第91話

文字数 4,325文字

 実花はその後、何事も無かったような顔で過ごしていたが、その母がある朝、慌てた様子で芹歌に声を掛けてきた。

「ちょっとちょっと、芹歌!」
「どうしたの?」

 テーブルの上に新聞が広がっている。
 どうやら朝刊を読んでいたようだ。

「ちょっと、この記事を見てちょうだい。これって、ゆう君のお兄さんのことじゃないの?」

 言われて急いで駆け寄って、新聞を覗きこんだ。

 記事によると、先週、荒川土手で発見された遺体の身元がわかったとの事で、写真と名前が載っている。
 神永健、28歳、無職とあり、掲載されている写真はまさにそうだった。

 発見当時、首にヒモか何かで絞められた痕があった事から、殺人事件として捜査中だと書いてある。
 死亡推定日時は先月の中ごろらしい。

 先月の中ごろと言ったら、大学のレッスン室へ来た頃だ。
 それでは、あれから間もなく殺されたと言う事なのか。
 芹歌は急に背筋が凍るような恐怖を感じた。

「ねぇ、そうよね?」

 脇から母に訊かれて、芹歌は頷いた。
 自分の身近でこんな事件が起こるとは思ってもみなかった。
 毎日のようにメディアを騒がせている事件は、大抵の人間は遠い世界の出来ごとのように感じている。
 二人は顔を見合わせた。

「ねぇ、芹歌。ゆう君からお兄さんの事、何か聞いてる?」

「お父さんが亡くなった時には、既に家を出てたって。それ以来の付き合いはないのに、最近になって急にやってきたとは言ってたけど……」

 それ以上の詳しい話を実花にする必要は無いと思った。
 話しが込み入ってるし、芹歌自身正しく伝えられるかどうかも自信がない。

「この、死亡推定日時とかって、ゆう君からずっと連絡が無かった時期よね。この後も暫く音信不通だったし。まさか、ゆう君、事件と何か関係してるんじゃ……?」

 実花の顔に(おび)えが生じている。

 この間の話しだと、兄が行方不明になっているような事だった。
 付きまとわれていたから、却って清々するような口ぶりだったが、事件に関与しているような
雰囲気ではなかったと思う。

「お母さん、それは何とも言えない。この間の神永君の様子を見る限り、関係してるようには見えなかったけれど、でもデリケートな問題だから神永君に逢っても、あまり詮索しない方がいいんじゃないかな」

「それはそうかもしれないけど、でも気になるわ~」

 母の言う通りだ。そうは思っても気になる。
 神永自身から、何か言って来てくれれば良いのだが。

 須美子がやってきたので、後は任せて大学へ行った。
 気持ちを切り替える。

 もう2次予選も直前である。最後の仕上げだ。
 ドビュッシーは良い感じなので、あとは本番でどれだけ気持ちが乗れるかだ。
 そしてリストはリズムを乱さないこと。

 メフィスト・ワルツは、ワルツとは名ばかりの激しい曲だ。
 踊り狂うのに近いものがある。
 その為、技巧に走りやすい。
 技巧は出来て当たり前。その上で、音楽的にどう表現できるか。

 渡良瀬のレッスン室に到着した。
「芹歌ちゃん、いよいよね」

 渡良瀬の言葉に少し緊張する。
 自分で選んだとは言え、メフィスト・ワルツがネックだ。

「今日は、真田君が軽くバイオリンを当てるって言ってたわ。もうすぐ来る筈よ」
「え?バイオリンを?」

 ちょっと意外に思った。
 ここに来てバイオリンと弾くのか。

「おはようございます」と、真田が入って来た。

「すみません、お待たせして。芹歌、おはよう」

 朝に相応しい爽やかな笑みに、自分の頬が微かに染まるのを感じた。

「おはようございます。幸也さん……」

 先生の前で恥ずかしい。
 真田は満足げに頷いた。

「もう、ウォーミングアップは済んだ?今日は俺がバイオリンを当ててみる。お前の表現の助けになればと思ってね。とにかく、やってみよう」

 真田はケースからバイオリンを出すと、ワックスを当てて調律を始めた。
 その音がレッスン室の中に響き、心を掻き立てる。

(やっぱりバイオリン、好き)

 その音を聞いているだけで、胸が騒ぐ。

 それにしても、メフィスト・ワルツはテンポが早いし、変化に富んだ曲だ。
 管弦楽曲としても演奏される曲だから、バイオリンを当てるのは難しい事では無いだろう。

 しかも真田なら朝飯前に違いない。
 だがピアノに合わすとなると、どう弾くのだろうと思う。

 なんにしても、真田のやる事なんだから不安を覚える必要はない筈だ。

 真田が準備完了の合図を送ってきたので、芹歌は頷いて弾き始めた。
 出だしは激しい。

 バイオリンを奪われたメフィストが、村の酒場で憑かれたようにピアノを弾き始める。
 その激しさを牽制するように、バイオリンが低めな音で静かに入って来た。

 連打するピアノとは対照的に長く弓を引いている。
 そのバイオリンに芹歌は影響された。

 自分のタッチが自然と変わったのがわかった。
 それと同時に、真田がいつもの『いいぞ』と言うような視線を送って来た。

 そのまま真田にリードされるように曲は進み、森の中の情景を連想させる曲想に変わる。
 そこでも真田のバイオリンが、芹歌の心をより作品世界へと追いやった。
 そうして、最後に再び激しい旋律が戻って来て、夢から覚めるように終焉(しゅうえん)を迎えた。

 10分程度の曲だが、以前よりも遥かにドラマティックに演奏できた。
 自分の中の感情の起伏の振り幅が大きくなったと感じる。

「素晴らしかったわっ」

 渡良瀬が手を叩きながら、座っている芹歌を上から抱きしめて来た。

 芹歌は渡良瀬の腕の中で、真田を見る。
 真田は頬を紅潮させて、嬉しそうに芹歌を見ていた。
 そして視線が合った時、大きく頷いた。

「芹歌ちゃん。今の感じよ。今の感じを忘れないようにして、本番でもそれを再現するの」

 芹歌は頷きながらも、果たして本番でそれを出来るのか、一抹の不安を抱いた。

「それにしても、真田君、さすがだわ。あなたには本当に感服する。これなら、チャイコも心配ないわね」

 全くそう思う。そしてふと別の事を思った。

(この人、きっと指揮者として通用する)

 そう思ったら、体が震えた。

 その時、レッスン室のブザーが鳴った。
 三人の視線が一斉にドアの方に向けられる。

 ドアについている窓ガラスの向こうに、事務の須山美里が立っているのが見えた。
 その横に中年と思われる男が二人いた。
 渡良瀬が対応に立った。

「どうしたの?」
 男二人に視線をやりながら、渡良瀬は須山に声を掛けた。

「それがその、警察の方が浅葱さんに用があるって……」

 ドアでのやり取りが聞えて来て、芹歌はびっくりした。
 だが、もしかしたら、神永の事かも、と思った。

「すみません、警視庁の者ですが、浅葱さんにちょっとお伺いしたい事がありまして」

 そう言いながら、鋭い視線を芹歌の方に向けて来た。
 その視線を浴びて、ビクリとする。

「わかりました。ではどうぞ」

 渡良瀬はそう言って、レッスン室のドアを大きく開いた。
 刑事と思われる二人は、ズカズカといった感じで入って来た。

「浅葱芹歌さんですね?」
 そう言って、内ポケットから警察手帳を出して開いて見せた。

「神永悠一郎さんを、ご存じですね?」
「はい」
「どういうご関係ですか?」

「私がやっているピアノ教室の生徒さんです。それと、以前ピアノ伴奏をしていた市民合唱団の、元団員さんでもあります」
「それだけですか?」

 疑わしそうな目を向けて来た。

「それだけです」

 芹歌がそう言うと、「ほぉ……」と感心したような声で芹歌をジロジロ見ている。

「一体、どういう事なんですか?」
 渡良瀬が少し甲高い声で刑事に訊ねた。

 芹歌に質問をぶつけていた刑事とは別の、少し若めの方の刑事が、「あなたは?」と逆に渡良瀬に問い返した。

「私は彼女の担当教授で渡良瀬恵子と申します。一体、どういう訳で浅葱さんの所へ?神永君に何かあったんですか?」

 年配刑事の方が、驚いたように渡良瀬の方を向いた。
 なんだか大袈裟で芝居がかっていると感じられた。

「ほぉ。あなたも神永悠一郎をご存じですか」

 最初は「さん」づけで呼んでいたのに、いきなり呼び捨てになっている。

「知っていますよ。自分の弟子の生徒さんなんだから、当然でしょう」

「はぁ、そうですか。ですが、どれくらい知ってらっしゃるんでしょうね。神永悠一郎と浅葱さんは相当親しかったそうですね。彼はあなたのお母さんにも可愛がられていて、お宅に頻繁に出入りしていたとか……」

 一体、何が言いたくて何が聞きたいのだろうと思う。
 持って回ったような話し方に苛つく。

「刑事さん、もう少し要点をはっきりさせて貰えませんか。僕達、暇人じゃないので」

 真田が厳しい表情でそう言った。

「あなたは、えーっと、確かバイオリニストの真田幸也さんでしたか。クラシックに(うと)い私でも、あなたの事は存じてますよ。そう言えば、お二人、去年の暮れに傷害事件の被害に遭ってましたね」

「ええ。ですが、その事は今は関係ないのでは?」

 真田は冷ややかに言葉を突きつけた。

「まぁ、直接的には関係ないんでしょうが。えっと、真田さんと浅葱さんは、どういったご関係でしょう?」

「彼女と僕は婚約しています」

「ええ?それはそれは……。浅葱さんは、神永悠一郎と恋人関係にあるんじゃないんですか?」

 驚いたような顔をしているが、どこまで本当なのかわからないと芹歌は思った。

「その情報はどこから?」
 真田が問い返す。

「それは、言えません。ですが、こちらが調べた結果、そういう情報が入って来た。いや、まずかったかな。婚約者の前で、他の男と恋人関係だ、なんて情報を漏らして」

 ちっとも、まずいと思っていない顔だ。

「芹歌と神永君が付き合っていた時期はありました。短かったですが。今は僕の婚約者です」

 真田の言葉に、年配の刑事は芹歌の方へ視線を向けた。
 芹歌はそれに対して頷く。

「その時期って言うのは?」
「去年の秋ごろから、暮れにかけてです。きっぱり別れたのは、ついこの間ですが」
「ついこの間?それはいつです」
「先週の水曜日です。ずっとレッスンを休んでいた彼が久しぶりに来て、その時に」

 二人の刑事は顔を見合わせた。

「ずっとレッスンを休んでいたとの事ですが、どのくらいですか?いつから休んでたんですか?」

「お正月明けの13日からです。彼のレッスン日は水曜日なんです。でも、正月の4日に、お兄さんがうちに訊ねて来て。その時、神永君、我が家に遊びにきていたんですけど、お兄さんとそのまま荷物も持たずにどこかへ行ってしまって、翌日荷物を取りに来たけど、当分来れないって。それで、その言葉のまま、この間のレッスン日まで、殆ど音信不通だったんです」

「4日ですか……」
 刑事二人は考え込むように沈黙した。
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