第87話
文字数 3,927文字
その日は欠席のメールが来なかった。
毎週、受け取る度に、またかと思って心配していたが、来なければ来ないでまた心配だった。
メールが来ないと言う事は、本人が来ると言う事なのか?
理屈的にはそうなるが、普段の音信不通ぶりからすると、素直にそう思えない。
訝しく思いながらも、神永の前の時間の子ども達のレッスンをし、帰り際に“教室閉鎖のお知らせ”と書いたプリントを渡しながら口頭でも伝える。
皆、一様にショックを受け、「そんなの困ります」と言うような言葉が返ってくる。
そんな保護者達の反応を渡良瀬は一蹴 するのだった。
「そんなの結局、口先だけよ。都会はね。探せばいくらでもあるのよ、お教室は。本当に困るのは地方ね。数が少ないし、質が低くても一般の人にはわからないし。そんな所だったら、とてもじゃないけど、芹歌ちゃん、やめれなくなるわよ」
確かに、そういう話しは仲間うちでもよく聞く。
そういう点で、都会は玉石混交ではあるが数は多い。
その中で、ただ近所にあるからと通う人や、遠くても良い先生をと通う人と様々だ。
芹歌の生徒達は、近所の人もいるが、殆どが少し離れた所から通って来る生徒達だった。
そういう人達を有難いと思う。だから余計に責任を感じる。
そんな少しドタバタした所へ、神永がやってきた。
ノックと共に「こんにちは。失礼します」と言いながら入って来た神永を見て、胸がギュッと締め付けられて、いきなり緊張しだしたのだった。
驚いて言葉も無く自分を見ている芹歌に対し、神永は少し照れたような笑みを浮かべた。
その笑顔に、芹歌の胸は一層締め付けられる。
「先生、本当に困ります。どうにかならないんですか?」
その声にハッとした。
「車田さん。本当にすみませんが、こればかりは……。新しい教室は、ちゃんと責任をもってご案内させて頂きますので」
芹歌は頭を下げる。
この親子は、と言うよりも母親は、驚くほど神経質で潔癖症だった。
いつもアルコール除菌シートを持ち歩き、娘が触れる物を拭きまくる。
最初にレッスンに来た時に、ピアノの鍵盤をそれで拭こうとしたので、大慌てで止めたのだった。
この親子も、新しい教室では苦労するのではないだろうか。
不服そうにブツブツ言いながらレッスン室を出て行く姿を、神永は不思議そうに見ていた。
その様を芹歌は観察した。少し痩せたように思う。
だが、他は特に変わったようには見受けられなかった。
車田親子が部屋を出てドアが閉まると、神永は芹歌の方に振り向いた。
「長い事、ろくに連絡もしないで、すみませんでした」
深々と頭を下げた。
「神永君……。一体、どうしたの?心配してたのよ?私もお母さんも」
「すみません、本当に。色々と事情があって」
神永は俯き加減でそう言いながら、ピアノのところまで来て椅子に座った。
芹歌も隣にある椅子に座る。
「神永君が、今年最初のレッスンを休んだ頃に、お兄さんが私の所まで訪ねて来たわ」
「え?」
驚いて顔をあげた神永は、「それで?」と話しの先を促してきた。
「あなたが掴まらないから、貸したお金が回収できないって。100万貸したけど、50万でいいから代わりに払ってくれないかって」
「それは嘘ですっ。僕はお金を誰かに借りた事なんてありません」
神永の怒ったような口調に、芹歌はビクッとした。
「まさかそれで、お金を渡したんじゃ?」
「いいえ」
神永は、フゥっと安堵の息を吐いた。
「良かったです。まさか、芹歌さんの所まで無心に来るなんて。すみませんでした。ご迷惑をおかけして」
「それ以来、お兄さんは来て無いけれど、一体どういう事なのかな?神永君だって、ずっと音信不通だったし。お正月の時に、暫く来れなくなりそうだって母に言ったんですってね。だけど、だからと言ってメールくらいはくれても良かったんじゃない?」
なんとなく責めるような口調になってしまっている。
そんなつもりは無いのに。
神永の表情が少し暗くなった。話すのは気が重そうだ。
「ね……。お兄さんと何かトラブルがあったの?疎遠な関係だって事は聞いたけど、今回の事と関係あるの?お兄さん、神永君とお母さんの事で、なんかよくわからない事、言ってたけれど……」
芹歌の言葉に神永が目を剥いた。
「それって、まさか、僕が母を殺したって話しですか?」
声が震えている。
芹歌は戸惑いながら答えた。
「ええ……。でも、そんなの嘘でしょう?お母さんは蒸発したような事、言ってたわよね?それに、幼くてよく覚えて無いって……」
神永の口許が歪んだ。
「僕は、自分でそう思ってたんですよ。そう信じてました。実際、4歳の時の事だったようだから、よく覚えて無いんですよ。突然、いなくなって……。だけど、兄は僕より3つ上で、当時小学1年生だった。それで、覚えてるって言うんです。僕が母の頭を何か鈍器のような物で殴ったって。その後、父が慌てて揺り動かしたけど死んでて、それで父が死体を隠す為に、床下に……」
神永は両手で頭を抱え込んだ。
芹歌は愕然とする。信じられない話しだった。
「母を埋めた父が、『この事は忘れるんだ。いいな』って言って、兄は忘れなきゃいけない事なんだと思って忘れるようにしたけど、完全には忘れられなかったって。だけど、僕の方は幼かったから、ショックも手伝って忘れてるんだろうって言いました」
どこか怯えが感じられるような話し方だった。
「そんなの嘘だって最初は思ったんです。でも言われて、自分でも色々思い出すようにしたら、なんか家にあった、銅製の花瓶を思い出したんです。それが、母の近くに落ちてた光景が何となく思い出されてきて……。でも僕は、自分がやったって事は思い出せません」
こういう時、どうしたら良いのだろう。
そもそも彼は、本当に母親を殺したのだろうか?
4歳の子どもが、大人を?花瓶で?
なんだか納得がいかない。
「神永君。それはきっと、何かの間違いよ。お兄さんの記憶違いなんじゃないかと思う。だって、お兄さんだってまだ小1だったんでしょう?」
神永は首を振った。
「兄の記憶違いだったとしても、その時に何かがあったのは事実だと思うんです。事故なのか故意なのかはわかりませんが、その時に我が家で何かがあって、母は死んだんだ」
苦痛に顔を歪めている。思い詰めているのだろうか。
どう声をかけて良いのかわからなくて戸惑っていると、神永は芹歌を見て小さく笑った。
「すみません、変な話をして。兄がまさか、芹歌さんにまで話すとは思って無くて驚きました。真相は藪 の中です。父もいないし、僕達も子ども過ぎて本当の所はよく覚えていないんですから」
「ううん、びっくりしたけど。でも、あなたが言う通り本当の所はわからないんだし、あまり思い詰める事もないんじゃないかって思う。もう、20年以上前の事でしょう?」
「ええ。だけど兄がしつこく付きまとって来て。それをネタに、金を貸せってしつこかったんです」
神永は、小田原にいた時、兄に何度か金を貸していた。
あくまでも貸したもので、あげたつもりは全くない。だが一度も返って来た事は無かった。
このままだったら自分の人生が駄目になると思い、上京したのだった。
役所で移転先を調べる事ができないように、手続きもした。
それなのに、どうしてか居場所を突きとめてやってきたのだった。
「だから、暫く、行方をくらます事にしたんです。携帯の電源を切っていたのも、GPSで所在を突き止められないように、用心しての事なんです」
神永は淡々と語っているが、驚くような内容だ。
兄に対する神永の態度を見て不審に思っていたが、そういう事情があったからだったのか。
それなら戻ってきたと言う事は、どういう事なのだろう?
兄の件は解決したと言う事か?
「じゃぁ、もう大丈夫なの?」
恐る恐る訊ねてみる。
「すみません。芹歌さんに怖い思いをさせちゃってますね。でも多分、もう大丈夫じゃないかと。100パーセントとは言えないですが、ここ2週間ほど、ずっと様子を見ながら探ってたんですが、何故か兄の姿が見当たらないと言うか、それこそ行方が知れないんです」
「え?それって、行方不明って事?」
「そうなるんですかね……」
(そうなるんですかね、って……)
やや投げやりな調子だ。
相手が相手だからか。
例え兄でも心配にはならないのか。
「芹歌さん、不思議に思うんでしょう?でも、僕らは普通の兄弟とは違うんです。普通の兄弟が持つような情なんて、互いに持ち合わせてないんです。兄にとっては、僕は集 るのに都合のいい弟で、僕にとっての兄は、できればいて欲しくない兄なんです。自分としては、小田原を出る時に兄弟の縁も切ったものと思ってた。だから、本当に迷惑でした」
苦々しそうな顔で言っている神永は、今まで見て来た、純粋で爽やかな彼とは違う人のように見えた。
それだけ、あの兄に苦汁を舐めさせられてきたと言う事なのか。
「それより芹歌さん。予選突破、おめでとうございます」
嬉しそうな笑顔に変わった。
「ずっと気にしてたんですよ。ネットカフェで予選の結果を見ました。芹歌さんなら、絶対大丈夫って思ってましたけど、そばで励ましてあげられなくて、すみません」
(ああ……)
思わずため息が洩れそうになる。
そんな風に言われたら、益々言い難くなってしまう。
「芹歌さんなら、2次予選も楽勝でしょう。ところで、さっき、車田さんと揉めてる感じでしたよね?やめてもらうんですか?何か酷いクレームとかトラブルとかがあったとか?」
芹歌は話しの糸口ができたと思い、ピアノの上に置いてある、お知らせのプリントを黙って神永に差し出した。
毎週、受け取る度に、またかと思って心配していたが、来なければ来ないでまた心配だった。
メールが来ないと言う事は、本人が来ると言う事なのか?
理屈的にはそうなるが、普段の音信不通ぶりからすると、素直にそう思えない。
訝しく思いながらも、神永の前の時間の子ども達のレッスンをし、帰り際に“教室閉鎖のお知らせ”と書いたプリントを渡しながら口頭でも伝える。
皆、一様にショックを受け、「そんなの困ります」と言うような言葉が返ってくる。
そんな保護者達の反応を渡良瀬は
「そんなの結局、口先だけよ。都会はね。探せばいくらでもあるのよ、お教室は。本当に困るのは地方ね。数が少ないし、質が低くても一般の人にはわからないし。そんな所だったら、とてもじゃないけど、芹歌ちゃん、やめれなくなるわよ」
確かに、そういう話しは仲間うちでもよく聞く。
そういう点で、都会は玉石混交ではあるが数は多い。
その中で、ただ近所にあるからと通う人や、遠くても良い先生をと通う人と様々だ。
芹歌の生徒達は、近所の人もいるが、殆どが少し離れた所から通って来る生徒達だった。
そういう人達を有難いと思う。だから余計に責任を感じる。
そんな少しドタバタした所へ、神永がやってきた。
ノックと共に「こんにちは。失礼します」と言いながら入って来た神永を見て、胸がギュッと締め付けられて、いきなり緊張しだしたのだった。
驚いて言葉も無く自分を見ている芹歌に対し、神永は少し照れたような笑みを浮かべた。
その笑顔に、芹歌の胸は一層締め付けられる。
「先生、本当に困ります。どうにかならないんですか?」
その声にハッとした。
「車田さん。本当にすみませんが、こればかりは……。新しい教室は、ちゃんと責任をもってご案内させて頂きますので」
芹歌は頭を下げる。
この親子は、と言うよりも母親は、驚くほど神経質で潔癖症だった。
いつもアルコール除菌シートを持ち歩き、娘が触れる物を拭きまくる。
最初にレッスンに来た時に、ピアノの鍵盤をそれで拭こうとしたので、大慌てで止めたのだった。
この親子も、新しい教室では苦労するのではないだろうか。
不服そうにブツブツ言いながらレッスン室を出て行く姿を、神永は不思議そうに見ていた。
その様を芹歌は観察した。少し痩せたように思う。
だが、他は特に変わったようには見受けられなかった。
車田親子が部屋を出てドアが閉まると、神永は芹歌の方に振り向いた。
「長い事、ろくに連絡もしないで、すみませんでした」
深々と頭を下げた。
「神永君……。一体、どうしたの?心配してたのよ?私もお母さんも」
「すみません、本当に。色々と事情があって」
神永は俯き加減でそう言いながら、ピアノのところまで来て椅子に座った。
芹歌も隣にある椅子に座る。
「神永君が、今年最初のレッスンを休んだ頃に、お兄さんが私の所まで訪ねて来たわ」
「え?」
驚いて顔をあげた神永は、「それで?」と話しの先を促してきた。
「あなたが掴まらないから、貸したお金が回収できないって。100万貸したけど、50万でいいから代わりに払ってくれないかって」
「それは嘘ですっ。僕はお金を誰かに借りた事なんてありません」
神永の怒ったような口調に、芹歌はビクッとした。
「まさかそれで、お金を渡したんじゃ?」
「いいえ」
神永は、フゥっと安堵の息を吐いた。
「良かったです。まさか、芹歌さんの所まで無心に来るなんて。すみませんでした。ご迷惑をおかけして」
「それ以来、お兄さんは来て無いけれど、一体どういう事なのかな?神永君だって、ずっと音信不通だったし。お正月の時に、暫く来れなくなりそうだって母に言ったんですってね。だけど、だからと言ってメールくらいはくれても良かったんじゃない?」
なんとなく責めるような口調になってしまっている。
そんなつもりは無いのに。
神永の表情が少し暗くなった。話すのは気が重そうだ。
「ね……。お兄さんと何かトラブルがあったの?疎遠な関係だって事は聞いたけど、今回の事と関係あるの?お兄さん、神永君とお母さんの事で、なんかよくわからない事、言ってたけれど……」
芹歌の言葉に神永が目を剥いた。
「それって、まさか、僕が母を殺したって話しですか?」
声が震えている。
芹歌は戸惑いながら答えた。
「ええ……。でも、そんなの嘘でしょう?お母さんは蒸発したような事、言ってたわよね?それに、幼くてよく覚えて無いって……」
神永の口許が歪んだ。
「僕は、自分でそう思ってたんですよ。そう信じてました。実際、4歳の時の事だったようだから、よく覚えて無いんですよ。突然、いなくなって……。だけど、兄は僕より3つ上で、当時小学1年生だった。それで、覚えてるって言うんです。僕が母の頭を何か鈍器のような物で殴ったって。その後、父が慌てて揺り動かしたけど死んでて、それで父が死体を隠す為に、床下に……」
神永は両手で頭を抱え込んだ。
芹歌は愕然とする。信じられない話しだった。
「母を埋めた父が、『この事は忘れるんだ。いいな』って言って、兄は忘れなきゃいけない事なんだと思って忘れるようにしたけど、完全には忘れられなかったって。だけど、僕の方は幼かったから、ショックも手伝って忘れてるんだろうって言いました」
どこか怯えが感じられるような話し方だった。
「そんなの嘘だって最初は思ったんです。でも言われて、自分でも色々思い出すようにしたら、なんか家にあった、銅製の花瓶を思い出したんです。それが、母の近くに落ちてた光景が何となく思い出されてきて……。でも僕は、自分がやったって事は思い出せません」
こういう時、どうしたら良いのだろう。
そもそも彼は、本当に母親を殺したのだろうか?
4歳の子どもが、大人を?花瓶で?
なんだか納得がいかない。
「神永君。それはきっと、何かの間違いよ。お兄さんの記憶違いなんじゃないかと思う。だって、お兄さんだってまだ小1だったんでしょう?」
神永は首を振った。
「兄の記憶違いだったとしても、その時に何かがあったのは事実だと思うんです。事故なのか故意なのかはわかりませんが、その時に我が家で何かがあって、母は死んだんだ」
苦痛に顔を歪めている。思い詰めているのだろうか。
どう声をかけて良いのかわからなくて戸惑っていると、神永は芹歌を見て小さく笑った。
「すみません、変な話をして。兄がまさか、芹歌さんにまで話すとは思って無くて驚きました。真相は
「ううん、びっくりしたけど。でも、あなたが言う通り本当の所はわからないんだし、あまり思い詰める事もないんじゃないかって思う。もう、20年以上前の事でしょう?」
「ええ。だけど兄がしつこく付きまとって来て。それをネタに、金を貸せってしつこかったんです」
神永は、小田原にいた時、兄に何度か金を貸していた。
あくまでも貸したもので、あげたつもりは全くない。だが一度も返って来た事は無かった。
このままだったら自分の人生が駄目になると思い、上京したのだった。
役所で移転先を調べる事ができないように、手続きもした。
それなのに、どうしてか居場所を突きとめてやってきたのだった。
「だから、暫く、行方をくらます事にしたんです。携帯の電源を切っていたのも、GPSで所在を突き止められないように、用心しての事なんです」
神永は淡々と語っているが、驚くような内容だ。
兄に対する神永の態度を見て不審に思っていたが、そういう事情があったからだったのか。
それなら戻ってきたと言う事は、どういう事なのだろう?
兄の件は解決したと言う事か?
「じゃぁ、もう大丈夫なの?」
恐る恐る訊ねてみる。
「すみません。芹歌さんに怖い思いをさせちゃってますね。でも多分、もう大丈夫じゃないかと。100パーセントとは言えないですが、ここ2週間ほど、ずっと様子を見ながら探ってたんですが、何故か兄の姿が見当たらないと言うか、それこそ行方が知れないんです」
「え?それって、行方不明って事?」
「そうなるんですかね……」
(そうなるんですかね、って……)
やや投げやりな調子だ。
相手が相手だからか。
例え兄でも心配にはならないのか。
「芹歌さん、不思議に思うんでしょう?でも、僕らは普通の兄弟とは違うんです。普通の兄弟が持つような情なんて、互いに持ち合わせてないんです。兄にとっては、僕は
苦々しそうな顔で言っている神永は、今まで見て来た、純粋で爽やかな彼とは違う人のように見えた。
それだけ、あの兄に苦汁を舐めさせられてきたと言う事なのか。
「それより芹歌さん。予選突破、おめでとうございます」
嬉しそうな笑顔に変わった。
「ずっと気にしてたんですよ。ネットカフェで予選の結果を見ました。芹歌さんなら、絶対大丈夫って思ってましたけど、そばで励ましてあげられなくて、すみません」
(ああ……)
思わずため息が洩れそうになる。
そんな風に言われたら、益々言い難くなってしまう。
「芹歌さんなら、2次予選も楽勝でしょう。ところで、さっき、車田さんと揉めてる感じでしたよね?やめてもらうんですか?何か酷いクレームとかトラブルとかがあったとか?」
芹歌は話しの糸口ができたと思い、ピアノの上に置いてある、お知らせのプリントを黙って神永に差し出した。