第36話
文字数 2,023文字
「やっぱり、お前には分かるんだな。やっと聴きに来てくれたのに、あんな演奏しかできなくて、すまなかったな」
「先輩……」
「なぁ。やっぱりお前は、俺の芹歌だ。誰も気づかない事に気付いて指摘できるのは、お前だけだ。発表会の時のトリオで、お前は健在だってすぐに分かったよ。だから、また俺のパートナーになって欲しい」
芹歌は顔を少し赤らめて、俯いた。
「でも……」
「何が、でも、なんだ。いいか。勿体つけるのはやめてくれ。俺の性分は十分理解してるだろう?」
「まぁそうですけど……」
「お母さんは、あの後、何か言ってるのか?口にはしないが内心では反対そうだとか」
「いえ。好きなようにしていいって。正直、珍しいと言うか、驚きました」
「あいつのせいなんだってな」
「あいつ?」
訝 しげな視線を寄越す。
「あー、確か、神永とか言ったか……」
「なんで、知ってるんです?」
不審そうだ。
「そんな目で見るな。聞いたんだよ、恵子先生や久美子から」
「ああ、そうですか。神永君のせい、って言えばそうなのかもしれません。彼が来るようになってから、母は徐々に変わり始めました。でも良い方向なので」
「余計なお世話かもしれないが、その事に関しては忠告しておく。女二人の所帯に、若い男がレッスン以外で出入りするのは好ましくない。少し注意した方がいい」
「出入りって、レッスン後にちょっと食事していくだけですよ?」
「身内でもないのにか?お前の彼氏だって言うなら分かるが。他人が見たら、そう思うぞ。大体、発表会の時の様子からして、まるで婚約者か婿か?って感じだった」
芹歌の顔に怒りが浮かんできた。
「何言ってるんですか、失礼な。そんなわけ、ないじゃないですか」
「お前からすれば、そうだろう。俺は、はたから見た印象を言ってるんだ。俺は事情を知らないからな。そう見えた。周囲の生徒達の保護者だって、それに近い印象を持った筈だ。後から生徒の一人だと分かったわけだが、それにしても、あの親しさはどういう事?って感じで、一部では噂になってたぞ。お前、知らないだろうが」
芹歌は虚をつかれたような顔で、口を小さく開いて何か言おうとしたが、噤んだ。
「頑なだった母親が、あんな風に人前に出られるようになったんだから、感謝する気持ちも分かるし、冷たくもできないんだろうが、少しは気をつけた方がいい」
芹歌は小さく頷いたが、何かを考えている風だ。
「まずはさ。弾こう!グダグダ言ってないで、弾いてみようじゃないか。お前が好きな、『美しきロスマリン』、久しぶりにやらないか」
真田はバイオリンケースを開けた。
「え?いきなりですか?」
「ああ。難しい曲じゃないし、散々やっただろう。体が覚えてる筈だし、弾きだせばすぐに感覚が蘇る。自信が無いなんて御託、やってるうちに忘れるさ」
真田が調律を始めると、芹歌が慌てだした。
「え、やだ、先輩。そんないきなりで」
そう言いながら、鍵盤をパラパラと鳴らして、指慣らしを始めた。
ト長調だから音階的には簡単だし、ピアノにとってもあまり弾き甲斐のある曲とは言えない。
有名な曲ではあるが、リサイタルで演奏する事は滅多に無かった。
それなのに、何故か芹歌はこの曲が好きだった。
もう完全にバイオリンが主役でピアノは添え物のようなスタイルの曲なのに。
「さぁ、いくぞ」
ピアノの前奏など全くなく、いきなりバイオリンから入り、僅かに遅れてピアノが入る。
4分の3拍子で、軽やかなステップを踏むような曲だ。
正直な所、真田はこの曲は芹歌と組むまでは、あまり好きでは無かった。
単純過ぎて弾き甲斐が無い。
良く出来た曲だとは思うものの、演奏してても面白くなかった。
ところが、芹歌の伴奏で弾くと、楽しくなってくる。
この曲を弾く殆どの伴奏者は、ひたすらバイオリンをたてて、かなり抑えてピアノを弾く。
まさにピアノは添え物だ。
主役はバイオリンなのだから、当たり前の事なのだが、それが真田には物足りなかった。
超絶技巧の曲ならば、ピアノの音色はあまり気にならないが、こういう単純な曲だと退屈に感じてしまう。
それが、芹歌の伴奏で弾くと、単純な曲がたちどころに魅力的な曲に変わるのだった。
彼女は盛り上げ方が上手い。だから気持ちが良くなってくる。
音量は抑えているのに、音色はくっきりとしている。
それがバイオリンと良い具合に共鳴してくる。
ピアノの巧者はたくさんいるが、こんな伴奏をしてくれる人間は、あまりいない。
そして、真田の演奏に、これほどピッタリと合うのは芹歌以外にはいない。
曲が終わった時、回りの空気の全てが心地良かった。
二人が奏でた音楽が充満したまま包み込んでくるように感じる。
これを味わえるのは、矢張り相手が芹歌だからだと実感する。
芹歌を見ると、彼女も満たされたように、顔を紅潮させている。
目が合った。
もう、駄目だ。
真田は芹歌の隣に立つと、そっと顔を近づけて、その唇に口づけた。
「先輩……」
「なぁ。やっぱりお前は、俺の芹歌だ。誰も気づかない事に気付いて指摘できるのは、お前だけだ。発表会の時のトリオで、お前は健在だってすぐに分かったよ。だから、また俺のパートナーになって欲しい」
芹歌は顔を少し赤らめて、俯いた。
「でも……」
「何が、でも、なんだ。いいか。勿体つけるのはやめてくれ。俺の性分は十分理解してるだろう?」
「まぁそうですけど……」
「お母さんは、あの後、何か言ってるのか?口にはしないが内心では反対そうだとか」
「いえ。好きなようにしていいって。正直、珍しいと言うか、驚きました」
「あいつのせいなんだってな」
「あいつ?」
「あー、確か、神永とか言ったか……」
「なんで、知ってるんです?」
不審そうだ。
「そんな目で見るな。聞いたんだよ、恵子先生や久美子から」
「ああ、そうですか。神永君のせい、って言えばそうなのかもしれません。彼が来るようになってから、母は徐々に変わり始めました。でも良い方向なので」
「余計なお世話かもしれないが、その事に関しては忠告しておく。女二人の所帯に、若い男がレッスン以外で出入りするのは好ましくない。少し注意した方がいい」
「出入りって、レッスン後にちょっと食事していくだけですよ?」
「身内でもないのにか?お前の彼氏だって言うなら分かるが。他人が見たら、そう思うぞ。大体、発表会の時の様子からして、まるで婚約者か婿か?って感じだった」
芹歌の顔に怒りが浮かんできた。
「何言ってるんですか、失礼な。そんなわけ、ないじゃないですか」
「お前からすれば、そうだろう。俺は、はたから見た印象を言ってるんだ。俺は事情を知らないからな。そう見えた。周囲の生徒達の保護者だって、それに近い印象を持った筈だ。後から生徒の一人だと分かったわけだが、それにしても、あの親しさはどういう事?って感じで、一部では噂になってたぞ。お前、知らないだろうが」
芹歌は虚をつかれたような顔で、口を小さく開いて何か言おうとしたが、噤んだ。
「頑なだった母親が、あんな風に人前に出られるようになったんだから、感謝する気持ちも分かるし、冷たくもできないんだろうが、少しは気をつけた方がいい」
芹歌は小さく頷いたが、何かを考えている風だ。
「まずはさ。弾こう!グダグダ言ってないで、弾いてみようじゃないか。お前が好きな、『美しきロスマリン』、久しぶりにやらないか」
真田はバイオリンケースを開けた。
「え?いきなりですか?」
「ああ。難しい曲じゃないし、散々やっただろう。体が覚えてる筈だし、弾きだせばすぐに感覚が蘇る。自信が無いなんて御託、やってるうちに忘れるさ」
真田が調律を始めると、芹歌が慌てだした。
「え、やだ、先輩。そんないきなりで」
そう言いながら、鍵盤をパラパラと鳴らして、指慣らしを始めた。
ト長調だから音階的には簡単だし、ピアノにとってもあまり弾き甲斐のある曲とは言えない。
有名な曲ではあるが、リサイタルで演奏する事は滅多に無かった。
それなのに、何故か芹歌はこの曲が好きだった。
もう完全にバイオリンが主役でピアノは添え物のようなスタイルの曲なのに。
「さぁ、いくぞ」
ピアノの前奏など全くなく、いきなりバイオリンから入り、僅かに遅れてピアノが入る。
4分の3拍子で、軽やかなステップを踏むような曲だ。
正直な所、真田はこの曲は芹歌と組むまでは、あまり好きでは無かった。
単純過ぎて弾き甲斐が無い。
良く出来た曲だとは思うものの、演奏してても面白くなかった。
ところが、芹歌の伴奏で弾くと、楽しくなってくる。
この曲を弾く殆どの伴奏者は、ひたすらバイオリンをたてて、かなり抑えてピアノを弾く。
まさにピアノは添え物だ。
主役はバイオリンなのだから、当たり前の事なのだが、それが真田には物足りなかった。
超絶技巧の曲ならば、ピアノの音色はあまり気にならないが、こういう単純な曲だと退屈に感じてしまう。
それが、芹歌の伴奏で弾くと、単純な曲がたちどころに魅力的な曲に変わるのだった。
彼女は盛り上げ方が上手い。だから気持ちが良くなってくる。
音量は抑えているのに、音色はくっきりとしている。
それがバイオリンと良い具合に共鳴してくる。
ピアノの巧者はたくさんいるが、こんな伴奏をしてくれる人間は、あまりいない。
そして、真田の演奏に、これほどピッタリと合うのは芹歌以外にはいない。
曲が終わった時、回りの空気の全てが心地良かった。
二人が奏でた音楽が充満したまま包み込んでくるように感じる。
これを味わえるのは、矢張り相手が芹歌だからだと実感する。
芹歌を見ると、彼女も満たされたように、顔を紅潮させている。
目が合った。
もう、駄目だ。
真田は芹歌の隣に立つと、そっと顔を近づけて、その唇に口づけた。