第29話

文字数 2,990文字

「それって、どういう事なの?」

 リサイタルの後、会場の近くのホテルの部屋の窓から美しい夜景を眺めている時だった。

 久美子はワイングラスを片手に振り返る。
 腰にタオルを巻いただけの純哉が立っていた。
 髪がまだ湿っていて、男ぶりを引き立てている。

「どういう事って、言った通りだよ」

 相変わらず呑気な様子だ。

 この日は純哉のフルートのリサイタルで、久美子は伴奏者として共演した。
 純哉は一般人にとっては知名度は低いが、クラシック好きの間では有名でファンも多い。

 リサイタルはいつも満席だ。
 その純哉の伴奏者として同行できると言う事は、愛好家の間で自分の名前を高めるチャンスでもある。

 純哉もリサイタル中に久美子を紹介する時、恥ずかしくなるくらい褒めてくれる。
 これで久美子の存在を知って、久美子のリサイタルにも足を運んでくれるようになれば、万々歳だ。有名人と組むと、そういうメリットがある。

 久美子は基本的にはソロで活動している為、他人の伴奏の仕事はあまり請け負わない。
 ピンチヒッターで頼まれる程度だ。
 ただし、今回のような、組めば自分にメリットがある相手の場合、スケジュールに問題が無ければ喜んで引き受ける。

 そして、そういう相手の場合、男であれば大抵、ベッドを共にする。
 既婚者であっても、相手が望んでいる場合は躊躇しない。

 逆に、こちらから誘惑する場合もあるが、向こうにその気が起きなければサッパリと諦めて、音楽家同士としてのモラルに則った交際範囲に留める。

 肉体関係を持っても、ドライさを保つのが主義だった。
 ドロドロした事が嫌いだし、自分自身、縛られるのが嫌だから相手の事も束縛しない。

 純哉とは、共に組むと決めた最初の打合せの日に、関係を持った。
 以前から魅力的な男だとは思っていたが、肌を重ね合わす度に気持ちが高まっていく。
 そんな相手は、そうそういない。
 一緒にいて気持ちの良い男だ。この先も一緒にいたくなってくる。

 だが彼には婚約者がいた。
 純哉自身、モラル感の無い男だし、根っからの自由人だから、結婚してもきっと女関係は絶えないだろう。

 婚約者は、結婚したら苦労するんだろうな、と同情の気持ちが湧いてくる。
 そしてそう思ったら、クスリと笑いがこぼれた。

 自分と純哉が結婚したら、互いに浮気しあっても、全く問題ないんだろうに。
 肌を重ねあいながら、あっけらかんと互いの相手の事を話題にするに決まっている。

 身体の相性が良いから、お互いに相手を手放したくは無い。
 だから上手くいくんじゃないのかな、などと自分に都合よく考える。

 だが今は、そんな純哉との関係よりも気になる事があった。
 芹歌の事だ。正確には、芹歌と真田だ。

 お喋りなようで、あまり多くを語らない純哉だが、先日の発表会終了後、恵子先生を交えて芹歌親子を囲んで話していた内容が気になって、水を向けたら話しだしたのだった。

 どうやら、この12月に国芸の学内で催されるクリスマスコンサートに、真田の伴奏者として芹歌が参加するらしい。

 真田が留学する前まで、芹歌は彼の専属だったと言っても過言ではない。
 コンクールの時だって、伴奏したのは芹歌だった。
 あの二人は息が合う。それは誰もが認めるところだ。

 そもそも真田は非常に神経質で注文が多い。
 自分の意に添わないと、ボロクソに相手をけなす。伴奏者とは(いさか)いが絶えず、そのうちに誰もやりたがらなくなった。
 そこに登場したのが芹歌だ。

 恵子先生の勧めで組んだ2人だったが、当然ながら最初は衝突した。
 だが芹歌は忍耐強く、そう大した時間もかからずに息が合うようになった。

 彼女は伴奏者に向いているようで、真田以外の伴奏もよく頼まれ、どの人間にも好評だった。
 そのうち、コンクールの準備で忙しい真田の専属のようになり、たまに他の人間に頼まれて引き受けると、真田は烈火の如く怒りだす。

 あまりの凄まじさに、周囲はあの二人は恋愛関係にあるに違いないと噂するようになった。
 でも実際は違った。

「本当に違ったんですか?」

 この間の大人組の打ち上げの時に、昔の二人の関係を聞かれて事情を話したら、神永がいやに真剣な顔でそう質問してきた。

「そう思うけど?」
 と返したが、納得しきれていないような顔をしていたな、と彼の綺麗な顔を思い出した。

 神永は、芹歌に気があるんじゃないか……。
 だとしたら、真田の登場は、或る意味面白い。
 とは言え、久美子自身、純哉に惹かれる一方で真田への気持ちも捨てきれない。
 彼と初めて逢ったのは、芹歌と組むようになって間もなくの頃だった。


 芹歌とはオリエンテーションの時に席が隣同士になったのがきっかけで友達になった。
 その後、同じピアノ科の田中沙織も交えて、3人はよく一緒に行動していた。
 同じクラスだから受ける授業も一緒だし、それぞれ性格が全く違うのに妙にウマが合う。

 芹歌が真田の伴奏をするようになったのは、入学して半年近く経った頃だった。
 真田は既に有名人だった。

 十代の頃から国内のコンクールは総ナメだ。
 誰もが認める存在だったが、性格の悪さも評判だった。

 1年後の有名な国際コンクールを目指し、優勝したら留学する予定でいたが、肝心な伴奏者が決まらない。
 そんな時、渡良瀬の勧めで芹歌と組むようになったのだが、練習に行く時に久美子も一緒に出かけて行った。

 何と言っても真田幸也だ。興味がある。
 彼のバイオリンは素晴らしいし、本人自身のルックスも素晴らしい。

 彼が演奏する姿にウットリと見惚れる女子学生はごまんといた。
 その真田と組む事になった芹歌が羨ましかったし、もし彼女が合わなくて辞めるようなら自分が立候補したいと思った。

 その為にも、根回しをしておかなければ。
 そんな気持ちで付いて行ったのだったが。
 伴奏者になるのは、早々に諦めた。

 練習中の真田は、演奏中の彼とは全くの別人だった。
 とにかく神経質で、些細な事にこだわる。

 ちょっとした自身のコンディションの変化にも敏感だし、楽器の音にも敏感だ。
 僅かなタッチの違いにも文句を付ける。

「その弾き方、さっきと違うぞ!何でさっきと同じに弾かないんだ!」
「ロボットじゃないんだから、出来るわけないし!」

「馬鹿な事いうな。正確無比さはロボットを目指せよ。俺が指定したのと同じに弾いてくれなきゃ、俺が思うように弾けないだろう!」
「同じように弾いてます!」

「ように、じゃ駄目なんだ!同じじゃなきゃ。いいか、俺の目指す音楽を理解しろ!じゃなきゃ、伴奏なんて無理だぞ!ただ合わせるだけなら、誰だってできるんだ」

 2人のやり取りを聞いているだけで、ウンザリしてきた。
 自分なら無理だ。
 こんな人の言う通りに弾けないし、だから辞めるだろう。

 自分のソリストとしての練習時間が無くなってしまう。
 それじゃぁ、いくら勉強の為とは言え、本末転倒じゃないか。

 最初のうち、2人のやり取りはまるで喧嘩のようだった。
 毎回こんな事を繰り返して、よく互いに嫌にならないものだと思った。

 特に芹歌。
 芹歌はまだ1年生だ。
 実力はかなりあったが、既に高みにいる真田から見ればひよっこみたいなものだ。

 散々罵倒されて、自分だったら自信を失って、ピアノを弾く事自体が嫌になりそうだ。
 それなのに、辞めないのが不思議でしょうがなかった。
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