第50話
文字数 2,227文字
芹歌は公民館の応接室にいた。
合唱団の理事長から話しがあると呼びだされたからだ。
「こんなにお願いしても、駄目なんですか」
合唱祭は散々だったようだ。
何人も団員が辞め、その欠員を埋める人間も集まらず、ずっと練習してきた『モルダウ』はかろうじて格好がついたものの、山口の曲である『秋の便り』は何を歌ってるのか全く分からないような状況だったらしい。
折角聴きに来た聴衆からも、最後はブーイングが上がったそうだ。
「私が戻ったからと言って、事態が好転するとは思えないんですけど」
合唱の出来不出来の責任は指導者にある。
「いや、そんな事はありませんよ。団員達も、今のピアニストは歌いにくい、浅葱さんのピアノの方が遥かに歌いやすかったと言ってるんです。あの山口さんをカバーできるのは、浅葱さんしかいない。だから、どうか……」
どうして、山口をどうにかしようと考えないのか不思議だ。
「山口さんは、なんて?」
理事長の顔が強張る。
「あ、山口さんは、任せるっておっしゃってます。浅葱さんが戻ってくるなら、それはそれで構わないと……」
最後は尻すぼみな語調だ。
芹歌は理事長の態度にウンザリする。
山口は本当は、芹歌が戻るのを快く思ってはいないだろう。
あの人は自分の言いなりになるピアニストが良いのだ。
今のピアニストはきっと彼の言いなりなんだろう。
団員達が歌いやすいようにとか、そういう事は一切考えずに、ただ言われた通りに弾いているに違いない。
「団員達は、浅葱さんに戻って来て欲しいと言っています。そうでなかったら、もう辞めると言う者たちもいるんですよ。これ以上、抜けられたらクリスマスの公演が出来なくなってしまいます。だから、お願いします」
額を擦り付けんばかりに、頭を下げて来る。
それだけ、切羽詰まっているのだろう。
同情の気持ちは湧くものの、戻ろうと言う気持ちは湧いて来ない。
それに、そこまで切羽詰まっているのなら、何故、指揮者を変えようとはしないのだろう。
そもそもの原因は、全て山口にあるのに。
「あの……、こんな事を私が言うのもなんですけど、指揮者を変えようとか、そういう考えは無いんですか?」
「ああ……。それは……。理事会の中で、そういう話しも出るには出ています。ですが、契約が3月までなので、取り敢えずそれまでは続けて貰って、更新はしない方向で行こうって事で、新年度からの指揮者を今、あたっている所なんですよ」
「今すぐは無理って事なんですね?」
「そういう事です。ですから浅葱さんも、3月まで我慢して貰えれば、4月以降はもっと浅葱さんとも相性が良さそうな指揮者にしますから、今後も安心して続けて貰えます。ほんの、4,5カ月の我慢で済みますから」
芹歌は頭を抱えた。
ほんの4,5カ月の我慢……。
4,5カ月が『ほんの』、なのだろうか。
芹歌には、そうは思えない。もう11月に入ってしまっている。
クリスマスの公演まで1カ月少々だ。
これまでの遅れを取り戻すべく、練習日は増えるだろう。
伴奏の仕事も入っているし、真田との学内コンサートもある。
とてもじゃないが、無理だ。
だが、団員達の事を思うと胸が痛む。
その上、更に人数が減ったら、合唱団はどうなってしまうのだろう。
山口がどうなろうが知った事ではないが、ずっと団を支えて来た自負がある身としては、辛い。
だが、どうにもできないのも事実だ。
「すみません。今更そんな事を言われても、私にも他に仕事がありますし……」
かろうじて、そう答える。
「そこを何とか……。今すぐじゃなくてもいいです。3日ほど、考えて貰えませんか。本当なら、もう少し時間を差し上げたいところですが、時間的な余裕も無いので」
「でも……」
「とにかく、少しだけ、考えて下さい。3日後に、お電話しますから、返事はその時に」
理事長はそう言うと、一礼して応接室を出て行ってしまった。
残された芹歌は、柔らかいソファに身を沈めたまま暫く立ち上がれずにいた。
(困ったな……)
嫌な事は重なるものなんだ。
次から次へと芹歌を悩ますことばかり。
団の事を考えると、自分さえ我慢すれば良いんだと思うものの、一方で、あの山口と4,5カ月で終わりとは言え、また顔を突き合わすのかと思うと、鉛でも飲み込んだように気が重くなり、胃が痛くなってくる。
陰鬱な気持ちで外へ出た。
ヒンヤリした空気が体を包む。
すっかり秋だ。空が高い。
「芹歌さん」
声を掛けられてビックリする。
見ると神永が立っていた。
「神永君……。どうしてここに?」
「お宅へ伺ったら、ここだって聞いたんです。合唱団から呼びだされたって」
静かな瞳だった。
だが、僅かに悲しい印象だ。
「うちへ、来たの?」
「はい」
「どうして?」
「あなたに逢いたくて」
芹歌は返事に窮した。
せつなそうな目で見られている事に戸惑う。
もう1カ月ほど、ずっと事務的な目で見られていたのに、どうしてまた、こんな目で見るのか。
「芹歌さん。良かったら、このまま帰らずにどこかへ行きませんか?」
何も言えずにいる芹歌に、神永はそっと笑って提案した。
「あ、あの……」
「行きたい所、ないですか?」
首を傾げて微笑んでいる。優しげな瞳が胸に沁みる。
「海……。海、見たい……」
思わず口をついて出た。
せせこましい都会の中ではなく、広い空と海に包まれたかった。
神永はにっこりすると「じゃぁ、行きましょう」と言って静かに歩き出した。
合唱団の理事長から話しがあると呼びだされたからだ。
「こんなにお願いしても、駄目なんですか」
合唱祭は散々だったようだ。
何人も団員が辞め、その欠員を埋める人間も集まらず、ずっと練習してきた『モルダウ』はかろうじて格好がついたものの、山口の曲である『秋の便り』は何を歌ってるのか全く分からないような状況だったらしい。
折角聴きに来た聴衆からも、最後はブーイングが上がったそうだ。
「私が戻ったからと言って、事態が好転するとは思えないんですけど」
合唱の出来不出来の責任は指導者にある。
「いや、そんな事はありませんよ。団員達も、今のピアニストは歌いにくい、浅葱さんのピアノの方が遥かに歌いやすかったと言ってるんです。あの山口さんをカバーできるのは、浅葱さんしかいない。だから、どうか……」
どうして、山口をどうにかしようと考えないのか不思議だ。
「山口さんは、なんて?」
理事長の顔が強張る。
「あ、山口さんは、任せるっておっしゃってます。浅葱さんが戻ってくるなら、それはそれで構わないと……」
最後は尻すぼみな語調だ。
芹歌は理事長の態度にウンザリする。
山口は本当は、芹歌が戻るのを快く思ってはいないだろう。
あの人は自分の言いなりになるピアニストが良いのだ。
今のピアニストはきっと彼の言いなりなんだろう。
団員達が歌いやすいようにとか、そういう事は一切考えずに、ただ言われた通りに弾いているに違いない。
「団員達は、浅葱さんに戻って来て欲しいと言っています。そうでなかったら、もう辞めると言う者たちもいるんですよ。これ以上、抜けられたらクリスマスの公演が出来なくなってしまいます。だから、お願いします」
額を擦り付けんばかりに、頭を下げて来る。
それだけ、切羽詰まっているのだろう。
同情の気持ちは湧くものの、戻ろうと言う気持ちは湧いて来ない。
それに、そこまで切羽詰まっているのなら、何故、指揮者を変えようとはしないのだろう。
そもそもの原因は、全て山口にあるのに。
「あの……、こんな事を私が言うのもなんですけど、指揮者を変えようとか、そういう考えは無いんですか?」
「ああ……。それは……。理事会の中で、そういう話しも出るには出ています。ですが、契約が3月までなので、取り敢えずそれまでは続けて貰って、更新はしない方向で行こうって事で、新年度からの指揮者を今、あたっている所なんですよ」
「今すぐは無理って事なんですね?」
「そういう事です。ですから浅葱さんも、3月まで我慢して貰えれば、4月以降はもっと浅葱さんとも相性が良さそうな指揮者にしますから、今後も安心して続けて貰えます。ほんの、4,5カ月の我慢で済みますから」
芹歌は頭を抱えた。
ほんの4,5カ月の我慢……。
4,5カ月が『ほんの』、なのだろうか。
芹歌には、そうは思えない。もう11月に入ってしまっている。
クリスマスの公演まで1カ月少々だ。
これまでの遅れを取り戻すべく、練習日は増えるだろう。
伴奏の仕事も入っているし、真田との学内コンサートもある。
とてもじゃないが、無理だ。
だが、団員達の事を思うと胸が痛む。
その上、更に人数が減ったら、合唱団はどうなってしまうのだろう。
山口がどうなろうが知った事ではないが、ずっと団を支えて来た自負がある身としては、辛い。
だが、どうにもできないのも事実だ。
「すみません。今更そんな事を言われても、私にも他に仕事がありますし……」
かろうじて、そう答える。
「そこを何とか……。今すぐじゃなくてもいいです。3日ほど、考えて貰えませんか。本当なら、もう少し時間を差し上げたいところですが、時間的な余裕も無いので」
「でも……」
「とにかく、少しだけ、考えて下さい。3日後に、お電話しますから、返事はその時に」
理事長はそう言うと、一礼して応接室を出て行ってしまった。
残された芹歌は、柔らかいソファに身を沈めたまま暫く立ち上がれずにいた。
(困ったな……)
嫌な事は重なるものなんだ。
次から次へと芹歌を悩ますことばかり。
団の事を考えると、自分さえ我慢すれば良いんだと思うものの、一方で、あの山口と4,5カ月で終わりとは言え、また顔を突き合わすのかと思うと、鉛でも飲み込んだように気が重くなり、胃が痛くなってくる。
陰鬱な気持ちで外へ出た。
ヒンヤリした空気が体を包む。
すっかり秋だ。空が高い。
「芹歌さん」
声を掛けられてビックリする。
見ると神永が立っていた。
「神永君……。どうしてここに?」
「お宅へ伺ったら、ここだって聞いたんです。合唱団から呼びだされたって」
静かな瞳だった。
だが、僅かに悲しい印象だ。
「うちへ、来たの?」
「はい」
「どうして?」
「あなたに逢いたくて」
芹歌は返事に窮した。
せつなそうな目で見られている事に戸惑う。
もう1カ月ほど、ずっと事務的な目で見られていたのに、どうしてまた、こんな目で見るのか。
「芹歌さん。良かったら、このまま帰らずにどこかへ行きませんか?」
何も言えずにいる芹歌に、神永はそっと笑って提案した。
「あ、あの……」
「行きたい所、ないですか?」
首を傾げて微笑んでいる。優しげな瞳が胸に沁みる。
「海……。海、見たい……」
思わず口をついて出た。
せせこましい都会の中ではなく、広い空と海に包まれたかった。
神永はにっこりすると「じゃぁ、行きましょう」と言って静かに歩き出した。