第75話

文字数 3,574文字

 信じられないような展開の大晦日の晩。

 共に夕食を摂ったあと、真田の連絡で片倉がやってきた。
 芹歌を家まで送り届ける為だ。

「すまないな、純哉」

 片倉はにっこりと笑った。
 その顔は、どこか嬉しげだ。

「二人の顔から察するに、上手くいったみたいだね。良かったよ」

 芹歌は頬を染めた。なんだか恥ずかしい。

 来た時と同じように片倉のプジョーに乗って帰ったが、帰宅途上での片倉は無口だった。
 車を降りた時、「これから大変だね。でも大丈夫。頑張って」と言った。

 そう。これからの事を考えると、少しだけ気が重くなる。

 時刻は既に夜の10時に近かった。
 片倉が一緒に車を降りて、母に挨拶をしてから帰っていった。

 神永はまだ家にいた。
 一緒に紅白歌合戦を見ていたと言う。

 芹歌は神永の顔を見るのが心苦しかった。
 後ろめたさが湧いてくる。

 今日あった事は、ひとまず暫くは言わずにいるよう、真田に言われた。
 その上で、なるべく早く、神永との関係を解消する。
 その事が、何より心を重くしていた。

 神永は紅白が終わると、自宅へ戻って行った。
 実花は寂しそうにしたが、もう眠たいと言う事もあってか、神永の姿が見えなくなると途端に欠伸(あくび)をして、すぐに就寝した。

 だが芹歌はなかなか寝付けない。
 短時間のうちに色々あり過ぎて、未だに興奮が覚めない。

 それに、真田と交わった場所が痛かった。
 初めての時は痛いと聞いていたが、これ程とは思っていなかった。
 どうして女ばっかりと思う。

「最初は痛いけど、その後は男よりも深い快感を得られるようになるんだ。だから、最初の痛みはその代償なのかもしれないな」

 真田にそう言われて、そういうものなのかと思ったが、今のところはよくわからない。

 それにしても、こんな事になるとは。
 父が亡くなる前ですら、共に演奏する未来を夢見てはいても、こういう仲になるとは予想もしていなかった。

 あえて、ならないように気をつけていたとも言えた。
 純粋に音楽だけのパートナーでいたいと思っていた。

 そもそも自分の両親が理想のカップルだと思っていたから、真田のような俺様の自己中男とどうこうなっても、幸せになれると思えなかった。

 しかも女好きだ。
 魅力的な男だから、惹かれるのは否めない。憧れ止まりが丁度よい。

 少しだけ不安に思う。
 彼のこれまでの派手な女性関係だ。
 今後それに悩まされるのだろうか?

 きっぱりと関係を切ってくれるのだろうか。
 それに、これから先もモテることは想像がつく。大勢のファンまでいるくらいなのだから。

 はぁ~っと思わずため息が洩れた。
 自分がこれほど真田の事を好きになっていたとは。

 認めたら辛くなるから、忘れようと勤めていたのだと、今更ながらに気付いた。
 忘れようと思っていたのは、単に舞台の上での未来だけでは無かったのだ。

 元日は午後から神永がやってきて、三人でおせち料理をつまみながらカルタ遊びなどをしたが、芹歌はあまり神永と視線を合わせないようにした。

 いつどのようにして切り出そうか。
 悩むばかりだ。

 二日の日も遊びにきたが、芹歌はこの日は殆ど朝からピアノの練習をした。
 1次予選が月末から始まる。

 曲を決めるのはこれからだが、1次予選はバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートベンの中から2曲を弾く事になっている。
 だから曲決めの前に、一通りさらっておきたかった。

「どうしたの?朝からずっとピアノを弾いてるわね?午後はいいんでしょ?」

 昼にダイニングへ行くと、実花に言われた。
 そばで神永が不思議そうな顔をして芹歌を見ている。

「ごめんなさい。午後もちょっと……。今日はずっとピアノを弾きたいの。怪我をしてなまってるから、取り戻したくて」

「あら、折角のお正月なのに?ゆう君も来てるって言うのに」

「ほんとにごめんなさい。ごめんね?神永君」

 神永は残念そうな顔をしているが、「いえ、大丈夫です。練習に励んで下さい」と言った。
 彼としては、そう言うしかないだろう。

 そして正月三日。
 芹歌は「用事がある」と言って、家を出た。

 真田と待ち合わせている。渡良瀬教授の自宅を訪れる為だ。
 顔を合わせた時、なんだか気恥ずかしかった。
 真田の方は優しい笑みを口許に浮かべていた。

「おはよう、芹歌」
「おはようございます……」

 真田が催促するような顔になった。
 芹歌が赤くなって少し俯くと、「おはよう、芹歌」と再び言われた。

「あ、あの……」
「あの、じゃない。おはよう、芹歌」

(あー、しつこい人だ)

「おはようございます……、ゆ、幸也さん……」
 最後は消え入るような声になった。

「全く、しょうがないなぁ」
 呆れるように言いながら、芹歌の髪を撫でて来た。

「取り敢えず、合格な」
「はぁ?」
「素直じゃない芹歌が悪い。でもまぁ、結果的には良しだから。じゃぁ、行こうか」

 真田はそう言うと、芹歌の肩を抱いて歩き出した。
 肩を抱く手が優しい。ドキドキした。

「どう?腕の調子は」

 真田が道すがら心配そうに訊いてきた。
 まだ怪我の影響が気になるようだ。

「大丈夫です。昨日、一日中弾いてたけど、もう全然大丈夫でした。それより、幸也さん、の……、足の方こそどうなんですか?」

 まだ引きずっているように感じられる。

「心配無い。順調に良くなってるから。ま、まだウォーキングはしないでおいた方が良さそうだ。でもこうやって普通に歩いている分には全く問題ない」

 そっと見上げると、確かに平気そうな顔をしている。
 痩せ我慢をしているようには見えない。

「ん?」
 芹歌の視線を感じたのか、顔をこちらに向けて来た。

 満足そうな微笑を浮かべていて、芹歌の心は満たされる。
 この視線は、明らかに大事に想われている視線だ。

「芹歌……。そんな目で見るなよ。キスしたくなってくる」

 カーッとした。慌てて視線を逸らす。

「やだ……」

 真田はフッと軽く笑った。

「恵子先生の用事が済んだら、うちへ行こう」
「え?どうして?」
「どうしてって……。そんなの、わかってるだろう。言わせるなよ」
「え?言わせるなって……。練習するって事ですか?」
「あー、全くお前ってヤツは……」

 真田は天を仰いだ。

 芹歌も同じように天を仰ぐ。澄みきった、抜けるような青い空だった。
 所々に白い雲が筆で刷いたように見えた。

「馬鹿、二人して歩きながら上を向いてたら、危ないじゃないか」

 真田がいきなり立ち止まったので、芹歌はつんのめった。

「え?あ、ごめんなさい」

 真田は芹歌を訝しげにジッと見つめた後、「まぁいいや」と言って再び歩き出した。
 芹歌は何が何だかよくわからないまま、真田に従った。

「まぁ、よく来てくれたわね。二人揃って。とても嬉しいわ」

 渡良瀬は目を輝かせて二人を迎え入れた。

「芹歌ちゃん。よく決心したわね」
「はい」

 渡良瀬は感慨深げに芹歌を見ている。

「学内コンサートの前日にね。真田君から、提案されてね。その時はびっくりしたの。でも、コンサートでの芹歌ちゃんのピアノを聴いて、これならいけるって思ったのよ?」

「え?そうだったんですか?」

 芹歌は驚いて、渡良瀬と真田の顔を見た。
 あの頃から、既に考えていたとは。

「芹歌ちゃんは、本当は実力があるのに、在学中もちっともコンクールに熱心じゃ無かった。勿体ないって思ってたのよ。でも、真田くんの後を追ってドイツに行くのは決まってたから、向こうで揉まれて成長するだろうって思ってた。それがあんな事になってしまって。本当にね。ずっと、あなたの先行きを心配してたのよ……」

 しんみりした口調に、芹歌の胸が少しだけ痛んだ。
 心配されているのは、ずっとわかってはいた。

 だが、自分にはどうしようもできない。
 期待されても重たいだけだと思うばかりだったのだ。
 今から思えば、申し訳なかったと反省する。

「真田君も真田君よ。他人(ひと)任せで。もっと早く、芹歌ちゃんを迎えに来て欲しかったわ。お陰で5年ものブランクができちゃったじゃないの」

「すみませんでした。恵子先生には、色々ご迷惑をかけ通しで。でも感謝してます。芹歌の腕を落とさずに維持させ続けて下さって。でなければ、コンクールに挑戦なんて無理だったでしょうから」

「まぁまぁ。なんでしょうね。まるで保護者のような口ぶりね」

 渡良瀬は冷やかすような笑みを浮かべた。

「なんにせよ。決意したのは素晴らしいけれど、問題は結果よ。こんな間際に申し込む以上、優勝を目指して貰わないと、私が推薦する意味がないんだから。私のメンツを守ってもらわないとね、芹歌ちゃん」

「はい……」
 渡良瀬のいつにない厳しい顔に、芹歌は体が硬くなった。

 考えてみると、この先生は元々厳しい人だった。
 卒業後は芹歌の身の上を(おもんぱか)って、何かと優しく接してくれていたが、音楽に関しては誰よりも厳しい人だった。
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