第109話
文字数 2,887文字
全てが終わった。
コンクール終了後、受賞者の記念コンサートが開かれた。
ソリストとして初めてのコンサートだ。
チケットはソールドアウト。
山際初の日本人女性の受賞と言う事と、真田幸也の婚約者と言う事で、世間から大きな注目を集めた。
全く、あの後は大騒ぎだった。
新聞や雑誌など、多くのメディアが殺到して、その後の紙面を賑わせた。
週刊誌やスポーツ紙などは、芹歌の過去の経歴を取り上げ、父親の死や、その後の生活などの苦しみから、真田によって抜け出せたような、おとぎ話のヒロインのような書かれ方をされてウンザリした。
音楽雑誌では、コンクールの1次からの批評や、当日の演奏内容、指揮者の話しやコンサートマスターの感想など、詳細な記事になっていて非常に参考になった。
特に原道隆の批評は感動した。
原はオケリハの前に渡された演奏CDを聴いた時から期待していたと言う。
オケリハで実際にやってみて、その期待は高まった。
どの候補者達もテクニックはしっかりしているし、オケに合わせながら自身の音楽を表現していたが、浅葱さんほどオーケストラと一体になって音楽を奏でられる人はいなかった、と。
更に本番では、一層深く音楽世界に入り込み、オーケストラもその音楽の中に引き込まれていった。
一緒に夢の世界にいるようだったと書かれてあるのを見て、芹歌はあの時の事を思い出し、恍惚とした気分が蘇って来る気がした。
「演奏が終わった時、原さんが芹歌を抱きしめたのを見て、もうこれは完全優勝だって思ったよ。ただ、ちょっと妬けたけどね。俺の芹歌が他の男に抱きしめられてるのを見るのは、あまりいい気はしないから」
二人で祝杯をあげている時に真田が言った。
芹歌は呆れたように微笑む。
「だからって、あなたまで舞台の上で、あれは無いわ~」
大勢が見ている舞台上で、いきなり抱きしめられて面食らった。
共に演奏した後の事なら分かるが、そうではないのだから。
「仕方ないだろう?誰より俺が、一番に抱き締めたかったのに、原さんに持ってかれて、その後、コンマスもお前を抱きしめてたよな。でもって、楽屋では恵子先生に先を越され、仕方ないと待ってたら、中村さん達だ。で、お母さん……。なんなんだよ。すっかり俺の出番が無くなっちゃったじゃないか。だから原さんに催促されてさ。もう我慢ができなくなったんだよ。あの人、全てお見通しだったんじゃないのかな?さすが名指揮者は違うね」
まるで神通力でもあるような言いぶりだ。
だが真田の言う事も分かる。
芹歌自身も、正直なところ同じ気持ちだった。
誰よりも先に、一番に抱きしめて欲しかった。
ただ、舞台上では仕方が無い。
楽屋では、真っ先に渡良瀬が飛びついて来てビックリして戸惑った。
あの時、それを先んじて真田に来て欲しかったのに、と内心で思っていたのだった。
「幸也さんが、恵子先生よりも先に来ないから悪いんじゃない。あなたの方が足は速いんだし、もっと全速力で来てくれれば良かったのよ」
少しだけ、恨み節で言ってみる。
「それは悪かったな。だけどあの時はな。驚くほど、恵子先生の足が速かったんだよ。あの先生、絶対に、俺より先に行くつもりで走ってたに違いない。抜きんじたかったとしか思えないよ。正直、かけっこのような状況になってるのに気付いて、それが滑稽に思えてしまって、最後は失速しちゃったのさ」
言い訳なのか、本当の事なのか、よくわからないが芹歌は可笑しくなってきて笑った。
「嘘じゃないぞっ」
睨むような顔に、「わかってるし」と答える。
授賞式が終わった時には、もう精も根も尽き果てて、どこかで祝杯をあげようと言う周囲の声を断って、母と神永と真田と共にタクシーで帰宅した。
神永と真田は二人を家へ見送った後、そのままタクシーに乗り合わせて帰っていった。
二人とも一言も口をきかずに別れたらしい。
翌日、都内のホテルで優勝祝賀パーティが催された。
渡良瀬が、「必ず優勝する」と断言した真田の言葉を信じて、前もって会場を押さえておいたのだった。国芸の教師たちを始め、大勢が参加した。
そしてその晩、同じホテルの一室で、真田と二人で祝杯をあげた。
やっと二人だけの時間が持てて、芹歌は心の底から安堵した。
「あなたには、感謝してもし尽くせない……」
真田の腕の中で、そう呟く。
「馬鹿だな。感謝だなんて。俺はただ、お前を思ってしただけだ。自分の出来る事をね。それに、お前にいい演奏をして欲しかった。折角良いものを持っているのに、発揮できずにいるのを傍で見てるのは、逆に辛いものがある」
「うん……、そうね。それは、わかるかも……」
芹歌が真田と同じ立場だったら、きっと同じように思うだろう。
「芹歌が……、本当に感謝してもし尽くせないのは、あいつだろう?」
芹歌はピクリと体を震わせた。
祝賀会も終焉に近づいた頃、芹歌と真田は別室に呼ばれた。
不思議に思って行ってみると、そこには実花と神永がいた。
二人とも祝賀会に来ていて、さっきまで一緒に談笑していたのに、いつの間に、と思う。
「二人にね。話しがあるのよ」
芹歌と真田は顔を見合わせた。
もしかして、結婚の件だろうか。コンクールも無事に終わった事だし、もう何の憂いもなくその件について話し合える。
渡欧に関しては今後の生活についてしっかりと決めておかねばならない。
「まず、二人の結婚についてだけど、好きにしていいわ。お母さんはもう、何も言いません。二人とも立派な大人ですものね」
「お母さん、ありがとう」
「ありがとうございます」
笑顔になる芹歌の隣で、真田は深々と頭を下げた。
「色々とご心配でしょうが、絶対に彼女を幸せにします。不幸になんてしませんから、安心して下さい」
実花は微かに笑った。
「そうね。そう信じるわ。最初は、こんなにハンサムで人気者の男性なんだから、周囲が放っておかないだろうし、だから芹歌が辛い思いをするんじゃないかって心配だったけど、どうやらそれも杞憂のようだと分かってきたし……。あなたが誰よりも芹歌を大事に想ってくれてる事が伝わったから。だから、芹歌をお任せする事にしたの」
「ありがとうございます」
芹歌は喜びが胸に満ちてくるのを感じた。心のつかえが取れた思いだ。
反対はしないが賛成もしない、といった状況になるのではないかと危惧していたが、こうして認めてくれた事が、矢張り何より嬉しい。
「それからね。私自身の事なんだけどね。私は日本に残るわ」
「え?残るって?私たちと一緒に渡欧しないって事?」
「そうよ。あなた達の気持ちは嬉しいけれど、私は日本で暮らしたいの」
芹歌は自分の希望を語る実花に、その思いを汲んであげたいと思うものの、実際問題、ではどう暮らして行くのかと新たな問題が生じた気がした。
だが、そんな心配を吹き飛ばすように実花が言う。
「あなたが渡欧するって話しの後ね。ずっと考えてたの。須美子さんやゆう君とも相談してね。みんなで話し合ったんだけど」
母の言葉に、芹歌は神永を見た。
彼は優しげに微笑みながら頷いた。
コンクール終了後、受賞者の記念コンサートが開かれた。
ソリストとして初めてのコンサートだ。
チケットはソールドアウト。
山際初の日本人女性の受賞と言う事と、真田幸也の婚約者と言う事で、世間から大きな注目を集めた。
全く、あの後は大騒ぎだった。
新聞や雑誌など、多くのメディアが殺到して、その後の紙面を賑わせた。
週刊誌やスポーツ紙などは、芹歌の過去の経歴を取り上げ、父親の死や、その後の生活などの苦しみから、真田によって抜け出せたような、おとぎ話のヒロインのような書かれ方をされてウンザリした。
音楽雑誌では、コンクールの1次からの批評や、当日の演奏内容、指揮者の話しやコンサートマスターの感想など、詳細な記事になっていて非常に参考になった。
特に原道隆の批評は感動した。
原はオケリハの前に渡された演奏CDを聴いた時から期待していたと言う。
オケリハで実際にやってみて、その期待は高まった。
どの候補者達もテクニックはしっかりしているし、オケに合わせながら自身の音楽を表現していたが、浅葱さんほどオーケストラと一体になって音楽を奏でられる人はいなかった、と。
更に本番では、一層深く音楽世界に入り込み、オーケストラもその音楽の中に引き込まれていった。
一緒に夢の世界にいるようだったと書かれてあるのを見て、芹歌はあの時の事を思い出し、恍惚とした気分が蘇って来る気がした。
「演奏が終わった時、原さんが芹歌を抱きしめたのを見て、もうこれは完全優勝だって思ったよ。ただ、ちょっと妬けたけどね。俺の芹歌が他の男に抱きしめられてるのを見るのは、あまりいい気はしないから」
二人で祝杯をあげている時に真田が言った。
芹歌は呆れたように微笑む。
「だからって、あなたまで舞台の上で、あれは無いわ~」
大勢が見ている舞台上で、いきなり抱きしめられて面食らった。
共に演奏した後の事なら分かるが、そうではないのだから。
「仕方ないだろう?誰より俺が、一番に抱き締めたかったのに、原さんに持ってかれて、その後、コンマスもお前を抱きしめてたよな。でもって、楽屋では恵子先生に先を越され、仕方ないと待ってたら、中村さん達だ。で、お母さん……。なんなんだよ。すっかり俺の出番が無くなっちゃったじゃないか。だから原さんに催促されてさ。もう我慢ができなくなったんだよ。あの人、全てお見通しだったんじゃないのかな?さすが名指揮者は違うね」
まるで神通力でもあるような言いぶりだ。
だが真田の言う事も分かる。
芹歌自身も、正直なところ同じ気持ちだった。
誰よりも先に、一番に抱きしめて欲しかった。
ただ、舞台上では仕方が無い。
楽屋では、真っ先に渡良瀬が飛びついて来てビックリして戸惑った。
あの時、それを先んじて真田に来て欲しかったのに、と内心で思っていたのだった。
「幸也さんが、恵子先生よりも先に来ないから悪いんじゃない。あなたの方が足は速いんだし、もっと全速力で来てくれれば良かったのよ」
少しだけ、恨み節で言ってみる。
「それは悪かったな。だけどあの時はな。驚くほど、恵子先生の足が速かったんだよ。あの先生、絶対に、俺より先に行くつもりで走ってたに違いない。抜きんじたかったとしか思えないよ。正直、かけっこのような状況になってるのに気付いて、それが滑稽に思えてしまって、最後は失速しちゃったのさ」
言い訳なのか、本当の事なのか、よくわからないが芹歌は可笑しくなってきて笑った。
「嘘じゃないぞっ」
睨むような顔に、「わかってるし」と答える。
授賞式が終わった時には、もう精も根も尽き果てて、どこかで祝杯をあげようと言う周囲の声を断って、母と神永と真田と共にタクシーで帰宅した。
神永と真田は二人を家へ見送った後、そのままタクシーに乗り合わせて帰っていった。
二人とも一言も口をきかずに別れたらしい。
翌日、都内のホテルで優勝祝賀パーティが催された。
渡良瀬が、「必ず優勝する」と断言した真田の言葉を信じて、前もって会場を押さえておいたのだった。国芸の教師たちを始め、大勢が参加した。
そしてその晩、同じホテルの一室で、真田と二人で祝杯をあげた。
やっと二人だけの時間が持てて、芹歌は心の底から安堵した。
「あなたには、感謝してもし尽くせない……」
真田の腕の中で、そう呟く。
「馬鹿だな。感謝だなんて。俺はただ、お前を思ってしただけだ。自分の出来る事をね。それに、お前にいい演奏をして欲しかった。折角良いものを持っているのに、発揮できずにいるのを傍で見てるのは、逆に辛いものがある」
「うん……、そうね。それは、わかるかも……」
芹歌が真田と同じ立場だったら、きっと同じように思うだろう。
「芹歌が……、本当に感謝してもし尽くせないのは、あいつだろう?」
芹歌はピクリと体を震わせた。
祝賀会も終焉に近づいた頃、芹歌と真田は別室に呼ばれた。
不思議に思って行ってみると、そこには実花と神永がいた。
二人とも祝賀会に来ていて、さっきまで一緒に談笑していたのに、いつの間に、と思う。
「二人にね。話しがあるのよ」
芹歌と真田は顔を見合わせた。
もしかして、結婚の件だろうか。コンクールも無事に終わった事だし、もう何の憂いもなくその件について話し合える。
渡欧に関しては今後の生活についてしっかりと決めておかねばならない。
「まず、二人の結婚についてだけど、好きにしていいわ。お母さんはもう、何も言いません。二人とも立派な大人ですものね」
「お母さん、ありがとう」
「ありがとうございます」
笑顔になる芹歌の隣で、真田は深々と頭を下げた。
「色々とご心配でしょうが、絶対に彼女を幸せにします。不幸になんてしませんから、安心して下さい」
実花は微かに笑った。
「そうね。そう信じるわ。最初は、こんなにハンサムで人気者の男性なんだから、周囲が放っておかないだろうし、だから芹歌が辛い思いをするんじゃないかって心配だったけど、どうやらそれも杞憂のようだと分かってきたし……。あなたが誰よりも芹歌を大事に想ってくれてる事が伝わったから。だから、芹歌をお任せする事にしたの」
「ありがとうございます」
芹歌は喜びが胸に満ちてくるのを感じた。心のつかえが取れた思いだ。
反対はしないが賛成もしない、といった状況になるのではないかと危惧していたが、こうして認めてくれた事が、矢張り何より嬉しい。
「それからね。私自身の事なんだけどね。私は日本に残るわ」
「え?残るって?私たちと一緒に渡欧しないって事?」
「そうよ。あなた達の気持ちは嬉しいけれど、私は日本で暮らしたいの」
芹歌は自分の希望を語る実花に、その思いを汲んであげたいと思うものの、実際問題、ではどう暮らして行くのかと新たな問題が生じた気がした。
だが、そんな心配を吹き飛ばすように実花が言う。
「あなたが渡欧するって話しの後ね。ずっと考えてたの。須美子さんやゆう君とも相談してね。みんなで話し合ったんだけど」
母の言葉に、芹歌は神永を見た。
彼は優しげに微笑みながら頷いた。