第11話
文字数 2,472文字
神永のレッスンが終わりに近づいた頃、ドアをノックする音が聞えた。
(なんだろう?珍しいな)
「ちょっと、ごめんね。弾き続けてて」
急いでドアを開けたら、ヘルパーの須美子が立っていた。
「どうしたんですか?何かありました?」
母に何かあったのだろうか。急に胸がざわついた。
「いえ……」
須美子は無表情のままチラっと神永の方へ視線をやった後に、芹歌の方を見た。
「あの、奥様がそちらの生徒さん……神永さんでしたか、この後一緒に夕飯をどうかっておっしゃってるんですけど」
「えっ?」
あまりの事にそれ以上言葉が出ない。
背後から神永のたどたどしい「亜麻色の髪の乙女」が聞えてくる。
リズムを全く無視した、ただの音の羅列である。
始めたばかりだからか、音読みだけで精いっぱいといった感じだ。
今の芹歌も、須美子の発した言葉がまるでバラバラに聞えた気がする。
「あ、あの……?どういう事?」
思わず声をひそめた。
「ですから、神永さんを夕飯に、って……」
須美子も同じように声をひそめた。僅かに不審そうな表情が浮かんでいる。
ああ、この人も理解できないんだな、と芹歌は悟った。
それにしても、一体どういう風の吹きまわしだろう。
こんな事は初めてだ。
「お母さんの機嫌の方は、どうなんですか?」
「そうですね。普通でしょうか。でも、お食事の件を言われた時は、少し明るい印象でしたかしら」
確かに、他人を食事に呼ぶくらいだから、機嫌はむしろ良い方なのかもしれない。
(それにしても……)
こんないきなりな話しに、どう対応したら良いのだろう。
大体、夕飯の席に神永が同席すると言う事に、芹歌自身が戸惑いを覚える。
ふと静かになった。
(あれ?)
振り返ると神永がこちらを見ていた。
雲間から差す光がちょうど神永に当たっていて、まるでスポットライトを浴びているように部屋の中にぼっかりと浮かんでいるように見える。
微笑を浮かべて、小首を微かに傾けていた。
「どうしたの?」
動揺した心を隠すように、平然と訊ねた。
「一応、最後まで弾き終わりました……」
「ああ……」
リズム感ゼロだった事もあり、曲として頭に入って来なかったからか、全く気付かなかった。
静かな微笑を湛 えた神永は、ピュアな少年のように見えた。
彼は芹歌より3つ年下の25歳だと言うが、実年齢より若く見える。
表情によっては高校生くらいに見える時もあるくらいだった。
芹歌は須美子を待たせて、神永の元へ行った。
部屋のドアを閉めずに須美子が立ったままでいるのを見て、神永は顔で問うてきた。
「あのね……。レッスン後の事なんだけど、母がね。神永君も夕飯一緒にどうですか、って言ってきてるの」
神永は驚いたように、須美子を見てから芹歌を見た。
思いも寄らぬ事だっただろう。
驚いて当然だ。しかも、動揺しているように瞳が揺れている。
「あの……」
視線を逸らして、そわそわしだした。
芹歌はともかく、母とは殆ど面識がないだろうから、誘われる事からして理解できないだろうし、まして生徒達は皆、芹歌の母の状況を知っている。
ひきこもりの中高年女性と夕飯を共にするなんて、どれだけ気づまりに感じる事か。
春田だったら、一蹴 するだろう。
「無理しなくていいのよ。神永君には神永君の都合もあるだろうし」
断りやすいように、優しく言った。
神永はふいに顔を上げた。
「あの……、生徒さんを夕飯にって、よくある事なんですか?」
「え?」
思いもよらない質問だった。
「あ、いえ、その……。習い事って初めてじゃないですか。だからその……。そういうの全然知らないんで」
(あ、なんか、可愛いかも……?)
大人の男性なのに、なんだか初々しさを感じた。
「んー、よくある事じゃないね。教室によって色々だと思うけど、うちでは初めて」
「ええー?じゃぁ、僕が初めての招待客って事ですか?」
「招待客って、大袈裟な」
思わず笑みがこぼれた。
「いやだって、その……」
照れくさそうに髪をかきあげている。
「急だものね。ごめんね」
須美子の元へ行こうとしたら、「あ、待って」と引き止められた。
振り返ったら、目が合った。真剣な眼差しをしている。
「あの……、先生はいいんですか?」
「どういう意味?」
「だから、夕飯です。僕もご一緒するの、先生はどうなんですか?」
「あのね。断ってくれていいのよ。断られたからって、別に不愉快に思ったりしないから。大丈夫。安心して?」
「そういう意味じゃありません。そうじゃなくて、一緒に夕飯を食べるって事、先生はどう思うのか訊いてるんです。いいんですか?僕が一緒でも」
「ああ、ごめんなさい。そういう意味だったの」
なんだ、とんだ勘違いだった。
とは言え、また微妙な質問だ。
どう答えるべきかと思っていたら、部屋の入口から「すみません」と声がかかった。
「あの、どうなさいますか?あまり遅いと奥様が……」
そうだ。待たせると機嫌が悪くなる。
芹歌が答えようとしたら、先に神永が声を上げた。
「僕、お受けしますよ。是非、ご一緒させて下さいってお伝え下さい」
「分かりました。では、後ほど、芹歌さんと一緒においでくださいね」
須美子はお辞儀をすると静かにドアを閉めて去って行った。
「良かったの?」
「勿論です。ひとり暮らしだし、別に用事もありませんし。自炊だから助かります」
「そう。ならいいけど……」
この人はうちの母親をどうも思わないのだろうか。
「それより」
「え?」
「それより、先生の方こそ良かったんですか?」
「まだそれ?案外、しつこいのね」
「すみません、しつこくて……。でも気になるので」
なんでそんなに気になるのだろうと思う。
「私自身が迷惑だとか嫌だとかって思うなら、母の希望を神永君に伝えなかったわよ?」
「ほんとですか?」
「当然でしょう」
「ならいいんですけど……」
「そんな事より、ピアノ。なんか酷かったわよ~、リズム感ゼロで」
「あ……。いやぁ……。ハハハ」
「笑って誤魔化さない!」
芹歌は気持ちを切り替えて、冒頭から弾き直させた。
日差しはもう神永の横にずれていた。
(なんだろう?珍しいな)
「ちょっと、ごめんね。弾き続けてて」
急いでドアを開けたら、ヘルパーの須美子が立っていた。
「どうしたんですか?何かありました?」
母に何かあったのだろうか。急に胸がざわついた。
「いえ……」
須美子は無表情のままチラっと神永の方へ視線をやった後に、芹歌の方を見た。
「あの、奥様がそちらの生徒さん……神永さんでしたか、この後一緒に夕飯をどうかっておっしゃってるんですけど」
「えっ?」
あまりの事にそれ以上言葉が出ない。
背後から神永のたどたどしい「亜麻色の髪の乙女」が聞えてくる。
リズムを全く無視した、ただの音の羅列である。
始めたばかりだからか、音読みだけで精いっぱいといった感じだ。
今の芹歌も、須美子の発した言葉がまるでバラバラに聞えた気がする。
「あ、あの……?どういう事?」
思わず声をひそめた。
「ですから、神永さんを夕飯に、って……」
須美子も同じように声をひそめた。僅かに不審そうな表情が浮かんでいる。
ああ、この人も理解できないんだな、と芹歌は悟った。
それにしても、一体どういう風の吹きまわしだろう。
こんな事は初めてだ。
「お母さんの機嫌の方は、どうなんですか?」
「そうですね。普通でしょうか。でも、お食事の件を言われた時は、少し明るい印象でしたかしら」
確かに、他人を食事に呼ぶくらいだから、機嫌はむしろ良い方なのかもしれない。
(それにしても……)
こんないきなりな話しに、どう対応したら良いのだろう。
大体、夕飯の席に神永が同席すると言う事に、芹歌自身が戸惑いを覚える。
ふと静かになった。
(あれ?)
振り返ると神永がこちらを見ていた。
雲間から差す光がちょうど神永に当たっていて、まるでスポットライトを浴びているように部屋の中にぼっかりと浮かんでいるように見える。
微笑を浮かべて、小首を微かに傾けていた。
「どうしたの?」
動揺した心を隠すように、平然と訊ねた。
「一応、最後まで弾き終わりました……」
「ああ……」
リズム感ゼロだった事もあり、曲として頭に入って来なかったからか、全く気付かなかった。
静かな微笑を
彼は芹歌より3つ年下の25歳だと言うが、実年齢より若く見える。
表情によっては高校生くらいに見える時もあるくらいだった。
芹歌は須美子を待たせて、神永の元へ行った。
部屋のドアを閉めずに須美子が立ったままでいるのを見て、神永は顔で問うてきた。
「あのね……。レッスン後の事なんだけど、母がね。神永君も夕飯一緒にどうですか、って言ってきてるの」
神永は驚いたように、須美子を見てから芹歌を見た。
思いも寄らぬ事だっただろう。
驚いて当然だ。しかも、動揺しているように瞳が揺れている。
「あの……」
視線を逸らして、そわそわしだした。
芹歌はともかく、母とは殆ど面識がないだろうから、誘われる事からして理解できないだろうし、まして生徒達は皆、芹歌の母の状況を知っている。
ひきこもりの中高年女性と夕飯を共にするなんて、どれだけ気づまりに感じる事か。
春田だったら、
「無理しなくていいのよ。神永君には神永君の都合もあるだろうし」
断りやすいように、優しく言った。
神永はふいに顔を上げた。
「あの……、生徒さんを夕飯にって、よくある事なんですか?」
「え?」
思いもよらない質問だった。
「あ、いえ、その……。習い事って初めてじゃないですか。だからその……。そういうの全然知らないんで」
(あ、なんか、可愛いかも……?)
大人の男性なのに、なんだか初々しさを感じた。
「んー、よくある事じゃないね。教室によって色々だと思うけど、うちでは初めて」
「ええー?じゃぁ、僕が初めての招待客って事ですか?」
「招待客って、大袈裟な」
思わず笑みがこぼれた。
「いやだって、その……」
照れくさそうに髪をかきあげている。
「急だものね。ごめんね」
須美子の元へ行こうとしたら、「あ、待って」と引き止められた。
振り返ったら、目が合った。真剣な眼差しをしている。
「あの……、先生はいいんですか?」
「どういう意味?」
「だから、夕飯です。僕もご一緒するの、先生はどうなんですか?」
「あのね。断ってくれていいのよ。断られたからって、別に不愉快に思ったりしないから。大丈夫。安心して?」
「そういう意味じゃありません。そうじゃなくて、一緒に夕飯を食べるって事、先生はどう思うのか訊いてるんです。いいんですか?僕が一緒でも」
「ああ、ごめんなさい。そういう意味だったの」
なんだ、とんだ勘違いだった。
とは言え、また微妙な質問だ。
どう答えるべきかと思っていたら、部屋の入口から「すみません」と声がかかった。
「あの、どうなさいますか?あまり遅いと奥様が……」
そうだ。待たせると機嫌が悪くなる。
芹歌が答えようとしたら、先に神永が声を上げた。
「僕、お受けしますよ。是非、ご一緒させて下さいってお伝え下さい」
「分かりました。では、後ほど、芹歌さんと一緒においでくださいね」
須美子はお辞儀をすると静かにドアを閉めて去って行った。
「良かったの?」
「勿論です。ひとり暮らしだし、別に用事もありませんし。自炊だから助かります」
「そう。ならいいけど……」
この人はうちの母親をどうも思わないのだろうか。
「それより」
「え?」
「それより、先生の方こそ良かったんですか?」
「まだそれ?案外、しつこいのね」
「すみません、しつこくて……。でも気になるので」
なんでそんなに気になるのだろうと思う。
「私自身が迷惑だとか嫌だとかって思うなら、母の希望を神永君に伝えなかったわよ?」
「ほんとですか?」
「当然でしょう」
「ならいいんですけど……」
「そんな事より、ピアノ。なんか酷かったわよ~、リズム感ゼロで」
「あ……。いやぁ……。ハハハ」
「笑って誤魔化さない!」
芹歌は気持ちを切り替えて、冒頭から弾き直させた。
日差しはもう神永の横にずれていた。