第25話
文字数 4,105文字
何故この曲にしたんだろうと、芹歌は弾きながら考えていた。
最初の年は、ショパンのワルツ第3番を弾いた。暗い曲だ。
精神的なダメージが大きな頃だったから、とても明るい曲やスピード感のある曲を弾く気にはなれなかった。
次の年はチャイコフスキーの舟歌だ。綺麗な曲だが弾こうと思えば中級者でも弾ける。
静かで矢張り少し暗めで、翌年はもっと明るく華やかな曲を弾いて欲しいと生徒や保護者達から言われて、リストの愛の夢第3番を弾いた。
よく知られた曲だが、明るく華やかな曲とは言い難い。
そう暗くはないが、どこか切ない。
去年はショパンのワルツ第1番、華麗なる大円舞曲にした。良く知られた華やかな曲だ。
そして今年は、再び元に戻ったような曲。
元々とても好きな曲だ。ワルツやノクターンの気分じゃなかったから選んだ。
それだけの事だ。そう思う。
だが、心の底で何かが問いかける。
弾きながら胸が切なくなってきた。どうしてこんなに、切なくなるのだろう。
今日の発表会は成功したと言えるのに。
心配の種だった何人かの生徒達も、何とかソツなくこなしてくれた。それ以外の生徒達も良く頑張ってくれた。中でも神永はリハの時よりも遥かに良くて驚いた。
あんなに集中して弾けるとは。本番に強いタイプなのか。
演奏が終わって、驚く程の拍手が会場を包み、神永は目を丸くして驚いていた。
まるで夢から覚めたような顔だった。
そのままお辞儀をして舞台袖に戻って来た時、芹歌の顔を見て気恥ずかしそうな顔をして、通りすがりに言った言葉。
「あなたを想いながら弾きました」
お疲れ様、凄く良かったわよと声を掛けるつもりだったのに、何も言えなかった。
僅かの間、固まった。
その後すぐに振り向いたが、客席へと戻る彼の後姿が暗闇の中へと消えてゆく所だった。
「先生、出ていいですか?」と春田に声を掛けられて、水でも浴びせられたようにビックリした。
もしや、神永の言葉を聞かれたか?と思ったが、囁くような小声だったせいか春田には聴こえていなかったようでホッとした。
そう。囁くような声だった。
もしかしたら、自分の聞き違いだったのかもしれない。
いや、空耳かもしれない。だけど、空耳だったとしたら、恥ずかしい空耳だ。
幻想即興曲。そうだ。幻想なんだ。切ない心も、恥ずかしい空耳も……。
最後の音が静かに響いた。せつない余韻を残して。
拍手が湧いた。今年は来場者が多いせいか、拍手も去年より迫力がある。
本田朱音が大きな花束を持って舞台に近づいてきた。
全生徒達からの花束だ。
毎年貰っているが、今年は一段と立派だ。生徒の数が増えたからだろう。
「先生、素晴らしかったです」
「ありがとう」
再び、舞台上でお辞儀をした。
その時だった。予定外のセリフが司会者から聞えてきた。
「あのっ、皆さん!サブライズです!今日、この会場に、凄い方がおいでになっています。世界的なバイオリニストである、真田幸也さんです!」
突然の事に驚いて司会者の方へ顔を向けると、舞台袖から真田が歩いてきた。
(ええっ?何?どういう事なの?)
芹歌は愕然とした。会場は騒然としている。
ほぼ全員が立ち上がって、歓声をあげている。
真田は客席の方を向きながら、時々頭を軽く下げては、笑顔でこちらへ近づいてくる。
――どうして真田幸也がぁ??
驚愕の声があちこちで上がっている。
そんな声に答えるように、渡良瀬が壇上に上がって司会からマイクを受け取ると、簡単に説明しだした。
「みなさん、真田さんは芹歌先生の国芸の先輩にあたり、在学中は芹歌先生の伴奏でバイオリンを弾いていました。そういう関係で、今日は是非、芹歌先生の生徒さん達にお会いしたいと言う事で来て下さったんです。みなさん、良かったですね」
わぁ~っと一斉に歓声が上がる。まさにサプライズだろう。
だが客席の誰よりも、芹歌自身が一番信じられなかった。
ずっと音沙汰の無かった彼が、何故、何の連絡もないままで、いきなりここへやって来たのか?芹歌に会うのが目的なら、いきなりここへ来なくても良いだろう。
「久しぶりだな」
目の前に立った真田は、僅かに目を細めるようにして芹歌を見た。
芹歌は黙って頷いた。自分の顔が硬直しているのを感じる。
何を言ったら良いのか分からなくて、ただ見つめるだけしかできない。
だが、心の中では様々な思いが錯綜していた。
この人のそばで、この人と一緒に演奏した日々。
憧れて追い求めて、そして諦めた人が、今目の前にいる。
渡良瀬が真田の後を追うようにしてやってきて、彼にマイクを渡して挨拶を促した。
「みなさん、こんにちは。真田幸也です。今日の発表会、最初から聴かせてもらいましたが、皆さんがとても上手だったので、来て良かったと思っています。浅葱先生は、昔から耳の良い人で、音に凄く煩い人です。その先生から教わってる皆さんだけに、とても綺麗な音を奏でる事に感心しました。これからも先生の教えに従って、どんどん上達していって欲しいと思います」
爽やかで優しげな笑顔を浮かべて、それだけで人々を魅了した。
華のある、生まれついてのスター性は誰もが羨 む。
だが、この爽やかで優しげな面持ちとは裏腹に、内面は非常にナイーブで神経質で、尚且つ傲慢だった。
「今日は折角お越しいただいたので、もう一人のゲストと共に、芹歌先生と3人でトリオ演奏をして下さるとこの事です」
(もう一人のゲスト?)
舞台袖から片倉純哉が出て来た。
「真田さんと国芸の同期で親しくされている、新進気鋭のフルーティスト、片倉純哉さんです」
にこやかに手を振りながら歩いてきた。
「やぁ、こんにちは」
屈託のない笑顔で挨拶されて、芹歌も思わず「こんにちは」と返す。
しかし、何の予告もなく、いきなりトリオをやれとは、恵子先生も酷い人だ。
「みなさん、こんにちは。フルートを吹いている片倉純哉と言います。今日はバイオリンとフルート、そしてピアノのアンサンブルを皆さんにお届けしたいと思います。普段、一生懸命ピアノの練習をされてると思いますが、他の楽器とのアンサンブルの楽しさを少しでもお伝えできたら嬉しいです。今日は、ディズニーの『星に願いを』をやりますね」
子ども達が大喜びしている。
だけど、なんだ。
言われてすぐに演奏する曲名が出てくると言う事は、この二人は既に打合せ済みと言う事なのか?
芹歌は驚くばかりで、心がついていけていない事に焦った。
こんな精神状態でアンサンブルをやれと言うのか。
そもそも、真田の存在そのものが芹歌の心を波立たせていると言うのに。
「最初はフルートから始めるから、その後、バイオリンが入って次にピアノ、そして3人で。合図を送るから大丈夫だよね」
片倉は至って簡単そうに言う。
確かに曲自体は難しくも無いわけだが、全くのぶっつけ本番だ。
芹歌が不安な面持ちで真田の方を伺うと、渡されたバイオリンケースからバイオリンを出して調律を始めた。芹歌の事などまるで眼中にないみたいだ。
この人達は何の為にここにいるのか?改めて疑問に思う。
ピアノの椅子に腰かけて、真田の準備を待つ間、少し落ち着いて冷静になってきた。
真田のチューニングが終わり、二人はそれぞれのポジションに立った。
片倉が微かに頭を動かし、テンポを取りながら吹き始める。
柔らかで美しい音色だった。
短いフルートの前奏からバイオリンがゆったりと入る。
超絶技巧とは無縁の曲だが、簡単な曲ほど案外難しい。
真田が僅かに視線を芹歌の方へ飛ばした。そろそろ入れと言う意味だ。
楽譜がある訳でも無く、事前に打ち合わせた訳でも無い。
謂わば即興みたいなものなので、いつ入っても良いが、タイミングは大事だ。
真田に合わせるタイミングは芹歌にとっては何の問題も無かった。
最初に組んだ時には散々文句を言われ、けなされて、それはもう傷つけられたが、じきにそんな事は無くなった。
真田が望むタイミングでピアノを弾き出すと、真田は満足げに口許を緩めた。
その表情がひどく刹那的で、胸を締め付ける。
彼は、芹歌と共に演奏している時に、よくそんな表情を見せる。
他の人間の時よりも頻繁だと感じていたが、こうして再びその顔を見ると、切ない気持に襲われる。
この表情。
この間のリサイタルでは見ていない気がする……。
それに、クラシック以外の曲を弾くと言う事も珍しい。
子どもが多い発表会の場と言う事で選曲したのだろう。
お得意の超絶技巧の曲ではないのに、この間より音色に艶が感じられた。
3人で奏でている楽しさが演奏にも現れているようだ。
気持ち良さそうに弾いているのが伝わってくる。片倉も楽しそうな顔で吹いている。
真田と片倉は国芸時代、休み時間によく一緒に演奏していたが、そこへ芹歌が入って3人でコラボした事は一度もない。
二人とも一流の演奏家だ。その二人とこうして一緒に弾いているのは凄い事だ。
しかもこの二人は、ずっと成長し続けている。
芹歌とは違う。
一介の市井 のピアノ教師ごときが、一緒に演奏できる相手ではない。
それでも共に演奏できている事が楽しかった。やっぱりアンサンブルはいい。
ソロでは味わえない豊かさがある。
この瞬間は、3人ともただの演奏家に過ぎない。
演奏家同士の魂のふれあいと共鳴。存在するのは、それだけなのだ。
何もかもを忘れて演奏に没頭し、3つの楽器が奏でる音が作る宇宙の中に漂った。
そうして曲が終わった時、3人は互いの顔を見つめ合った。
頬が蒸気し、湯上りのような顔をしている。
一瞬の放心の後、会場内の割れんばかりの拍手で我に返った。
(嗚呼……)
感情が高まって、思わず瞳を閉じた。
この感覚……。ずっと忘れていた、懐かしい感覚。
「芹歌……」
目を開けたら真田が手を差し出していた。微かに微笑んでいる。
芹歌は微笑みを返しながらその手を取った。
真田はもう片方の手で片倉の手を取り、3人でお辞儀をした。
芹歌は繋がれた手を感じながら、今この瞬間が現実である事が信じられないのだった。
最初の年は、ショパンのワルツ第3番を弾いた。暗い曲だ。
精神的なダメージが大きな頃だったから、とても明るい曲やスピード感のある曲を弾く気にはなれなかった。
次の年はチャイコフスキーの舟歌だ。綺麗な曲だが弾こうと思えば中級者でも弾ける。
静かで矢張り少し暗めで、翌年はもっと明るく華やかな曲を弾いて欲しいと生徒や保護者達から言われて、リストの愛の夢第3番を弾いた。
よく知られた曲だが、明るく華やかな曲とは言い難い。
そう暗くはないが、どこか切ない。
去年はショパンのワルツ第1番、華麗なる大円舞曲にした。良く知られた華やかな曲だ。
そして今年は、再び元に戻ったような曲。
元々とても好きな曲だ。ワルツやノクターンの気分じゃなかったから選んだ。
それだけの事だ。そう思う。
だが、心の底で何かが問いかける。
弾きながら胸が切なくなってきた。どうしてこんなに、切なくなるのだろう。
今日の発表会は成功したと言えるのに。
心配の種だった何人かの生徒達も、何とかソツなくこなしてくれた。それ以外の生徒達も良く頑張ってくれた。中でも神永はリハの時よりも遥かに良くて驚いた。
あんなに集中して弾けるとは。本番に強いタイプなのか。
演奏が終わって、驚く程の拍手が会場を包み、神永は目を丸くして驚いていた。
まるで夢から覚めたような顔だった。
そのままお辞儀をして舞台袖に戻って来た時、芹歌の顔を見て気恥ずかしそうな顔をして、通りすがりに言った言葉。
「あなたを想いながら弾きました」
お疲れ様、凄く良かったわよと声を掛けるつもりだったのに、何も言えなかった。
僅かの間、固まった。
その後すぐに振り向いたが、客席へと戻る彼の後姿が暗闇の中へと消えてゆく所だった。
「先生、出ていいですか?」と春田に声を掛けられて、水でも浴びせられたようにビックリした。
もしや、神永の言葉を聞かれたか?と思ったが、囁くような小声だったせいか春田には聴こえていなかったようでホッとした。
そう。囁くような声だった。
もしかしたら、自分の聞き違いだったのかもしれない。
いや、空耳かもしれない。だけど、空耳だったとしたら、恥ずかしい空耳だ。
幻想即興曲。そうだ。幻想なんだ。切ない心も、恥ずかしい空耳も……。
最後の音が静かに響いた。せつない余韻を残して。
拍手が湧いた。今年は来場者が多いせいか、拍手も去年より迫力がある。
本田朱音が大きな花束を持って舞台に近づいてきた。
全生徒達からの花束だ。
毎年貰っているが、今年は一段と立派だ。生徒の数が増えたからだろう。
「先生、素晴らしかったです」
「ありがとう」
再び、舞台上でお辞儀をした。
その時だった。予定外のセリフが司会者から聞えてきた。
「あのっ、皆さん!サブライズです!今日、この会場に、凄い方がおいでになっています。世界的なバイオリニストである、真田幸也さんです!」
突然の事に驚いて司会者の方へ顔を向けると、舞台袖から真田が歩いてきた。
(ええっ?何?どういう事なの?)
芹歌は愕然とした。会場は騒然としている。
ほぼ全員が立ち上がって、歓声をあげている。
真田は客席の方を向きながら、時々頭を軽く下げては、笑顔でこちらへ近づいてくる。
――どうして真田幸也がぁ??
驚愕の声があちこちで上がっている。
そんな声に答えるように、渡良瀬が壇上に上がって司会からマイクを受け取ると、簡単に説明しだした。
「みなさん、真田さんは芹歌先生の国芸の先輩にあたり、在学中は芹歌先生の伴奏でバイオリンを弾いていました。そういう関係で、今日は是非、芹歌先生の生徒さん達にお会いしたいと言う事で来て下さったんです。みなさん、良かったですね」
わぁ~っと一斉に歓声が上がる。まさにサプライズだろう。
だが客席の誰よりも、芹歌自身が一番信じられなかった。
ずっと音沙汰の無かった彼が、何故、何の連絡もないままで、いきなりここへやって来たのか?芹歌に会うのが目的なら、いきなりここへ来なくても良いだろう。
「久しぶりだな」
目の前に立った真田は、僅かに目を細めるようにして芹歌を見た。
芹歌は黙って頷いた。自分の顔が硬直しているのを感じる。
何を言ったら良いのか分からなくて、ただ見つめるだけしかできない。
だが、心の中では様々な思いが錯綜していた。
この人のそばで、この人と一緒に演奏した日々。
憧れて追い求めて、そして諦めた人が、今目の前にいる。
渡良瀬が真田の後を追うようにしてやってきて、彼にマイクを渡して挨拶を促した。
「みなさん、こんにちは。真田幸也です。今日の発表会、最初から聴かせてもらいましたが、皆さんがとても上手だったので、来て良かったと思っています。浅葱先生は、昔から耳の良い人で、音に凄く煩い人です。その先生から教わってる皆さんだけに、とても綺麗な音を奏でる事に感心しました。これからも先生の教えに従って、どんどん上達していって欲しいと思います」
爽やかで優しげな笑顔を浮かべて、それだけで人々を魅了した。
華のある、生まれついてのスター性は誰もが
だが、この爽やかで優しげな面持ちとは裏腹に、内面は非常にナイーブで神経質で、尚且つ傲慢だった。
「今日は折角お越しいただいたので、もう一人のゲストと共に、芹歌先生と3人でトリオ演奏をして下さるとこの事です」
(もう一人のゲスト?)
舞台袖から片倉純哉が出て来た。
「真田さんと国芸の同期で親しくされている、新進気鋭のフルーティスト、片倉純哉さんです」
にこやかに手を振りながら歩いてきた。
「やぁ、こんにちは」
屈託のない笑顔で挨拶されて、芹歌も思わず「こんにちは」と返す。
しかし、何の予告もなく、いきなりトリオをやれとは、恵子先生も酷い人だ。
「みなさん、こんにちは。フルートを吹いている片倉純哉と言います。今日はバイオリンとフルート、そしてピアノのアンサンブルを皆さんにお届けしたいと思います。普段、一生懸命ピアノの練習をされてると思いますが、他の楽器とのアンサンブルの楽しさを少しでもお伝えできたら嬉しいです。今日は、ディズニーの『星に願いを』をやりますね」
子ども達が大喜びしている。
だけど、なんだ。
言われてすぐに演奏する曲名が出てくると言う事は、この二人は既に打合せ済みと言う事なのか?
芹歌は驚くばかりで、心がついていけていない事に焦った。
こんな精神状態でアンサンブルをやれと言うのか。
そもそも、真田の存在そのものが芹歌の心を波立たせていると言うのに。
「最初はフルートから始めるから、その後、バイオリンが入って次にピアノ、そして3人で。合図を送るから大丈夫だよね」
片倉は至って簡単そうに言う。
確かに曲自体は難しくも無いわけだが、全くのぶっつけ本番だ。
芹歌が不安な面持ちで真田の方を伺うと、渡されたバイオリンケースからバイオリンを出して調律を始めた。芹歌の事などまるで眼中にないみたいだ。
この人達は何の為にここにいるのか?改めて疑問に思う。
ピアノの椅子に腰かけて、真田の準備を待つ間、少し落ち着いて冷静になってきた。
真田のチューニングが終わり、二人はそれぞれのポジションに立った。
片倉が微かに頭を動かし、テンポを取りながら吹き始める。
柔らかで美しい音色だった。
短いフルートの前奏からバイオリンがゆったりと入る。
超絶技巧とは無縁の曲だが、簡単な曲ほど案外難しい。
真田が僅かに視線を芹歌の方へ飛ばした。そろそろ入れと言う意味だ。
楽譜がある訳でも無く、事前に打ち合わせた訳でも無い。
謂わば即興みたいなものなので、いつ入っても良いが、タイミングは大事だ。
真田に合わせるタイミングは芹歌にとっては何の問題も無かった。
最初に組んだ時には散々文句を言われ、けなされて、それはもう傷つけられたが、じきにそんな事は無くなった。
真田が望むタイミングでピアノを弾き出すと、真田は満足げに口許を緩めた。
その表情がひどく刹那的で、胸を締め付ける。
彼は、芹歌と共に演奏している時に、よくそんな表情を見せる。
他の人間の時よりも頻繁だと感じていたが、こうして再びその顔を見ると、切ない気持に襲われる。
この表情。
この間のリサイタルでは見ていない気がする……。
それに、クラシック以外の曲を弾くと言う事も珍しい。
子どもが多い発表会の場と言う事で選曲したのだろう。
お得意の超絶技巧の曲ではないのに、この間より音色に艶が感じられた。
3人で奏でている楽しさが演奏にも現れているようだ。
気持ち良さそうに弾いているのが伝わってくる。片倉も楽しそうな顔で吹いている。
真田と片倉は国芸時代、休み時間によく一緒に演奏していたが、そこへ芹歌が入って3人でコラボした事は一度もない。
二人とも一流の演奏家だ。その二人とこうして一緒に弾いているのは凄い事だ。
しかもこの二人は、ずっと成長し続けている。
芹歌とは違う。
一介の
それでも共に演奏できている事が楽しかった。やっぱりアンサンブルはいい。
ソロでは味わえない豊かさがある。
この瞬間は、3人ともただの演奏家に過ぎない。
演奏家同士の魂のふれあいと共鳴。存在するのは、それだけなのだ。
何もかもを忘れて演奏に没頭し、3つの楽器が奏でる音が作る宇宙の中に漂った。
そうして曲が終わった時、3人は互いの顔を見つめ合った。
頬が蒸気し、湯上りのような顔をしている。
一瞬の放心の後、会場内の割れんばかりの拍手で我に返った。
(嗚呼……)
感情が高まって、思わず瞳を閉じた。
この感覚……。ずっと忘れていた、懐かしい感覚。
「芹歌……」
目を開けたら真田が手を差し出していた。微かに微笑んでいる。
芹歌は微笑みを返しながらその手を取った。
真田はもう片方の手で片倉の手を取り、3人でお辞儀をした。
芹歌は繋がれた手を感じながら、今この瞬間が現実である事が信じられないのだった。