第100話

文字数 3,261文字

「今日の演奏、自分でも分かってるよな」

 真田の部屋のソファに腰を沈めた時、向かい合わせに座った彼にそう言われた。

「俺と二人でやってる時より良く無かった。迷ってる風では無かったな。しきりに一生懸命弾いてはいたが、一本調子だった。あの曲はテクニックだけでも弾きこなせれば、聴衆からは歓声を受けられる。だから、あんな演奏でも、最後まで弾きこなせば『凄い』と思う人間は少なくないだろう。だが、俺の耳も審査員の耳も誤魔化せないぞ。何より自分自身の耳もな」

 まさに耳に痛かった。

「1次予選、2次予選と、進むほどに良くなってる。と言うより、1次の時から素晴らしい演奏ぶりなのに、何なんだ。コンクール前に後退してるじゃないか。恵子先生が、俺が来た事で良くなったと言ってたが、俺が来てあの程度なら、俺は立つ瀬が無い思いになる」

「ごめんなさい……」

 立つ瀬が無いなんて言われたら、謝るしか無かった。
 あんな演奏になった原因は真田の事だが、真田が悪いのではない。
 結局は自分自身の心の問題だ。

 真田は小さく吐息をつくと、立ち上がって芹歌の隣に座った。
 そっと抱きしめて来た。
 芹歌は僅かに硬くなる。

「悪かった。言い過ぎた。思うような結果が得られなかったからって、怒るのはお門違いだよな……。ごめんな」

 芹歌は頭を振って、真田の首に両手を回した。

「芹歌?」

「ごめんなさい。あなたが怒っても当然よ?だって私、自分でも満足のいく演奏ができなかったんだから……」

「だからって、責める俺も能が無い……。だけど、本当にどうしたんだろうな?」

「原因は……自分でわかってるの」
「どういう事だ?」

 芹歌は腕をほどいて真田から離れた。
 そばに置いたバックから、封筒と手袋を出す。

「それは……」
 真田は手袋を見て驚いた。

「それ、どうしたんだ。何でお前が持ってる?」

 かなり動揺しているのが見て取れる。

「その前に、こっちも見て?」

 芹歌は封筒の中身を見るように促した。
 真田は怪訝な顔をして封筒を受け取ると、中身を出して、ウンザリしたような顔になった。

「何だよ、これは。どうして芹歌がこんな物を持ってるんだ?」

 怒り調子だ。
 弁解しようとしない事が、真実を語っているのかもしれない。

「昨日の帰りに、須山さんに渡されたの。大田さんから渡すように言われたって」
「何だ、それは。何故、彼女たちが?」

「わからない?もう、あなたが相手にしないからよ。でも、コンクールが終われば、また元のようになるって言ってた。それから、私が帰った後、久美子と頻繁に逢ってるって。元々そういう関係だったんだから、当然だって」

 真田の目が怒りに燃えている。

「それで、お前はそれを信じたのか」

「嘘だって思った。でも、その写真を見てショックを受けたのも本当よ。ショックを受け無い方がおかしいでしょう?あなたの事が好きなんだから」

「そうだな。確かにそうだ。俺がお前だったら、やっぱりショックだ。信じていても」

「それで、その写真は一体どういう事なの?久美子と何があったの?そんな校内のベンチで、ラブシーンなんて有り得ないもの」

「はは、そうだな。芹歌の言う通りだ。それはな、中村さんがいきなり抱きついてきたんだ。純哉の事で打ち明け話をされて、泣きつかれた。俺も途方にくれたよ。泣きついてきた後輩を、無下に引き離す事もできなくて。俺の事で泣きついてきたなら容赦なく突き放すが、別の事だからさ。だが他人が見たら誤解するよな。悪かった。お前に一言、言っておけば良かった」

 芹歌は首を振る。
 やっぱり、事情があったんだ。思った通りだ。
 だけど、それなら野本加奈子は何故あんな事を?

「で、この手袋だが。どうして芹歌が持ってる?」

 芹歌は真田の目をジッと見た。
 後ろ暗さは感じられない。ただ不思議そうにしている。

「幸也さんは、この手袋をどこかに忘れて来たんだって自覚はあるの?」

「ああ……。気付いたのは今朝だけどな。コートのポケットに入れた筈なのに、無かったから。ただ、どこに忘れたのかは分からなかった」

「今朝はどうして遅刻したの?しかも、大幅に……」
「なんか俺、もしかして疑われてるのかな」

 真田の顔が少し不機嫌そうに歪んだ。
 だが芹歌は、どうして質問された事に素直に答えてくれないんだと思う。

「じゃぁ、言う。夕べ、音楽家の野本加奈子がウチへ来たの」
「ええ?どうして彼女が?」

「それは、私の方が聞きたいです。その手袋、彼女が持ってきたのよ。あなたが忘れて行ったって。本当なら真田家に届ける所だけど、敷居が高くてできないから私にって。どういう事?一緒にあなたと仕事をしたいって言ってた。でも、私のコンクールがあるから断られたって。コンクールが終わったら、あなたを解放しろなんて言われたのよ?私にはピアノ教室の先生がお似合いだからって。それから、夕べは久美子に呼び出されて久美子の元へ行ったとも言ってた。ここまで言われたら、気にするなって言う方が無理でしょう?散々、(おとし)められて、馬鹿にされて、凄く悔しかった……」

 ボロボロと涙がこぼれてきた。
 ずっと泣くまいと頑張って来たが、限界だった。

「あの女っ」
 真田は険しい顔で拳を握りしめている。

「ねぇ……、昨日、あの人の部屋へ行ったの?その後、どこへ行ったの?私には言えない事なの?」

 真田は芹歌を見て、詫びるような顔になった。

「芹歌。昨日俺が行ったのは、純哉の所だ。純哉のマンションへ行ったんだよ。中村さんの事で。そしたら、そこに野本加奈子がいた」

「え?どうして?」

「純哉は野本加奈子と一緒に仕事をしているうちに、抜き差しならない関係になってね。その事を心配した中村さんが泣きついてきたんだ。お前の所に神永君の兄さんが来たあの日、純哉の所にあの女がいたんだよ。だから、昨日も、また来てるのかって思って部屋へ入ったんだが、純哉がいないって分かったのは、暫くしてからだった」

「それって、片倉先輩が留守の中、あの人がいたって事?」

「そういう事。途中で気付いて、すぐに部屋を出たが、誘惑された。勿論、俺は断ったよ。仕事の依頼もね。あの女と一緒に仕事をする気は全くない。その理由として、お前のコンクールの事を出してもいない。後ろから抱きついて来たが、振り払った。もしかしたら、その時に手袋が落ちたか、抜き取られたかしたんだと思う。俺は確かにポケットに入れたからな」

「じゃぁ、あの人はどうして私の事を……」

「さぁな。須山達と同じ穴の(むじな)じゃないのか。お前が妬ましいのさ。俺が(なび)かないから」

「幸也さん……」
 真田は芹歌の涙を拭った。

「お前を泣かせるような事をするなんて、許せない。あの女どもっ」

「私……。ごめんなさい。疑いたく無かった。信じたいって。だけど、どうしても心が」

「馬鹿だな。夕べ、あの女が帰った後にでも、すぐにメールなり電話なり、寄越せば良かったんだ。なぜ、そうしない。お前はいつもそうだ。一人で抱え込むなよ」

「ごめんなさい。でも、何だか聞きづらくて……。それに、それこそ、信じて無いのか、って怒られそうな気がして……」

「そうか。そうかもな……。俺も悪いんだな。夕べはな。純哉のマンションを出た後、純哉にメールをしたんだ。どう言う事だ?って。そしたらアイツ、実家にいてさ。マンションに押しかけて居座ってるあの女から逃げたらしい。で、アイツの実家に行ってたの。なんせ遠いから、日帰りできなくなって泊まってきたんだ。戻って来るのも大変だったよ。想像以上に時間がかかって。そんな訳で遅刻した。こんな事、手短に説明できないもんな」

 そうだったのか。そんな事があったとは。
 それにしても、野本加奈子には驚く。

 確か離婚歴があった筈だ。
 年齢的にも、真田や片倉とは一回り近く上なのに。
 そんな事は関係ないのか。

「芹歌……」
 強く抱きしめられた。

「悲しませて、心配させて、ごめん。だけどお前、相当俺を愛してるんだな」
「はい?」

 何で?
 いや、確かにその通りだとは思うが、それを本人が言うものか?

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み