第45話

文字数 2,044文字

 母があんな事を言い出したのは、神永が原因なんだろうか。
 実花は明らかに、真田じゃなく神永の方が良いようだ。

 キッチンに入ると、ちょうど片づけが終わった所だった。

「休まれましたか?」

 温かな笑顔だ。
 こちらの迷惑なんて眼中にないのか。なんだか(いら)ついた。

「神永君。色々やってもらって悪いんだけど、もう帰って貰えないかな?」

 神永のエプロンをたたんでいる手の動きが遅くなった。
 目を伏せた顔が少し強張っている。

「すみません。いつまでも……。芹歌さんのお役に立ちたかったものですから。それと、少し話があって」

「話し?」

 何なのだろう。
 母の前では話せない話しと言うことなのだろうか。

「分かった。どんな話しなの?」

 芹歌はとりあえず、目の前の椅子に座った。
 神永も芹歌の近くの椅子に腰を下ろした。

「あの……、昼間の話しなんですが」
「昼間の話し?」
「お母さんが言っていた事です」

 芹歌は内心ドキリとしたが、素知らぬ風を装った。

「なんだったかしらね……」

 神永は意を決したように、芹歌を真っ直ぐに見て「婿養子の件です」と言った。
 あまりの直截的な物言いに、芹歌は目を剥く。

「まさか、本気で受け取って無いわよね?」

「じゃぁ芹歌さんは、お母さんが冗談でおっしゃったって言うんですか」

「な、何言ってるのよ。本気じゃないに決まってるじゃない。あなたまさか、婿養子になりたいとかって言い出すんじゃないでしょうね?」

 顔も口調もきつくなる。とんでもない話しだ。

「あ、いえ。そうじゃないんです。そうじゃないんですけど、何て言ったらいいのかな。浅葱さんの事、お母さんだったらいいなって思ってるので、あんな風に言われて、凄く嬉しかったんです。早くに親を亡くしてるから、ここで過ごす時間が楽しくて、だからついご好意に甘えてしまって。芹歌さんにとっては迷惑なのかもしれないけど、僕、役に立ててるとは思うんです。だから……」

「役に立ってるって言うか、凄く助かってる。神永君には感謝してる。最初はビックリしたけどね。ただね。婿養子になんて、母が言い出すとは思ってなかった。あまりに、唐突でしょう?いくら神永君の事が気に入ってるからって。寂しいから、傍にいて欲しいんだとは思うのよ。ずっと傍にいてもらいたいが為に思いついたんじゃないかな。だけど、勝手じゃない?人の気も知らないで」

「芹歌さんにとっては、迷惑な話なんですか?」

 悲しそうな目で見つめられた。
 言葉に詰まった。
 そんな顔をされたら、肯定できないじゃないか。

「僕は……。正直、嬉しかったです。勿論、あまりに唐突な話しだからビックリしましたけどね。それほど気に入って貰えてるんだって。肉親の愛情を知らずに育ったから、尚更なんです。ずっと愛されてきた芹歌さんには、分かって貰えないでしょうけど」

 神永の背後に見えるシンク回りが小ざっぱりしている。
 水気もきちんと拭き取ってあるようで、彼の几帳面さが窺える。

 きっと子どもの頃から、全て自分でやってきたのだろう。
 そうして、大人になってからは介護の仕事につき、人の役に立ってきた。

 寂しさがそうさせるのだろうか?
 人の役に立つ事で満たされない心を埋めようとしているのか。

 もしそうであるならば、こんな所で一銭の得にもならない事をするより、仕事でした方が良いんじゃないのか。

「神永君。いきなりだけど、どうして転職したの?」

「え?それこそ、どうしていきなりそんな事を訊くんですか?」

 全く無関係な話題を持ち出されたと思ったようだ。
 (いぶか)しげな顔をしている。

「うん……。人の役に立ちたいと思ってるなら、そういう仕事をしてたのに、どうして転職したのかな、って思ったんだけど」

「ああ……。そういう事ですか」

 目を逸らして力無く肩を落とした。
 僅かに苦痛の色が滲んでいる。言いたく無い事を訊いてしまったか。

「確かに、人の役に立つ仕事がしたくて、福祉を学んで介護の仕事をしてました。転職したのは、……職場で色々トラブルがあって、もう無理だ、やっていけないって限界を感じたからです。精神的に一杯一杯になってしまったんです。だけど、ここでの事は、単に人の役に立ちたいって気持ちじゃなくて、芹歌さんの役に立ちたかったからです。それで、お母さんにあんな風に言われて、余計に嬉しくなって、浮かれてしまって。すみませんでした。芹歌さんの迷惑も考えずに、僕一人で勝手に……」

 神永は唐突に立ち上がると、「失礼しました」と一礼した。

「え?ちょっと……」

 無愛想な顔で、カバンを持って出て行こうとしている神永の後を慌てて追った。

「ちょっと神永君。どうしたのよ、急に」

「さっき、もう帰って欲しいって言ったじゃないですか。だから帰ります」

 話しがしたいと言い出したのは、そっちじゃないか。
 それとも、話しはこれで終わりと言う事なのか。

 急な態度の豹変に芹歌は戸惑った。
 だがそんな芹歌の戸惑いなどお構い無く、神永は靴を履くと、振り返りもせずに出て行ったのだった。
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