でお勧めとかあるんですか?」
首を軽く振る。残念ながら無い。
良い合唱団ならあるにはあるが、対象に彼は入らない。
合唱団は市井には、多くある。
だがサークルと言った感じで少人数ばかりだ。
だからこそ、市民合唱団に入団するとなかなか辞められないのだ。
規模は小さいなら小さいなりに、ハーモニーを楽しむ事ができるが、コーラスの醍醐味は矢張りそれなりの人数が揃っていないと味わえない。
だが、当面の間、小規模でも自分に合った場所で歌うしかない。
「いずれ、都民合唱団の方で募集が出た時に応募するといいわ。それまでは、どこかで繋いで……」
「嫌ですね」
きっぱりとした口調だ。
「その辺の合唱団で歌うくらいなら、どこにも入らない方がマシです。都民合唱団は、芹歌さんが言うように、募集が出たら応募しようと思います。でも、繋ぎでどこかで歌うのはごめんです」
「そう……。分かったわ。なら、好きなようにすればいい。あなた自身の事なんだし」
もう、引き止めるのは止めようと思う。
自分だってどう言われても決意は変わらないのだから。
この人も、見かけに寄らず頑固な人のようだ。
「じゃぁ、歌のレッスンの方もよろしくお願いします。。都民合唱団にいつでも入団できるように、鍛えておかないとなりませんからね」
気難しかった顔に笑顔が生じている。
やれやれと、芹歌はやっとホッとした。