第77話
文字数 3,554文字
「え?国際コンクールに出場?」
全く思いもよらない話しに、母は仰天している。
傍にいる神永もよくわからないと言うように、目を見開いていた。
「先生……、何で今頃そんな話しを?学生でもないのに」
「お母様がおっしゃる事も尤もです。ただ、この間の学内コンサートでの芹歌ちゃんの演奏が高く評価されまして。このままでは勿体ないって話しになったんです、大学の方でも」
渡良瀬は、この提案は大学側の意向であると匂わせた。
「だからって、コンクールなら在学中に幾つか受けてるし、6位入賞が良いところだったじゃないですか。成長盛りの学生の時ですら、その程度だったのに、今更国際コンクールだなんて……」
実花の戸惑いも尤もだ。
芹歌自身が思った事でもあるのだから。
「じゃぁ、お母様は反対されるんですか?」
逆に問われて実花は返事に窮したように、口を噤んだ。
「私は、これは良いチャンスだと思うんですよ。一介のピアノ教室の先生で終わるのか、ピアニストとして頭角を現すのか。芹歌ちゃんは伴奏の才能があるので、伴奏者としての需要は高いと思います。でも、そのままで終わらせてしまって良いのでしょうか?折角、本人も挑戦する気持ちを持ったのに……」
渡良瀬の言葉を受けて、実花は芹歌の方を見た。
問うような眼差しだ。
「お母さん。私は挑戦したいの。もう、未成年でも学生でもないから、お母さんが反対しても私は受ける。時間が無いから、明日から先生のお宅に通うし、大学が始まれば大学のレッスン室の方へ通います。毎日、生徒達のレッスンの時間まで、家を空ける。その事でお母さんに寂しい思いをさせるかもしれないけど、それでも私、やるつもりなの」
芹歌は引かない思いで、強い願いを込めて実花を見た。
母の瞳は揺れている。
矢張り、引き止めたいと思っているのだろうか。
父が亡くなってから、一人を嫌ってきた母。
ヘルパーの須美子がいるとは言え、なるだけ芹歌が家にいる事を望んでいた。
実花は暫くジッと芹歌を見つめていたが、やがて顔の表情が柔らかくなってきて、口許に薄く笑みを浮かべた。
「わかったわ。芹歌がそこまで言うのなら、やりなさい。あなたがコンクールに参加するからって、お母さんには別に影響ないもの。昼間いなくたって、夜はいるんだし。頑張る娘を邪魔する気はないから。その変わり、しっかりやりなさいよ」
芹歌は込み上げてくるものを感じた。
自分の殻に閉じこもっていた頃よりも、今は大分回復して来たと思ってはいたが、それでも寂しくて抵抗するのではないかと心配していた。
それを押してでも、今回は自分を通すつもりでいたが、矢張り受け入れてくれる方が何より嬉しい。
それは実花自身が自分を取り戻しつつある事の証しでもある。
「お母さん……。ありがとう。私、頑張るから。優勝目指して……」
「あらあら。優勝?それはちょっと欲張りじゃないの?目標は高い方がいいとは思うけど」
実花は苦笑いした。
幾らなんでも、そこまではと思っているのは明らかだ。
「大丈夫ですよ。芹歌ちゃんならやれます。その為に私は勿論、大学の方でもしっかりバックアップしていきますので」
「そうなんですか。ありがとうございます。よろしくお願いします」
実花が深々と頭を下げた。
渡良瀬はホッとしたように芹歌に微笑んだ。
芹歌もこれでひとまず安心して、小さく頷いた。
良かった。これで心おきなく練習に打ち込める。
「芹歌さん、凄いですね。山際って国内の国際コンクールでは有名ですよね。僕もテレビで放映された時には見た事ありますよ」
神永が目を輝かせている。
「そうよ~、ゆう君。芹歌はね。元々凄いのよ。お父さんも、芹歌のピアノが大好きだったわよね。だからきっと、喜んでるわね」
母の言葉に、芹歌の胸が熱くなった。
こんな風に父の事を言えるようになるなんて。
やっぱり母は、父の死を乗り越え始めている。
話しが済んだので渡良瀬が暇を告げた。
芹歌は表まで見送りに出る。
「良かったわね、芹歌ちゃん。お母さん、或る意味、肩すかしな感じだったかしら?」
悪戯 っ子のような顔をして渡良瀬が笑う。
「確かにそうでしたね。こんなにスムーズにいくとは思ってませんでした。でもこれで、母が確実に良くなってるんだって改めてわかりました。それが何より嬉しくて」
「そうよね。以前のお母さんだったら、考えられなかったもの。あの神永君の存在があったからなんでしょうね。だけど、芹歌ちゃん……」
渡良瀬の目が厳しくなった。
言いたい事はよくわかっている。
「わかってます。大丈夫ですから」
芹歌は笑みを浮かべたものの、不自然な表情になっているだろうと思う。
自分自身、ぎこちないと感じる。
付き合いを止めたいと言ったら、彼はどうするだろう。
あっさりと『わかりました』とは、ならないだろう。
彼が強く自分を求めている事は知っている。
そして、別れたとして、その後彼は、この家から去っていくのか。
その時、母は?
だがそれでも、思い切らなければならない。
「こんにちは。明けましておめでとうございます」
いきなり背後から男に声を掛けられた。
ご近所かと思って振り向いたら、神永の兄だと名乗っていた、神永健が立っていた。
「あ……、あの……確か」
「どうも。悠一郎の兄の健です」
「あ、あの、明けましておめでとうございます」
芹歌は慌てて挨拶した。
隣にいる渡良瀬は不審そうに軽く頭を下げるだけだった。
「あれから御無沙汰してしまいまして、すみませんでしたね。お元気なようで何よりです。そうそう、芹歌さん、怪我の方はもういいんですか?この前お会いした時には、まだ治って無いようでしたが」
覗きこむような目をしている。
なんだか警戒心が湧いてきた。
「あの、どうして怪我の事を?」
「いやだって、新聞に載ったじゃないですか。大変な災難でしたよね。あの時、悠一郎のヤツは一緒じゃなかったんですね。一緒にいたら、あんな目に遭わせなかったでしょうに。アイツあれで、結構強いですからね。バイオリニストの彼のように、怪我なんてしやしなかったと思いますよ」
何だかとっても嫌な感じがする。
どうしてなのだろう。
「あの、それで今日は?」
思わず眉根に力が入る。
きっと不愉快そうな顔をしているに違いない。
「ああ、すみません。悠一郎、こちらに伺ってますよね?ちょっと呼んで貰えませんか」
「わかりました」
玄関へ戻ろうとして、恩師が傍にいる事にハッとした。
「あ、先生、すみません」
「いいのよ。神永君、呼びましょう」
渡良瀬は芹歌に囁くような小声で言うと、先に立って歩き出した。
この場に置き去りにされたくない気持ちが伝わって来た。
玄関の中に入ると、芹歌は大声を出して神永を呼んだ。
神永はびっくりしたように急ぎ足でやってきた。
「どうしたんです?何か忘れ物でも?」
「ううん。そうじゃないの。今ね、あなたのお兄さんが来てるの。玄関先で待ってる。呼んで欲しいって頼まれて」
神永の顔色がサーッと波が引くように白くなった。
表情が強張っている。
「あ、なんでここに……」
「さぁ。用があるからじゃないのかしら。家へ訪ねてもいないから、ここだと思ったんじゃないのかな」
あまりの動揺ぶりに芹歌の不審感は益々募る。
「早く行った方が良いんじゃないの?」
横から渡良瀬が言った。
冷静な口ぶりだ。冷たいようにも芹歌には聞えた。
「あ、すみません」
神永は慌てて靴を履くと、飛び出すようにして出て行った。
その後ろ姿を渡良瀬がジッと見ていた。
何か感じる所があるのだろうか。
神永が出て行った数秒後、渡良瀬は難しい顔をして芹歌を見た。
「先生?」
「ねぇ、芹歌ちゃん。あの子とは、早く縁を切った方が良さそうよ」
「え?どういう事ですか?」
別れるべき事は十分理解している。
当然の事だ。
だが渡良瀬の口ぶりは、それとは別のニュアンスが感じられた。
「あの子のお兄さん。あの人は多分、碌 でもない人間だわ。あの子自身は良い子だと思うけど、あんな兄がいるんじゃ、関わっていたら碌な事にならないと思うの。それにあの子の様子もちょっと変よ。なんだかおかしいって感じるわ……」
渡良瀬の冷たい口ぶりに反発を覚えるものの、芹歌自身も神永の兄に対して嫌悪感を覚えたし、神永自身に対しても不審感が湧いていた。
だが、そうもスッパリと気持ちを切り替える事は出来そうにない。
二人は暫くの間、神永が戻ってくるのを待っていたが、一向に戻ってくる様子が無いので外へ出てみた。
だが、二人の姿はそこには無かった。
兄の方はともかく、神永まで、一体どこへ行ってしまったのだろう。
辺りを見回してみたが、ただ正月の住宅街が静かに佇んでいるだけだった。
全く思いもよらない話しに、母は仰天している。
傍にいる神永もよくわからないと言うように、目を見開いていた。
「先生……、何で今頃そんな話しを?学生でもないのに」
「お母様がおっしゃる事も尤もです。ただ、この間の学内コンサートでの芹歌ちゃんの演奏が高く評価されまして。このままでは勿体ないって話しになったんです、大学の方でも」
渡良瀬は、この提案は大学側の意向であると匂わせた。
「だからって、コンクールなら在学中に幾つか受けてるし、6位入賞が良いところだったじゃないですか。成長盛りの学生の時ですら、その程度だったのに、今更国際コンクールだなんて……」
実花の戸惑いも尤もだ。
芹歌自身が思った事でもあるのだから。
「じゃぁ、お母様は反対されるんですか?」
逆に問われて実花は返事に窮したように、口を噤んだ。
「私は、これは良いチャンスだと思うんですよ。一介のピアノ教室の先生で終わるのか、ピアニストとして頭角を現すのか。芹歌ちゃんは伴奏の才能があるので、伴奏者としての需要は高いと思います。でも、そのままで終わらせてしまって良いのでしょうか?折角、本人も挑戦する気持ちを持ったのに……」
渡良瀬の言葉を受けて、実花は芹歌の方を見た。
問うような眼差しだ。
「お母さん。私は挑戦したいの。もう、未成年でも学生でもないから、お母さんが反対しても私は受ける。時間が無いから、明日から先生のお宅に通うし、大学が始まれば大学のレッスン室の方へ通います。毎日、生徒達のレッスンの時間まで、家を空ける。その事でお母さんに寂しい思いをさせるかもしれないけど、それでも私、やるつもりなの」
芹歌は引かない思いで、強い願いを込めて実花を見た。
母の瞳は揺れている。
矢張り、引き止めたいと思っているのだろうか。
父が亡くなってから、一人を嫌ってきた母。
ヘルパーの須美子がいるとは言え、なるだけ芹歌が家にいる事を望んでいた。
実花は暫くジッと芹歌を見つめていたが、やがて顔の表情が柔らかくなってきて、口許に薄く笑みを浮かべた。
「わかったわ。芹歌がそこまで言うのなら、やりなさい。あなたがコンクールに参加するからって、お母さんには別に影響ないもの。昼間いなくたって、夜はいるんだし。頑張る娘を邪魔する気はないから。その変わり、しっかりやりなさいよ」
芹歌は込み上げてくるものを感じた。
自分の殻に閉じこもっていた頃よりも、今は大分回復して来たと思ってはいたが、それでも寂しくて抵抗するのではないかと心配していた。
それを押してでも、今回は自分を通すつもりでいたが、矢張り受け入れてくれる方が何より嬉しい。
それは実花自身が自分を取り戻しつつある事の証しでもある。
「お母さん……。ありがとう。私、頑張るから。優勝目指して……」
「あらあら。優勝?それはちょっと欲張りじゃないの?目標は高い方がいいとは思うけど」
実花は苦笑いした。
幾らなんでも、そこまではと思っているのは明らかだ。
「大丈夫ですよ。芹歌ちゃんならやれます。その為に私は勿論、大学の方でもしっかりバックアップしていきますので」
「そうなんですか。ありがとうございます。よろしくお願いします」
実花が深々と頭を下げた。
渡良瀬はホッとしたように芹歌に微笑んだ。
芹歌もこれでひとまず安心して、小さく頷いた。
良かった。これで心おきなく練習に打ち込める。
「芹歌さん、凄いですね。山際って国内の国際コンクールでは有名ですよね。僕もテレビで放映された時には見た事ありますよ」
神永が目を輝かせている。
「そうよ~、ゆう君。芹歌はね。元々凄いのよ。お父さんも、芹歌のピアノが大好きだったわよね。だからきっと、喜んでるわね」
母の言葉に、芹歌の胸が熱くなった。
こんな風に父の事を言えるようになるなんて。
やっぱり母は、父の死を乗り越え始めている。
話しが済んだので渡良瀬が暇を告げた。
芹歌は表まで見送りに出る。
「良かったわね、芹歌ちゃん。お母さん、或る意味、肩すかしな感じだったかしら?」
「確かにそうでしたね。こんなにスムーズにいくとは思ってませんでした。でもこれで、母が確実に良くなってるんだって改めてわかりました。それが何より嬉しくて」
「そうよね。以前のお母さんだったら、考えられなかったもの。あの神永君の存在があったからなんでしょうね。だけど、芹歌ちゃん……」
渡良瀬の目が厳しくなった。
言いたい事はよくわかっている。
「わかってます。大丈夫ですから」
芹歌は笑みを浮かべたものの、不自然な表情になっているだろうと思う。
自分自身、ぎこちないと感じる。
付き合いを止めたいと言ったら、彼はどうするだろう。
あっさりと『わかりました』とは、ならないだろう。
彼が強く自分を求めている事は知っている。
そして、別れたとして、その後彼は、この家から去っていくのか。
その時、母は?
だがそれでも、思い切らなければならない。
「こんにちは。明けましておめでとうございます」
いきなり背後から男に声を掛けられた。
ご近所かと思って振り向いたら、神永の兄だと名乗っていた、神永健が立っていた。
「あ……、あの……確か」
「どうも。悠一郎の兄の健です」
「あ、あの、明けましておめでとうございます」
芹歌は慌てて挨拶した。
隣にいる渡良瀬は不審そうに軽く頭を下げるだけだった。
「あれから御無沙汰してしまいまして、すみませんでしたね。お元気なようで何よりです。そうそう、芹歌さん、怪我の方はもういいんですか?この前お会いした時には、まだ治って無いようでしたが」
覗きこむような目をしている。
なんだか警戒心が湧いてきた。
「あの、どうして怪我の事を?」
「いやだって、新聞に載ったじゃないですか。大変な災難でしたよね。あの時、悠一郎のヤツは一緒じゃなかったんですね。一緒にいたら、あんな目に遭わせなかったでしょうに。アイツあれで、結構強いですからね。バイオリニストの彼のように、怪我なんてしやしなかったと思いますよ」
何だかとっても嫌な感じがする。
どうしてなのだろう。
「あの、それで今日は?」
思わず眉根に力が入る。
きっと不愉快そうな顔をしているに違いない。
「ああ、すみません。悠一郎、こちらに伺ってますよね?ちょっと呼んで貰えませんか」
「わかりました」
玄関へ戻ろうとして、恩師が傍にいる事にハッとした。
「あ、先生、すみません」
「いいのよ。神永君、呼びましょう」
渡良瀬は芹歌に囁くような小声で言うと、先に立って歩き出した。
この場に置き去りにされたくない気持ちが伝わって来た。
玄関の中に入ると、芹歌は大声を出して神永を呼んだ。
神永はびっくりしたように急ぎ足でやってきた。
「どうしたんです?何か忘れ物でも?」
「ううん。そうじゃないの。今ね、あなたのお兄さんが来てるの。玄関先で待ってる。呼んで欲しいって頼まれて」
神永の顔色がサーッと波が引くように白くなった。
表情が強張っている。
「あ、なんでここに……」
「さぁ。用があるからじゃないのかしら。家へ訪ねてもいないから、ここだと思ったんじゃないのかな」
あまりの動揺ぶりに芹歌の不審感は益々募る。
「早く行った方が良いんじゃないの?」
横から渡良瀬が言った。
冷静な口ぶりだ。冷たいようにも芹歌には聞えた。
「あ、すみません」
神永は慌てて靴を履くと、飛び出すようにして出て行った。
その後ろ姿を渡良瀬がジッと見ていた。
何か感じる所があるのだろうか。
神永が出て行った数秒後、渡良瀬は難しい顔をして芹歌を見た。
「先生?」
「ねぇ、芹歌ちゃん。あの子とは、早く縁を切った方が良さそうよ」
「え?どういう事ですか?」
別れるべき事は十分理解している。
当然の事だ。
だが渡良瀬の口ぶりは、それとは別のニュアンスが感じられた。
「あの子のお兄さん。あの人は多分、
渡良瀬の冷たい口ぶりに反発を覚えるものの、芹歌自身も神永の兄に対して嫌悪感を覚えたし、神永自身に対しても不審感が湧いていた。
だが、そうもスッパリと気持ちを切り替える事は出来そうにない。
二人は暫くの間、神永が戻ってくるのを待っていたが、一向に戻ってくる様子が無いので外へ出てみた。
だが、二人の姿はそこには無かった。
兄の方はともかく、神永まで、一体どこへ行ってしまったのだろう。
辺りを見回してみたが、ただ正月の住宅街が静かに佇んでいるだけだった。