第99話
文字数 3,305文字
ホルンの音から始まって、芹歌は怒りをピアノにぶちまけるように弾いた。
チャイコのピアノ協奏曲第1番の冒頭は、こんな時にお誂 え向きだと思う。
勿論、乱暴にならないように注意はしている。
バックのオケが一緒に怒ってくれているような気がして、気持ちに拍車をかけた。
一体、何なんだ、あの女は。
思い出すだけで、胸糞が悪くなる。
何で彼女に真田との仲をあれこれ言われなきゃならないんだ。
一緒に仕事がしたいって?
したきゃすればいいじゃない。
断られたからって、何で私に当たるのよ。
しかも、人の人生にまで口出ししてきて。一体何の権利があるって言うんだ。
ちょっと世間に知られてるからって、傲慢な。
だけど、手袋……。
それに、久美子との事……。
夕べ久美子の所へ行った?
それで、今朝は遅刻って、どういう事なの?
それと、あの写真。
彼を信じたい。
だけど……。
須山から渡された写真は、大田から預かったと言っていたんだから、あの二人がつるんでいるんだろうと想像がついた。
だが、あの二人と何の関係もない野本加奈子の口から、久美子の事を聞かされたて、何だかいきなり真実味を帯びて来たように感じた。
いきなりパンパン!と手を叩かれて、オーケストラの演奏が止まった。
ハッとする。
「ちょっと芹歌ちゃん。どうしたの?何だか心ここにあらずって感じよ?」
渡良瀬の厳しい表情に、芹歌は狼狽した。
「あ、すみません……」
「真田君の事が気になるの?子どもじゃないんだから大丈夫よ。彼がそばにいないと満足に弾けないようじゃ、困るわよ?」
胸にグサリときた。
昨日、野本加奈子に同じような言葉を浴びせられたのを思い出したからだ。
だが、言っている事は間違っていない。
何でこんな事で動揺して、満足に弾けなくなるんだ。
自分が情けなくなってくる。
自分は何の為にコンクールに挑戦しているのか。
確かに最初は真田に言われて、彼と共にヨーロッパへ行く為だったが、結局のところ、それは方便に過ぎないのだ。
ただピアノを弾くのが好きなだけでは駄目だ。ピアニストとして自立しなければ。
そう覚悟を決めた筈だ。
この道で生きて行く。だからこの壁を乗り越える。
「すみませんでした。もう一度お願いします」
芹歌は大きく息をした。
「まぁまぁね……。取り敢えず、入るタイミングは間違いなくできてる。あとは表現だけど、これは真田君が来てから、またやりましょう。それまで休憩ね」
渡良瀬の言葉で室内の緊張が解けたように、ザワザワとした。
芹歌は壁の時計に目をやる。11時近かった。
「先生、ちょっと遅くないですか?」
「そうね。そろそろ着く筈なんだけど」
一体、どうしたと言うのだろう。遅れるにしても大幅過ぎる。
取り敢えず、動揺を無理やり押さえこんでオケ合わせをしたが、終わった途端に言い知れぬ
感情が込み上げてくるのを抑えられなかった。
ちょうど11時になった時、レッスン室のドアが開いて真田が入って来た。
その顔を見てせつない気持ちが込み上げる。
誰もいなかったら抱きつきたいくらいだった。
「おはようございます。すみません、遅くなってしまって」
「待ってたわ~。ついさっき、一回目の合わせが終わった所よ。技術的には問題は無かったわ。芹歌ちゃんも、すっかり全部頭に入ってるようだし」
渡良瀬の言葉を受けて、真田は嬉しそうな笑顔を芹歌に向けた。
その顔にドキリとする。
こんな風に自分を見る彼なのだ。
周囲の声は雑音に違いない。そう自分に信じ込ませる。
「そうですか。それは良かった。芹歌、疲れてないか?」
優しく訊ねられた。
労わってくれて嬉しく思う。
「大丈夫」
微笑みながら返事をするが、自然に笑えたか心配になった。
真田は頷いた後、オーケストラのメンバーと挨拶を交わし、早速2回目の合わせに入る合図をした。
それに合わせて芹歌も準備をする。だが、彼の顔を見ていると、何故か心が揺れる。
(だめだ。集中しなきゃ)
芹歌は全ての事を頭から追い出した。
長くて激しい曲である。
注意力が散漫ではとてもじゃないがオーケストラと合わせる事はできない。
「芹歌。俺のバイオリンと合わせて練習した時の感覚を、思い出して弾くんだ」
真田に言われて頷いた。
真田のバイオリンで二人でずっと、練習してきた。
彼のオケパートは素晴らしかった。
だが細かい所をあちこちと指摘され、長い曲だけに戸惑う部分もあった。
トータル的に、その解釈と演奏で果たして良いのか?
自分自身の疑問もぶつけた。
まだ決着はついていない。
取り敢えず、実際にオケと合わせてから、また考えようと言う事になった。
だから、今日の合わせは重要だった。
(それなのに……)
その大事な日に、こんなに遅れてくるなんて。
芹歌は再び頭の中を振り払う。そして、言われた通りに弾くように努めた。
自分では夢中で弾いた。だが、終わった時、真田の顔が厳しかった。
明らかに気に入らない様子だ。
「さっきより良かったわよ、芹歌ちゃん」
渡良瀬の方は、明るい顔で手を叩いている。
オケのメンバーも、多くが手を叩いていた。
「真田君の厳しい耳には、まだまだに聴こえるかもしれないけど、初回にしては良い方よ?それにね。一番最初に合わせた時なんてね。それは酷かったのよ?あなたが遅れて来るって事で気に入らないのか、心細かったのかは知らないけれどね。すぐにやり直させてマシになったけど、それよりずっと良いわよ?ほんとに、あなたがいるといないとじゃ違うのねぇ」
渡良瀬は冷やかすような口ぶりだ。
「先生、やめて下さい。真田さんがいる、いないなんて関係ないですよ。それじゃ、本当に困っちゃうじゃないですか。子どもじゃないんだし……」
芹歌は皆の前でそんな事を言われて恥ずかしくなった。
「そうですよ、恵子先生。それじゃ困ります。とりあえず、今日は感じが掴めたので、これで終わりにしたいと思います。皆さん、ありがとうございました。お疲れ様です」
音楽にうるさい真田だけに、何度もやり直しがあると多くの人間が思っていたのだろう。
肩透かしを食ったような顔をして、戸惑いながら皆は片づけに入った。
「真田君、本当にいいの?今日はこれで……」
渡良瀬も心配そうな顔をしている。
「今日は、これでいいです。芹歌も2回続けて弾いてるし、これ以上やっても無駄に疲れるだけですから。すみません、遅れてしまって」
「いえ、それはいいのよ。まぁ、あなたがそう言うなら。色々考える所があるんでしょう」
芹歌は気持ちが落ちていくのを感じた。
どう見ても不機嫌そうだ。芹歌の演奏が気に入らなかったのが、はっきり分かる。
芹歌自身、夢中で真剣に弾けはしたものの、納得のいく演奏だったとは思えなかった。
何より心が解放できなかった。
弾いていて楽しさを感じられなかった。この人がそばにいたと言うのに。
芹歌はバックを持って立ち上がると、ひとりレッスン室を出た。
冷たい廊下が芹歌を迎える。
寒さを覚えて肩をすぼめたら、向こうから須山が早足で寄って来た。
「あら浅葱さん。こんにちは。レッスン、ひと段落ついてこれからお昼休みかしら?真田さん、まだ中よね?」
「レッスンは、これで終わりよ」
「あら、もう?折角のオケ合わせなのに?」
嘲 るような目をして芹歌をジロジロと見る。
なんて失礼な女なんだと思っていたら、背後から真田が出て来た。
「おい、芹歌。何一人で先に出てるんだよ」
「え?もう終わったんですよね?だから帰ろうと……」
「終わったけど、まだ家に帰るには早いだろ?さっさと一人で行くなよ。これから俺の家へ行くんだから」
「え?」
それって、どういう事?
「真田さん、レッスン終わったんですか?」
戸惑っている芹歌を余所に、須山が真田に声を掛けた。
頬を染めた笑顔には、媚 が含まれている。
「ああ。悪いが急ぎの用でないなら引き取ってくれ。じゃぁ、行こう」
真田は芹歌の手を握ると歩き出した。
芹歌は何がなんだかわからないまま、引っ張られるようにして歩き出す。
後に取り残された須山は悔しそうに顔を歪めていた。
チャイコのピアノ協奏曲第1番の冒頭は、こんな時にお
勿論、乱暴にならないように注意はしている。
バックのオケが一緒に怒ってくれているような気がして、気持ちに拍車をかけた。
一体、何なんだ、あの女は。
思い出すだけで、胸糞が悪くなる。
何で彼女に真田との仲をあれこれ言われなきゃならないんだ。
一緒に仕事がしたいって?
したきゃすればいいじゃない。
断られたからって、何で私に当たるのよ。
しかも、人の人生にまで口出ししてきて。一体何の権利があるって言うんだ。
ちょっと世間に知られてるからって、傲慢な。
だけど、手袋……。
それに、久美子との事……。
夕べ久美子の所へ行った?
それで、今朝は遅刻って、どういう事なの?
それと、あの写真。
彼を信じたい。
だけど……。
須山から渡された写真は、大田から預かったと言っていたんだから、あの二人がつるんでいるんだろうと想像がついた。
だが、あの二人と何の関係もない野本加奈子の口から、久美子の事を聞かされたて、何だかいきなり真実味を帯びて来たように感じた。
いきなりパンパン!と手を叩かれて、オーケストラの演奏が止まった。
ハッとする。
「ちょっと芹歌ちゃん。どうしたの?何だか心ここにあらずって感じよ?」
渡良瀬の厳しい表情に、芹歌は狼狽した。
「あ、すみません……」
「真田君の事が気になるの?子どもじゃないんだから大丈夫よ。彼がそばにいないと満足に弾けないようじゃ、困るわよ?」
胸にグサリときた。
昨日、野本加奈子に同じような言葉を浴びせられたのを思い出したからだ。
だが、言っている事は間違っていない。
何でこんな事で動揺して、満足に弾けなくなるんだ。
自分が情けなくなってくる。
自分は何の為にコンクールに挑戦しているのか。
確かに最初は真田に言われて、彼と共にヨーロッパへ行く為だったが、結局のところ、それは方便に過ぎないのだ。
ただピアノを弾くのが好きなだけでは駄目だ。ピアニストとして自立しなければ。
そう覚悟を決めた筈だ。
この道で生きて行く。だからこの壁を乗り越える。
「すみませんでした。もう一度お願いします」
芹歌は大きく息をした。
「まぁまぁね……。取り敢えず、入るタイミングは間違いなくできてる。あとは表現だけど、これは真田君が来てから、またやりましょう。それまで休憩ね」
渡良瀬の言葉で室内の緊張が解けたように、ザワザワとした。
芹歌は壁の時計に目をやる。11時近かった。
「先生、ちょっと遅くないですか?」
「そうね。そろそろ着く筈なんだけど」
一体、どうしたと言うのだろう。遅れるにしても大幅過ぎる。
取り敢えず、動揺を無理やり押さえこんでオケ合わせをしたが、終わった途端に言い知れぬ
感情が込み上げてくるのを抑えられなかった。
ちょうど11時になった時、レッスン室のドアが開いて真田が入って来た。
その顔を見てせつない気持ちが込み上げる。
誰もいなかったら抱きつきたいくらいだった。
「おはようございます。すみません、遅くなってしまって」
「待ってたわ~。ついさっき、一回目の合わせが終わった所よ。技術的には問題は無かったわ。芹歌ちゃんも、すっかり全部頭に入ってるようだし」
渡良瀬の言葉を受けて、真田は嬉しそうな笑顔を芹歌に向けた。
その顔にドキリとする。
こんな風に自分を見る彼なのだ。
周囲の声は雑音に違いない。そう自分に信じ込ませる。
「そうですか。それは良かった。芹歌、疲れてないか?」
優しく訊ねられた。
労わってくれて嬉しく思う。
「大丈夫」
微笑みながら返事をするが、自然に笑えたか心配になった。
真田は頷いた後、オーケストラのメンバーと挨拶を交わし、早速2回目の合わせに入る合図をした。
それに合わせて芹歌も準備をする。だが、彼の顔を見ていると、何故か心が揺れる。
(だめだ。集中しなきゃ)
芹歌は全ての事を頭から追い出した。
長くて激しい曲である。
注意力が散漫ではとてもじゃないがオーケストラと合わせる事はできない。
「芹歌。俺のバイオリンと合わせて練習した時の感覚を、思い出して弾くんだ」
真田に言われて頷いた。
真田のバイオリンで二人でずっと、練習してきた。
彼のオケパートは素晴らしかった。
だが細かい所をあちこちと指摘され、長い曲だけに戸惑う部分もあった。
トータル的に、その解釈と演奏で果たして良いのか?
自分自身の疑問もぶつけた。
まだ決着はついていない。
取り敢えず、実際にオケと合わせてから、また考えようと言う事になった。
だから、今日の合わせは重要だった。
(それなのに……)
その大事な日に、こんなに遅れてくるなんて。
芹歌は再び頭の中を振り払う。そして、言われた通りに弾くように努めた。
自分では夢中で弾いた。だが、終わった時、真田の顔が厳しかった。
明らかに気に入らない様子だ。
「さっきより良かったわよ、芹歌ちゃん」
渡良瀬の方は、明るい顔で手を叩いている。
オケのメンバーも、多くが手を叩いていた。
「真田君の厳しい耳には、まだまだに聴こえるかもしれないけど、初回にしては良い方よ?それにね。一番最初に合わせた時なんてね。それは酷かったのよ?あなたが遅れて来るって事で気に入らないのか、心細かったのかは知らないけれどね。すぐにやり直させてマシになったけど、それよりずっと良いわよ?ほんとに、あなたがいるといないとじゃ違うのねぇ」
渡良瀬は冷やかすような口ぶりだ。
「先生、やめて下さい。真田さんがいる、いないなんて関係ないですよ。それじゃ、本当に困っちゃうじゃないですか。子どもじゃないんだし……」
芹歌は皆の前でそんな事を言われて恥ずかしくなった。
「そうですよ、恵子先生。それじゃ困ります。とりあえず、今日は感じが掴めたので、これで終わりにしたいと思います。皆さん、ありがとうございました。お疲れ様です」
音楽にうるさい真田だけに、何度もやり直しがあると多くの人間が思っていたのだろう。
肩透かしを食ったような顔をして、戸惑いながら皆は片づけに入った。
「真田君、本当にいいの?今日はこれで……」
渡良瀬も心配そうな顔をしている。
「今日は、これでいいです。芹歌も2回続けて弾いてるし、これ以上やっても無駄に疲れるだけですから。すみません、遅れてしまって」
「いえ、それはいいのよ。まぁ、あなたがそう言うなら。色々考える所があるんでしょう」
芹歌は気持ちが落ちていくのを感じた。
どう見ても不機嫌そうだ。芹歌の演奏が気に入らなかったのが、はっきり分かる。
芹歌自身、夢中で真剣に弾けはしたものの、納得のいく演奏だったとは思えなかった。
何より心が解放できなかった。
弾いていて楽しさを感じられなかった。この人がそばにいたと言うのに。
芹歌はバックを持って立ち上がると、ひとりレッスン室を出た。
冷たい廊下が芹歌を迎える。
寒さを覚えて肩をすぼめたら、向こうから須山が早足で寄って来た。
「あら浅葱さん。こんにちは。レッスン、ひと段落ついてこれからお昼休みかしら?真田さん、まだ中よね?」
「レッスンは、これで終わりよ」
「あら、もう?折角のオケ合わせなのに?」
なんて失礼な女なんだと思っていたら、背後から真田が出て来た。
「おい、芹歌。何一人で先に出てるんだよ」
「え?もう終わったんですよね?だから帰ろうと……」
「終わったけど、まだ家に帰るには早いだろ?さっさと一人で行くなよ。これから俺の家へ行くんだから」
「え?」
それって、どういう事?
「真田さん、レッスン終わったんですか?」
戸惑っている芹歌を余所に、須山が真田に声を掛けた。
頬を染めた笑顔には、
「ああ。悪いが急ぎの用でないなら引き取ってくれ。じゃぁ、行こう」
真田は芹歌の手を握ると歩き出した。
芹歌は何がなんだかわからないまま、引っ張られるようにして歩き出す。
後に取り残された須山は悔しそうに顔を歪めていた。