第88話
文字数 3,733文字
「え?何ですか?」
渡されたプリントを見て、神永は凍りついたように固まった。
「教室閉鎖?」
「そうなの……」
「えっ、閉鎖って、どういう事です?何で閉鎖なんて……。もしかして、僕が来ない間に、何か問題があったんですか?」
心配げに問いかける顔を見て、また胸が痛くなった。
「私ね。コンクールが終わったら、ヨーロッパに行く事にしたの」
「ええ?」
神永の眉根が寄り、訝しげな目を芹歌に向けた。
「真田さんと一緒に……」
彼の唇が震えだした。
目が信じられない物でも見るような目になった。
「ど、ど、どうして……」
絞り出すような声がレッスン室の中に吸い込まれるように消えた。
「ごめんなさい。あなたには、謝る事しかできない」
見開かれた目が、芹歌の心を探るように揺れている。
「そ、それは……、僕との仲を……解消したいって事でもあるんですか?」
息が詰まるような喋り方に、芹歌も息苦しくなってくる。
「ごめんなさい。もっと早く言いたかったんだけど、神永君、ずっと連絡がつかなかったから……」
「もう、僕を好きじゃ無くなった?お正月から1カ月も音信不通だったから、嫌になったんですか?それとも、あんな兄がいるから、関わりたくなくなったのかな。…それとも、…僕が人殺しだから?」
神永は自虐的な笑みを浮かべながら、体を震わせている。
「神永君、違うのっ。そうじゃないのっ」
「じゃぁ、どうだって言うんです?どうして、あの人と一緒にヨーロッパに?そりゃぁ、僕よりも、あの人の方が人間的にも価値が高いでしょう。見た目だって、家柄だって、何から何まであの人の方がいいんでしょうけど、でも僕は、ずっとあなたの傍で、あなたを助けたくて、あなたを大事に想ってきたのに」
いつもの爽やかさは消え、苦痛に歪んでいた。
「あの人は、お父さんを亡くして苦労してる芹歌さんを、5年もほったらかしにしてたんですよ?なのに、なんで、なんで今更……。どうして、あなたは、そんなに簡単にあの人の方を選ぶんだ!」
泣いてはいないが、泣き叫ぶような投げかけに、芹歌の方が涙ぐむ。
「芹歌さん、お願いだから行かないで下さい。僕の方が、あの人よりもずっとあなたを愛してる。誰よりも、あなたを大事にします。お母さんだって、同じです。僕達三人で、幸せな家庭を築きましょうよ。僕にはそうできる自信があります。だから」
神永は立ち上がると、芹歌を抱き寄せた。
芹歌は抵抗したが、神永は腕の力を一層強めた。
「神永君……。ごめんね。でも、もう決めたの。だから、離して?」
「いやだっ、絶対にいやだっ!絶対に……」
神永に抱きしめられながら、せつない思いで胸が一杯になる。
この胸の中で、どれだけ癒されただろう。
安心しただろう。
二人で過ごした幸せだった時間を思い出すと、やり切れない思いが湧いてくる。
そして、罪悪感も湧いてくるのだった。
芹歌は、自分を抱きしめて離さない神永の背中を、宥めるようにそっと撫でた。
「聞きたい事があります……」
神永の声が少しだけ落ち着いてきた。
「ん……」
「あの人が帰って来てなかったら、僕と別れる事は無かったと思いますか?」
芹歌は逡巡した。
答えはイエスなのだが、正直に告げて良いものかどうか迷った。
この人との時間は楽しかった。仄々 とした幸せな時間だった。
失くしてしまった家族の団欒 をこの人が与えてくれて、暗かった家に光が射し込んだようだった。
だから、真田の帰国が無かったら、きっとこの人をそのまま自然に受け入れていたと思う。
「うん、多分……」
結局芹歌は、神永を突き放す事ができなかった。
「僕は……、あの学内コンサート後の事件を受けて、胸が騒ぎました。翌日の新聞を見て、嫌な予感を覚えた。こうなることを漠然とだけど予測していたのかもしれません。ただ、認めたく無かった…。そうならないようにと強く願ってたんです。もっと早く、あなたを自分のものにしてたら良かった。やっと幸せを得られたと思っていたのに……」
「神永君。本当にごめんなさい。私はずっと、真田さんを想ってたんだと思う。でも、自分で
否定する心が、ずっと自分を抑えてた。再会しなければ、あの人から求められなければ、フェードアウトするように忘れていったと思う」
もう、永遠に交わらないだろうと思っていたのだから。
「あなたの存在は、私にとっては救いだった。でも、思っていたようにはならなかった。だから……。いくら謝っても許して貰えないかもしれないけど、私には謝ることしかできない。本当にごめんなさい」
神永の体が震えている。
「芹歌さん……、芹歌さん、芹歌さんっ。好きです。あなたが好きでたまらない。女々しいと言われようと、未練がましいと言われようと、好きなんだ。離したくないんだよぉ……。ずっと傍にいたいんだ。あなたとお母さんの傍に、ずっと……」
泣きながら訴える神永に、思わず応えてしまいたくなってくる。
芹歌もあまりにせつなくて涙がこぼれてきた。
自分が真田を諦めれば良いのだろうか。
この人を好きな気持ちも持っている。
この人を選べば、きっと母も喜ぶに違いない。
コンクールで優勝すれば、仕事も増えるだろうし、何より、教室の生徒達への責任も果たし続けていける。
全てが丸く収まるのだ。
自分はピアニストを目指していたわけではない。
伴奏者として、ずっと弾き続けていければ幸せなのだ。
わざわざヨーロッパへ行く必要性も無い。
真田の顔が浮かんできた。
神経質で傲慢で、意地悪で。だが、そんな事など微塵も感じさせない豊な音を出すバイオリン。
そしてそれを奏でている時の、艶やかでやるせない表情。
一緒に奏でる時に芹歌を見る、あの視線……。
『愛してる』と囁いた深い声。
何より芹歌を愛しげに見つめる優しい瞳。
全てが何よりも愛しくて恋しい。思い出しただけで胸がキュンとする。
もう二度と離れまいと心に誓った。
だから。
私はやっぱり、この人を選べない。
一緒にいてあげたい気持ちはあるものの、真田との人生を捨てる事はできないのだった。
――コンコン……
ドアをノックする音が聞えた。
それと同時に、神永の体が離れた。
芹歌は涙を拭って、ドアを開けた。須美子だった。
「あの……。神永さん、久しぶりですよね?この後、どうされますか?奥様が是非来て欲しいっておっしゃってるんですが……」
芹歌の目が赤いのに気付いたのだろう。
戸惑い気味に訊ねてきた。
芹歌としては、あまり気が進まないが、神永の事をずっと心配していた母の事を思うと、自分の一存でどうこう言えない。
芹歌が振り返ると、神永は笑顔になった。
「凄くご無沙汰して、心配かけちゃったみたいですから、ご一緒させてもらいます。そう伝えて下さい」
神永の明るい答えに、須美子はホッとしたような顔になった。
「わかりました。では、後ほど……」
ドアが閉まり、芹歌が再び振り返ると、神永は笑顔のままだった。
それが却ってせつなさを募らせる。
「先生、すみません。レッスン中なのに。お母さんも待ってるから、早く済ませちゃいましょう。あ、そうだ。ヨーロッパの話し、お母さんもご存じなんですか?」
「ううん。まだ話してないの。でも、そろそろ話すつもりよ」
「反対されたら、どうするんです?」
「説得するしかないわね。じゃぁ、レッスン始めましょうか」
須美子の訪れで、高まっていた緊張の糸が、一端ふつりと切れた感じだ。
神永は長い間レッスンを休んでいたせいもあって、少し後退していたが、懸命に練習してきたのが感じられる。
彼はいつも真面目に練習してくる、優秀な生徒だ。
「先生……。僕は、ここが閉鎖になった後、どこの教室へも通わないつもりです」
レッスンが終わった時に、神永が静かに言った。
「え?どうして?続けないの?」
「はい。ピアノ、やめます」
「そんな……。だって、音楽、好きなんでしょう?だから、ずっと弾いて来たんでしょう?これからじゃない」
「ピアノを弾くのに憧れて、ずっと独学でやってきました。あなたに出逢って、あなたの元で習いたいって思うようになって、願いが叶った。本当なら、ピアノを弾く事自体が楽しかった筈ですが、僕はいつの間にか、ここへ通うのが楽しみになり、あなたに教わる事が、何より嬉しくて……」
神永は寂しそうに微笑んだ。
「でももう、あなたに教われないのなら、ピアノを弾くのは悲しいばかりです。ピアノはあなたを思い出させる。そうしたら、辛いばっかりになってしまうから。だからもう、弾けないんです。本当なら、今日限りでレッスンを終えたいくらいなんですが、それではあまりに辛すぎるから、最後のレッスン日までは頑張るつもりです」
芹歌は何も言えなくなった。
彼にピアノを止めて欲しくない。ずっと続けて欲しい。そう切に思っている。
だが、その気持ちを聞くと何も言えない。
彼の気持ちに応えられない自分には、これ以上言う資格は無いように思えた。
「じゃぁ、行きましょうか。お母さんの所に。久しぶりの再会に、喜んでくれるかな」
神永は、気を取り直すように笑顔になった。
芹歌は笑って応えたが、きっとぎこちない笑顔だったに違いないと思った。
渡されたプリントを見て、神永は凍りついたように固まった。
「教室閉鎖?」
「そうなの……」
「えっ、閉鎖って、どういう事です?何で閉鎖なんて……。もしかして、僕が来ない間に、何か問題があったんですか?」
心配げに問いかける顔を見て、また胸が痛くなった。
「私ね。コンクールが終わったら、ヨーロッパに行く事にしたの」
「ええ?」
神永の眉根が寄り、訝しげな目を芹歌に向けた。
「真田さんと一緒に……」
彼の唇が震えだした。
目が信じられない物でも見るような目になった。
「ど、ど、どうして……」
絞り出すような声がレッスン室の中に吸い込まれるように消えた。
「ごめんなさい。あなたには、謝る事しかできない」
見開かれた目が、芹歌の心を探るように揺れている。
「そ、それは……、僕との仲を……解消したいって事でもあるんですか?」
息が詰まるような喋り方に、芹歌も息苦しくなってくる。
「ごめんなさい。もっと早く言いたかったんだけど、神永君、ずっと連絡がつかなかったから……」
「もう、僕を好きじゃ無くなった?お正月から1カ月も音信不通だったから、嫌になったんですか?それとも、あんな兄がいるから、関わりたくなくなったのかな。…それとも、…僕が人殺しだから?」
神永は自虐的な笑みを浮かべながら、体を震わせている。
「神永君、違うのっ。そうじゃないのっ」
「じゃぁ、どうだって言うんです?どうして、あの人と一緒にヨーロッパに?そりゃぁ、僕よりも、あの人の方が人間的にも価値が高いでしょう。見た目だって、家柄だって、何から何まであの人の方がいいんでしょうけど、でも僕は、ずっとあなたの傍で、あなたを助けたくて、あなたを大事に想ってきたのに」
いつもの爽やかさは消え、苦痛に歪んでいた。
「あの人は、お父さんを亡くして苦労してる芹歌さんを、5年もほったらかしにしてたんですよ?なのに、なんで、なんで今更……。どうして、あなたは、そんなに簡単にあの人の方を選ぶんだ!」
泣いてはいないが、泣き叫ぶような投げかけに、芹歌の方が涙ぐむ。
「芹歌さん、お願いだから行かないで下さい。僕の方が、あの人よりもずっとあなたを愛してる。誰よりも、あなたを大事にします。お母さんだって、同じです。僕達三人で、幸せな家庭を築きましょうよ。僕にはそうできる自信があります。だから」
神永は立ち上がると、芹歌を抱き寄せた。
芹歌は抵抗したが、神永は腕の力を一層強めた。
「神永君……。ごめんね。でも、もう決めたの。だから、離して?」
「いやだっ、絶対にいやだっ!絶対に……」
神永に抱きしめられながら、せつない思いで胸が一杯になる。
この胸の中で、どれだけ癒されただろう。
安心しただろう。
二人で過ごした幸せだった時間を思い出すと、やり切れない思いが湧いてくる。
そして、罪悪感も湧いてくるのだった。
芹歌は、自分を抱きしめて離さない神永の背中を、宥めるようにそっと撫でた。
「聞きたい事があります……」
神永の声が少しだけ落ち着いてきた。
「ん……」
「あの人が帰って来てなかったら、僕と別れる事は無かったと思いますか?」
芹歌は逡巡した。
答えはイエスなのだが、正直に告げて良いものかどうか迷った。
この人との時間は楽しかった。
失くしてしまった家族の
だから、真田の帰国が無かったら、きっとこの人をそのまま自然に受け入れていたと思う。
「うん、多分……」
結局芹歌は、神永を突き放す事ができなかった。
「僕は……、あの学内コンサート後の事件を受けて、胸が騒ぎました。翌日の新聞を見て、嫌な予感を覚えた。こうなることを漠然とだけど予測していたのかもしれません。ただ、認めたく無かった…。そうならないようにと強く願ってたんです。もっと早く、あなたを自分のものにしてたら良かった。やっと幸せを得られたと思っていたのに……」
「神永君。本当にごめんなさい。私はずっと、真田さんを想ってたんだと思う。でも、自分で
否定する心が、ずっと自分を抑えてた。再会しなければ、あの人から求められなければ、フェードアウトするように忘れていったと思う」
もう、永遠に交わらないだろうと思っていたのだから。
「あなたの存在は、私にとっては救いだった。でも、思っていたようにはならなかった。だから……。いくら謝っても許して貰えないかもしれないけど、私には謝ることしかできない。本当にごめんなさい」
神永の体が震えている。
「芹歌さん……、芹歌さん、芹歌さんっ。好きです。あなたが好きでたまらない。女々しいと言われようと、未練がましいと言われようと、好きなんだ。離したくないんだよぉ……。ずっと傍にいたいんだ。あなたとお母さんの傍に、ずっと……」
泣きながら訴える神永に、思わず応えてしまいたくなってくる。
芹歌もあまりにせつなくて涙がこぼれてきた。
自分が真田を諦めれば良いのだろうか。
この人を好きな気持ちも持っている。
この人を選べば、きっと母も喜ぶに違いない。
コンクールで優勝すれば、仕事も増えるだろうし、何より、教室の生徒達への責任も果たし続けていける。
全てが丸く収まるのだ。
自分はピアニストを目指していたわけではない。
伴奏者として、ずっと弾き続けていければ幸せなのだ。
わざわざヨーロッパへ行く必要性も無い。
真田の顔が浮かんできた。
神経質で傲慢で、意地悪で。だが、そんな事など微塵も感じさせない豊な音を出すバイオリン。
そしてそれを奏でている時の、艶やかでやるせない表情。
一緒に奏でる時に芹歌を見る、あの視線……。
『愛してる』と囁いた深い声。
何より芹歌を愛しげに見つめる優しい瞳。
全てが何よりも愛しくて恋しい。思い出しただけで胸がキュンとする。
もう二度と離れまいと心に誓った。
だから。
私はやっぱり、この人を選べない。
一緒にいてあげたい気持ちはあるものの、真田との人生を捨てる事はできないのだった。
――コンコン……
ドアをノックする音が聞えた。
それと同時に、神永の体が離れた。
芹歌は涙を拭って、ドアを開けた。須美子だった。
「あの……。神永さん、久しぶりですよね?この後、どうされますか?奥様が是非来て欲しいっておっしゃってるんですが……」
芹歌の目が赤いのに気付いたのだろう。
戸惑い気味に訊ねてきた。
芹歌としては、あまり気が進まないが、神永の事をずっと心配していた母の事を思うと、自分の一存でどうこう言えない。
芹歌が振り返ると、神永は笑顔になった。
「凄くご無沙汰して、心配かけちゃったみたいですから、ご一緒させてもらいます。そう伝えて下さい」
神永の明るい答えに、須美子はホッとしたような顔になった。
「わかりました。では、後ほど……」
ドアが閉まり、芹歌が再び振り返ると、神永は笑顔のままだった。
それが却ってせつなさを募らせる。
「先生、すみません。レッスン中なのに。お母さんも待ってるから、早く済ませちゃいましょう。あ、そうだ。ヨーロッパの話し、お母さんもご存じなんですか?」
「ううん。まだ話してないの。でも、そろそろ話すつもりよ」
「反対されたら、どうするんです?」
「説得するしかないわね。じゃぁ、レッスン始めましょうか」
須美子の訪れで、高まっていた緊張の糸が、一端ふつりと切れた感じだ。
神永は長い間レッスンを休んでいたせいもあって、少し後退していたが、懸命に練習してきたのが感じられる。
彼はいつも真面目に練習してくる、優秀な生徒だ。
「先生……。僕は、ここが閉鎖になった後、どこの教室へも通わないつもりです」
レッスンが終わった時に、神永が静かに言った。
「え?どうして?続けないの?」
「はい。ピアノ、やめます」
「そんな……。だって、音楽、好きなんでしょう?だから、ずっと弾いて来たんでしょう?これからじゃない」
「ピアノを弾くのに憧れて、ずっと独学でやってきました。あなたに出逢って、あなたの元で習いたいって思うようになって、願いが叶った。本当なら、ピアノを弾く事自体が楽しかった筈ですが、僕はいつの間にか、ここへ通うのが楽しみになり、あなたに教わる事が、何より嬉しくて……」
神永は寂しそうに微笑んだ。
「でももう、あなたに教われないのなら、ピアノを弾くのは悲しいばかりです。ピアノはあなたを思い出させる。そうしたら、辛いばっかりになってしまうから。だからもう、弾けないんです。本当なら、今日限りでレッスンを終えたいくらいなんですが、それではあまりに辛すぎるから、最後のレッスン日までは頑張るつもりです」
芹歌は何も言えなくなった。
彼にピアノを止めて欲しくない。ずっと続けて欲しい。そう切に思っている。
だが、その気持ちを聞くと何も言えない。
彼の気持ちに応えられない自分には、これ以上言う資格は無いように思えた。
「じゃぁ、行きましょうか。お母さんの所に。久しぶりの再会に、喜んでくれるかな」
神永は、気を取り直すように笑顔になった。
芹歌は笑って応えたが、きっとぎこちない笑顔だったに違いないと思った。