第98話
文字数 3,478文字
芹歌は重い気持ちのまま、レッスン室に入った。
「おはようございます」
オケのメンバー達から声をかけられ、「おはようございます」と笑顔で返したが、ぎこちない顔だと自分でわかる。
真田はまだ来ていなかった。
「芹歌ちゃん、おはよう。真田君、今日は遅れるって。あなたにも連絡あったでしょう?」
「はい。メールが……」
「珍しいわね。彼が遅れるなんて。しかも、こんな時に」
全くそう思う。
「あの、先生……」
「なぁに?」
久美子のアメリカ行きの話しを聞こうと口を開きかけたが、思い直す。
今ここで聞く事では無い。大事な練習の前なのだ。
「あ、いえ。先にやっててくれとの事なので、始めましょうか」
「ええそうね。時間を無駄にはできないものね」
渡良瀬は真田の変わりに指揮台に立った。
芹歌はピアノの椅子に座る。
椅子を直し呼吸を整えながらも心が晴れないのは、昨日の事が頭から離れないからだ。
昨日、練習が終わった後、一人先にレッスン室を出た。
夕方から生徒達のレッスンがある為、いつも自分のレッスンが終わると急いで帰る。
足早にレッスン棟を出た時に呼びとめられた。
事務の須山だった。
「浅葱さん、あなたに渡す物があるのよ」
須山が手渡してきたのは、封がしていない大きめの封筒だった。
「あの、これって……」
書類か何かなのだろうか?
「大田さんからね。頼まれたの。見てビックリよ」
須山は笑っているが、その笑顔はどこか気持ちが悪い。
須山はそのまま立って芹歌を見ている。
中身を確認するよう催促しているみたいだ。
仕方なく、芹歌は封筒の中身を手にして引っ張りだして、目を瞠 った。
真田と久美子がベンチに座って抱き合っている写真だった。
「どぉ?凄いわよね。決定的瞬間ってやつ?ショックよねぇ~。だけど、あなた、練習が終わってすぐ帰るから知らないでしょうけど、あなたが帰った後、何度か彼女、訪ねて来てるのよ?元々在学中にも真田さんと関係してたものね。最近、私や大田さんとは、減ったけど、その分を彼女でカバーしてるみたいね。この時は特に親密な感じだったみたい。彼女、泣いてたって。真田さん、必死で宥 めてたそうよ。何かあったのかしら」
芹歌は震えて来る手をかろうじて止めた。
「……これって、いつの写真ですか?もう、大分前のじゃ?」
須山が言う通り、元々関係があったのだから、昔のものなら抱き合っているのも不思議ではない。
「つい最近よ。二人の服装を見れば分かるでしょ?それにバックの沈丁花。ほら、そこのベンチよ」
須山が指を差した。見ると確かに、すぐそこのベンチのようだ。
沈丁花の花の様子も、写真とあまり変わらないように見える。
「どうして、これを私に?」
ショックで声が微かに震える。
「あなたが知らないみたいだから。呑気に幸せそうな顔してるから、可哀想で。真田さんの彼女を気取ってるみたいだけど、現実を知った方がいいでしょう?」
いかにも親切ぶった、底意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「真田さんの性癖は、本当はあなたが一番良く知ってるわよね。今はコンクールって目的があるから、あなたに熱心だけど、それが終われば、また元のようになるんじゃないのかな。これがいい証拠よね。じゃ。コンクール、頑張って」
笑顔で軽く芹歌の肩を叩いて去っていった。
その後ろ姿を見て、怒りが湧いてくる。
余計なお世話もいいところだ。
何が『可哀想』だ。馬鹿にしている。
芹歌は写真を封筒に戻してカバンにしまった。
これにはきっと、何か訳があるに違いない。そう思った。
だが、追い打ちをかけるような事がその晩に起こった。
生徒達のレッスンも済み、食事も母の入浴も終えた夜の9時頃に来客があった。
こんな時間に来客なんて、まず無い。
(もしかして、神永君?)
実家の遺体発見の件で警察から事情聴取を受けている神永だが、母親の不審な死の解明はまだできていない。
当時4歳だった子どもが殺人とも考えられない事から、彼はただの参考人であり、自由の身だった。だから、以前のようにレッスンに来ている。
不審に思いながら出て見ると、客は中年の女性だった。
見た事のあるような顔だ。
誰かの親御さんかな?と思ったら、「野本加奈子といいます」と名乗られて驚いた。
野本加奈子なら知っている。だが、その野本加奈子が何故うちに?
「はじめまして。浅葱芹歌さん」
「はじめまして……」
加奈子は少女のような無邪気な笑顔を向けて来た。
ショートカットが良く似合っていて若く見えるが、確か年齢は40を過ぎていた筈だ。
「寒いし、立ち話も何なんで、入らせて貰ってもいいかしら?」
加奈子に言われて、芹歌は彼女をレッスン室に通した。
それにしても、自ら中に入れろとは少し図々しい気がした。
年齢を重ねると、そうなるのだろうか。
「立派なレッスン室ね。ここで生徒さんを教えてるのね。空調も整ってるし、さすがねぇ」
そう言いながら部屋の中を見まわしている。
「あの……、それでご用件は?」
加奈子は振り返って笑った。
「ああ、ごめんなさいね、いきなり訪ねて来て。あなたの事は少しだけ知ってるわ。ピアノ教室の他に、伴奏の仕事もされてるのよね。何人かのリサイタルで、あなたの伴奏も聴いた事があるのよ?お上手よね~、伴奏。合わせるのって大変でしょう?」
何だか言い方が嫌味っぽいと感じるが、考え過ぎか。
「仕事ですし。合わせるのが大変って言ったらオーケストラなんて、その極致じゃないですか。野本さんなら、よくご存じだと思いますけど」
加奈子の目が心なしか光ったように見えた。
「そうね。だけど伴奏なんて縁の下の力持ちのような仕事、よくされるわね。感心してたのよ。でもさすがに飽きてきたのかな?山際に出てるんですってね。幸也君から聞いたわ。驚いちゃった。ずっと伴奏しかしてこなかった人が」
(幸也君?なんなの、それ)
芹歌は彼女が真田の事を『幸也君』と呼んだ事に驚いた。
「どういう意味ですか?私が山際に出るからって、あなたには関係ないと思うんですけど」
「それが、そうでもないのよ。私、前から幸也君と一緒に仕事をしたいと思ってたの。今度、テレビドラマの音楽をやる事になっててね。弦楽器を主体にした曲を作ったから、彼にお願いしてるんだけど、あなたのコンクールの面倒をみないといけないから、そんな時間が無いって言われちゃって……」
ほとほと困ったと言わんばかりの顔で芹歌を見ている。
「そんな話し、聞いた事ありませんけど」
不愉快で顔が強張って来た。
「あなたのコンクールに差し障るからよ。でも興味はあるみたい。夜、よく私の所に来てくれるの。今夜も来たんだけどね。手袋を忘れてったのよね、彼ったら。真田家に届けるのも、なんか敷居が高いじゃない?私、オバサンだし。だから、あなたから渡してくれないかしら?」
そう言って差し出された手袋を見て、芹歌は凍りついた。
確かに真田の手袋だった。
「もう春とは言っても、夜はまだ寒いし、バイオリニストにとっては手は大事ですものね。全く、ウッカリ屋さんよねぇ。だけどあなた、もう少し、しっかりした方がいいわよ?『俺がそばにいないと、彼女は満足に弾けないんだ』って、彼、こぼしてたわよ?何の為のコンクールか分からないわよねぇ。そう言う所が放っておけなくて、構ってるんでしょうけど、時々ウンザリするのか、あの子の所へも、しょっちゅう出入りしてるみたい」
「あの子?」
「ほらっ!あなたの友達のピアニスト……。中村久美子さん、だったかしら?今夜もね。あの子から呼び出しがあって、急に飛び出して行ったのよ。だから手袋を忘れていったのかもね。慌てた様子だったから。あなたも大変ね。彼、あちこちに女がいて、腰が落ち着かないものね。でもそこが魅力的でもあるんだけど。私は途中でお預けになっちゃって、凄く残念だった。若い子に
負けない自信、あるのになぁ」
芹歌は涙が出そうになって来て、慌てて自分の心にフタをする。
こんな事を言われて、少女のようにメソメソと敵に涙なんて見せられない。
「それで、野本さんは手袋を届けに来てくれただけなんですよね?それならもう、用事は済みましたよね?」
芹歌は勤めて冷静に、野本に帰宅を促す。
「そうね。もう帰るわ。だけど、最後にもうひとつ。コンクールが終わったら、彼を解放してあげなさい。彼はもっともっと広い世界に羽ばたく人よ。あなたは彼に相応しくない。ここでピアノを教えている方が似合ってるわ」
野本は蔑 むような目で芹歌を一瞥した後、出て行った。
「おはようございます」
オケのメンバー達から声をかけられ、「おはようございます」と笑顔で返したが、ぎこちない顔だと自分でわかる。
真田はまだ来ていなかった。
「芹歌ちゃん、おはよう。真田君、今日は遅れるって。あなたにも連絡あったでしょう?」
「はい。メールが……」
「珍しいわね。彼が遅れるなんて。しかも、こんな時に」
全くそう思う。
「あの、先生……」
「なぁに?」
久美子のアメリカ行きの話しを聞こうと口を開きかけたが、思い直す。
今ここで聞く事では無い。大事な練習の前なのだ。
「あ、いえ。先にやっててくれとの事なので、始めましょうか」
「ええそうね。時間を無駄にはできないものね」
渡良瀬は真田の変わりに指揮台に立った。
芹歌はピアノの椅子に座る。
椅子を直し呼吸を整えながらも心が晴れないのは、昨日の事が頭から離れないからだ。
昨日、練習が終わった後、一人先にレッスン室を出た。
夕方から生徒達のレッスンがある為、いつも自分のレッスンが終わると急いで帰る。
足早にレッスン棟を出た時に呼びとめられた。
事務の須山だった。
「浅葱さん、あなたに渡す物があるのよ」
須山が手渡してきたのは、封がしていない大きめの封筒だった。
「あの、これって……」
書類か何かなのだろうか?
「大田さんからね。頼まれたの。見てビックリよ」
須山は笑っているが、その笑顔はどこか気持ちが悪い。
須山はそのまま立って芹歌を見ている。
中身を確認するよう催促しているみたいだ。
仕方なく、芹歌は封筒の中身を手にして引っ張りだして、目を
真田と久美子がベンチに座って抱き合っている写真だった。
「どぉ?凄いわよね。決定的瞬間ってやつ?ショックよねぇ~。だけど、あなた、練習が終わってすぐ帰るから知らないでしょうけど、あなたが帰った後、何度か彼女、訪ねて来てるのよ?元々在学中にも真田さんと関係してたものね。最近、私や大田さんとは、減ったけど、その分を彼女でカバーしてるみたいね。この時は特に親密な感じだったみたい。彼女、泣いてたって。真田さん、必死で
芹歌は震えて来る手をかろうじて止めた。
「……これって、いつの写真ですか?もう、大分前のじゃ?」
須山が言う通り、元々関係があったのだから、昔のものなら抱き合っているのも不思議ではない。
「つい最近よ。二人の服装を見れば分かるでしょ?それにバックの沈丁花。ほら、そこのベンチよ」
須山が指を差した。見ると確かに、すぐそこのベンチのようだ。
沈丁花の花の様子も、写真とあまり変わらないように見える。
「どうして、これを私に?」
ショックで声が微かに震える。
「あなたが知らないみたいだから。呑気に幸せそうな顔してるから、可哀想で。真田さんの彼女を気取ってるみたいだけど、現実を知った方がいいでしょう?」
いかにも親切ぶった、底意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「真田さんの性癖は、本当はあなたが一番良く知ってるわよね。今はコンクールって目的があるから、あなたに熱心だけど、それが終われば、また元のようになるんじゃないのかな。これがいい証拠よね。じゃ。コンクール、頑張って」
笑顔で軽く芹歌の肩を叩いて去っていった。
その後ろ姿を見て、怒りが湧いてくる。
余計なお世話もいいところだ。
何が『可哀想』だ。馬鹿にしている。
芹歌は写真を封筒に戻してカバンにしまった。
これにはきっと、何か訳があるに違いない。そう思った。
だが、追い打ちをかけるような事がその晩に起こった。
生徒達のレッスンも済み、食事も母の入浴も終えた夜の9時頃に来客があった。
こんな時間に来客なんて、まず無い。
(もしかして、神永君?)
実家の遺体発見の件で警察から事情聴取を受けている神永だが、母親の不審な死の解明はまだできていない。
当時4歳だった子どもが殺人とも考えられない事から、彼はただの参考人であり、自由の身だった。だから、以前のようにレッスンに来ている。
不審に思いながら出て見ると、客は中年の女性だった。
見た事のあるような顔だ。
誰かの親御さんかな?と思ったら、「野本加奈子といいます」と名乗られて驚いた。
野本加奈子なら知っている。だが、その野本加奈子が何故うちに?
「はじめまして。浅葱芹歌さん」
「はじめまして……」
加奈子は少女のような無邪気な笑顔を向けて来た。
ショートカットが良く似合っていて若く見えるが、確か年齢は40を過ぎていた筈だ。
「寒いし、立ち話も何なんで、入らせて貰ってもいいかしら?」
加奈子に言われて、芹歌は彼女をレッスン室に通した。
それにしても、自ら中に入れろとは少し図々しい気がした。
年齢を重ねると、そうなるのだろうか。
「立派なレッスン室ね。ここで生徒さんを教えてるのね。空調も整ってるし、さすがねぇ」
そう言いながら部屋の中を見まわしている。
「あの……、それでご用件は?」
加奈子は振り返って笑った。
「ああ、ごめんなさいね、いきなり訪ねて来て。あなたの事は少しだけ知ってるわ。ピアノ教室の他に、伴奏の仕事もされてるのよね。何人かのリサイタルで、あなたの伴奏も聴いた事があるのよ?お上手よね~、伴奏。合わせるのって大変でしょう?」
何だか言い方が嫌味っぽいと感じるが、考え過ぎか。
「仕事ですし。合わせるのが大変って言ったらオーケストラなんて、その極致じゃないですか。野本さんなら、よくご存じだと思いますけど」
加奈子の目が心なしか光ったように見えた。
「そうね。だけど伴奏なんて縁の下の力持ちのような仕事、よくされるわね。感心してたのよ。でもさすがに飽きてきたのかな?山際に出てるんですってね。幸也君から聞いたわ。驚いちゃった。ずっと伴奏しかしてこなかった人が」
(幸也君?なんなの、それ)
芹歌は彼女が真田の事を『幸也君』と呼んだ事に驚いた。
「どういう意味ですか?私が山際に出るからって、あなたには関係ないと思うんですけど」
「それが、そうでもないのよ。私、前から幸也君と一緒に仕事をしたいと思ってたの。今度、テレビドラマの音楽をやる事になっててね。弦楽器を主体にした曲を作ったから、彼にお願いしてるんだけど、あなたのコンクールの面倒をみないといけないから、そんな時間が無いって言われちゃって……」
ほとほと困ったと言わんばかりの顔で芹歌を見ている。
「そんな話し、聞いた事ありませんけど」
不愉快で顔が強張って来た。
「あなたのコンクールに差し障るからよ。でも興味はあるみたい。夜、よく私の所に来てくれるの。今夜も来たんだけどね。手袋を忘れてったのよね、彼ったら。真田家に届けるのも、なんか敷居が高いじゃない?私、オバサンだし。だから、あなたから渡してくれないかしら?」
そう言って差し出された手袋を見て、芹歌は凍りついた。
確かに真田の手袋だった。
「もう春とは言っても、夜はまだ寒いし、バイオリニストにとっては手は大事ですものね。全く、ウッカリ屋さんよねぇ。だけどあなた、もう少し、しっかりした方がいいわよ?『俺がそばにいないと、彼女は満足に弾けないんだ』って、彼、こぼしてたわよ?何の為のコンクールか分からないわよねぇ。そう言う所が放っておけなくて、構ってるんでしょうけど、時々ウンザリするのか、あの子の所へも、しょっちゅう出入りしてるみたい」
「あの子?」
「ほらっ!あなたの友達のピアニスト……。中村久美子さん、だったかしら?今夜もね。あの子から呼び出しがあって、急に飛び出して行ったのよ。だから手袋を忘れていったのかもね。慌てた様子だったから。あなたも大変ね。彼、あちこちに女がいて、腰が落ち着かないものね。でもそこが魅力的でもあるんだけど。私は途中でお預けになっちゃって、凄く残念だった。若い子に
負けない自信、あるのになぁ」
芹歌は涙が出そうになって来て、慌てて自分の心にフタをする。
こんな事を言われて、少女のようにメソメソと敵に涙なんて見せられない。
「それで、野本さんは手袋を届けに来てくれただけなんですよね?それならもう、用事は済みましたよね?」
芹歌は勤めて冷静に、野本に帰宅を促す。
「そうね。もう帰るわ。だけど、最後にもうひとつ。コンクールが終わったら、彼を解放してあげなさい。彼はもっともっと広い世界に羽ばたく人よ。あなたは彼に相応しくない。ここでピアノを教えている方が似合ってるわ」
野本は