第69話
文字数 3,154文字
「さぁ、着いたよ、お姫様」
「……」
「どうしたの?」
降りようとしない芹歌に、片倉は訊いてきた。
躊躇われるのは真田に逢う事ではなく、彼の家族と会う事だった。
山口の事件で芹歌に腹を立てていると聞いている。いい顔をされないだろう。
「しょうがないな……」
片倉は仕方なさそうに呟くと車を降りた。
助手席の方に回ってドアを開く。
「さぁ、芹歌ちゃん。降りて。ほらっ」
座ったまま見上げると、励ますような笑顔で芹歌を促している。
仕方なく芹歌は降りた。
「片倉先輩……。私、真田先輩のお母さんにお会いするのが怖くて……」
声がか細くなった。
「え?そうなの?それで渋ってたわけか。それなら大丈夫。御両親と弟さんは田舎に帰省中だから」
芹歌は驚いて片倉の顔を見た。陽気な顔だ。
「え?でもだって、真田先輩、まだ怪我が治ってないんですよね?それなのに、誰もお世話する人がいないんですか?」
「あはは、いなくても大丈夫だから、いないんだよ。元々ドイツでは一人暮らしだったんだから、自分の事は自分で出来るって。田舎に連れて行かれるのも気が休まらないから、一人がいいって主張したらしいよ。だから余計な心配はいらない。それより、さぁ」
そうは言っても、それで「はい、そうですか」と真田一人を置いて田舎へ帰る家族もどうなんだろうと思う。
そんな芹歌の頭の中を見でもしたように、片倉が言った。
「芹歌ちゃん。僕達、もう三十なんだよ。いいトシでしょう。プロとして自立してる大人なんだ。親の世話になったり干渉される年齢じゃない」
真剣な顔にハッとした。
だがすぐに、「な~んてね」と陽気な笑みを浮かべた。
「さぁ、行くよ。幸也、待ってる」
芹歌は歩き出した片倉の後に続いた。
「幸也!お待たせ!!」
片倉が玄関の中へ入ると、広い玄関ホールで真田が待ち構えていた。
「純哉、ありがとう。助かったよ。すんなりいったのか?」
「うん、まぁね。お母さんには歓迎されたって言うか、僕にウットリしてたかな」
真田が横を向いて「馬鹿が……」と呆れたように呟いた。
「でも、あの子はちょっと抵抗気味だったかな。神永君」
神永の名前を聞いてドキンとする。
「抵抗って?」
真田の眉間に力が入った。
「うん、まぁ。『真田さんは参加するのか』って訊かれた。君の存在をかなり気にしてるみたいだ」
「なるほど」
真田は頷くと、芹歌の方へ視線を向けた。
途端に優しい表情になった。
芹歌は動悸が激しくなるのを感じた。
「悪かったな、急に呼びだして」
声音もいつになく優しい。
「あの、びっくりしました。大事な話しって何ですか?」
「うん。まぁ、立ち話でできる事じゃないんで、俺の部屋へ行こう」
「じゃぁユキ、僕はこれで失礼するね」
「え?片倉先輩も一緒じゃないんですか?」
「あ、ごめんね。僕は単なるお使い役。二人だけの大事な話しだから、邪魔ものは消えるのみ。じゃぁね」
「あ……」
片倉は、まさに風のように去って行った。
取り残された芹歌は、突然いなくなった空間に呆気に取られた。
そしてジワジワと現実を認識し始めた。
(え?二人っきりなの……?)
真田に背を向けたまま、怖くて振り返れない。
「芹歌、行くぞ」
真田の言葉に仕方なく振り返ると同時に、真田は踵を返して歩き出した。
少しだけ、足を引きずっている。
芹歌はその後を追いながら、「先輩、足は?」と訊ねた。
「大丈夫。心配無い」
真田は振り向かずに答えた。引きずっている割には、歩くのが早い。
それにしても、いつ見てもゴージャスだ。ここへ来るのは初めてではない。
学生時代、何度か来た事はある。全てコンクールに向けた練習の為だ。
殆どが大学のレッスン室だったが、休日などは時々ここでやる事もあった。
真田の自室は二部屋続きになっていて、一部屋が練習用で、もう一部屋がベッドルームだ。
練習用の部屋はちょっとしたサロンのようで広々としている。
グランドピアノも置いてある。彼自身、勿論ピアノも弾ける。
真田の後について入った部屋は、殆ど昔と変わらない印象だった。
淡いクリーム色を基調としたインテリアが、心を落ち着かせる。
「とりあえず、座ってくれないか」
真田に言われて、ソファに座った。
真田がお茶を淹れだした。香りからジャスミンティだと知れた。
「あ、先輩、私が」
と立ちかけると「お前は客だろう。座ってろ」とぶっきらぼうに言う。
そう言われても、落ち着かない。
そもそも真田がお茶を淹れている姿なんて初めて見る。
「これでもな、お茶を淹れるの、結構うまいんだぜ。ドイツにいる間に上達したみたいだ。向こうは空気が乾いてるせいか、やたらお茶が飲みたくなるんだよ。日本のように上げ膳据え膳ってわけにいかないから、否が応でもやらざるを得ない」
微笑みながら淹れている手付きが優美だ。
この人は何をやっても様になる。
「さぁ、どうぞ」
良い香りが鼻をくすぐる。
香りの高いお茶は心が寛 ぐ。特にジャスミンティは好きだ。
「お前、ジャスミンティ好きだもんな」
(え?)
と思ったら、真田は芹歌の隣に腰掛けて来た。
驚いて少し腰を引く。
「ところで、腕の怪我、もう平気か?」
「はい。もう大丈夫です。触ると少し痛いけど、ピアノを弾くのに差し支えないです」
「そうか。良かった」
心の底から安堵したように、息をついている。
「先輩の方こそ、足の方は?まだ治ってませんよね?」
「うん。まぁな。でも大した事は無い。生活にも差し障りないし。ただ、ランニングはさすがに無理だ」
「はぁ?ランニング?何言ってるんですか。当たり前じゃないですか。散歩だって駄目ですよ」
「え?それじゃ、体力落ちちゃうな」
真面目な顔をしている。
「ちょっとちょっと、先輩」
芹歌は持っていたカップをテーブルの上に置いた。
「まさか、散歩してるんじゃないでしょうね?」
思わず睨みつける。
「何、その目。してるに決まってるじゃないか」
「はぁ?」
思わず声が大きくなった。
「やだ、何やってるんですか。そんな事してたら、治るのが遅くなりますよっ」
「大丈夫だよ。無理はしてないし……」
「だからって、散歩って」
「芹歌、いいか。あくまでも散歩だから。ウォーキングじゃないんだ。お前は、ウォーキングと散歩の違い、解ってないのか?」
そう言われてウッと言葉が詰まる。
「無理はしてないから。俺だって早く治りたいさ。ただ、ジッとしてるばっかりじゃ、体力が落ちるじゃないか。足腰が萎えたら、碌 な演奏にならないのは解ってるだろう」
「それは、そうですけど……」
芹歌は肩を落とした。理屈は解る。
それでも、引きずって歩いていた様を思うと、心配になるのだ。
「心配してくれるのは、嬉しいよ。だけど、俺はちゃんと自分を大事にしてるから、大丈夫だ。絶対に無理はしない」
そっと見ると、いつもの自信が溢れていた。
そして優しさも。
「病院では、結局あれから逢えなかったな」
芹歌は過呼吸になった時の事を急に思い出して、カーッとなった。
恥ずかしい。
「どうした?急に赤くなって」
(やだ、そんな事、指摘しないで)と思う。
「あの、過呼吸になった自分を思い出したら、急に恥ずかしくなってきて……」
ボソボソと言う。こんな事、堂々とは言えない。
「ああ、あれな。あの時は、ほんと驚いたよ。真っ赤な顔して、息止めちゃって。なんでだぁ?未だにわからないんだけど」
「そ、そ、そんなの、自分でも解りません」
「え?そうなの?」
不審げな眼差しを向けられた。
「それより、大事な話しって、何なんですか?」
芹歌は、慌てて話題を逸らした。
真田の表情が少し沈んだように見える。
「うん……。実はな。俺、来年の春になったら、ヨーロッパへ戻ろうかと思ってるんだ」
芹歌は体が凍りつくのを感じた。
「……」
「どうしたの?」
降りようとしない芹歌に、片倉は訊いてきた。
躊躇われるのは真田に逢う事ではなく、彼の家族と会う事だった。
山口の事件で芹歌に腹を立てていると聞いている。いい顔をされないだろう。
「しょうがないな……」
片倉は仕方なさそうに呟くと車を降りた。
助手席の方に回ってドアを開く。
「さぁ、芹歌ちゃん。降りて。ほらっ」
座ったまま見上げると、励ますような笑顔で芹歌を促している。
仕方なく芹歌は降りた。
「片倉先輩……。私、真田先輩のお母さんにお会いするのが怖くて……」
声がか細くなった。
「え?そうなの?それで渋ってたわけか。それなら大丈夫。御両親と弟さんは田舎に帰省中だから」
芹歌は驚いて片倉の顔を見た。陽気な顔だ。
「え?でもだって、真田先輩、まだ怪我が治ってないんですよね?それなのに、誰もお世話する人がいないんですか?」
「あはは、いなくても大丈夫だから、いないんだよ。元々ドイツでは一人暮らしだったんだから、自分の事は自分で出来るって。田舎に連れて行かれるのも気が休まらないから、一人がいいって主張したらしいよ。だから余計な心配はいらない。それより、さぁ」
そうは言っても、それで「はい、そうですか」と真田一人を置いて田舎へ帰る家族もどうなんだろうと思う。
そんな芹歌の頭の中を見でもしたように、片倉が言った。
「芹歌ちゃん。僕達、もう三十なんだよ。いいトシでしょう。プロとして自立してる大人なんだ。親の世話になったり干渉される年齢じゃない」
真剣な顔にハッとした。
だがすぐに、「な~んてね」と陽気な笑みを浮かべた。
「さぁ、行くよ。幸也、待ってる」
芹歌は歩き出した片倉の後に続いた。
「幸也!お待たせ!!」
片倉が玄関の中へ入ると、広い玄関ホールで真田が待ち構えていた。
「純哉、ありがとう。助かったよ。すんなりいったのか?」
「うん、まぁね。お母さんには歓迎されたって言うか、僕にウットリしてたかな」
真田が横を向いて「馬鹿が……」と呆れたように呟いた。
「でも、あの子はちょっと抵抗気味だったかな。神永君」
神永の名前を聞いてドキンとする。
「抵抗って?」
真田の眉間に力が入った。
「うん、まぁ。『真田さんは参加するのか』って訊かれた。君の存在をかなり気にしてるみたいだ」
「なるほど」
真田は頷くと、芹歌の方へ視線を向けた。
途端に優しい表情になった。
芹歌は動悸が激しくなるのを感じた。
「悪かったな、急に呼びだして」
声音もいつになく優しい。
「あの、びっくりしました。大事な話しって何ですか?」
「うん。まぁ、立ち話でできる事じゃないんで、俺の部屋へ行こう」
「じゃぁユキ、僕はこれで失礼するね」
「え?片倉先輩も一緒じゃないんですか?」
「あ、ごめんね。僕は単なるお使い役。二人だけの大事な話しだから、邪魔ものは消えるのみ。じゃぁね」
「あ……」
片倉は、まさに風のように去って行った。
取り残された芹歌は、突然いなくなった空間に呆気に取られた。
そしてジワジワと現実を認識し始めた。
(え?二人っきりなの……?)
真田に背を向けたまま、怖くて振り返れない。
「芹歌、行くぞ」
真田の言葉に仕方なく振り返ると同時に、真田は踵を返して歩き出した。
少しだけ、足を引きずっている。
芹歌はその後を追いながら、「先輩、足は?」と訊ねた。
「大丈夫。心配無い」
真田は振り向かずに答えた。引きずっている割には、歩くのが早い。
それにしても、いつ見てもゴージャスだ。ここへ来るのは初めてではない。
学生時代、何度か来た事はある。全てコンクールに向けた練習の為だ。
殆どが大学のレッスン室だったが、休日などは時々ここでやる事もあった。
真田の自室は二部屋続きになっていて、一部屋が練習用で、もう一部屋がベッドルームだ。
練習用の部屋はちょっとしたサロンのようで広々としている。
グランドピアノも置いてある。彼自身、勿論ピアノも弾ける。
真田の後について入った部屋は、殆ど昔と変わらない印象だった。
淡いクリーム色を基調としたインテリアが、心を落ち着かせる。
「とりあえず、座ってくれないか」
真田に言われて、ソファに座った。
真田がお茶を淹れだした。香りからジャスミンティだと知れた。
「あ、先輩、私が」
と立ちかけると「お前は客だろう。座ってろ」とぶっきらぼうに言う。
そう言われても、落ち着かない。
そもそも真田がお茶を淹れている姿なんて初めて見る。
「これでもな、お茶を淹れるの、結構うまいんだぜ。ドイツにいる間に上達したみたいだ。向こうは空気が乾いてるせいか、やたらお茶が飲みたくなるんだよ。日本のように上げ膳据え膳ってわけにいかないから、否が応でもやらざるを得ない」
微笑みながら淹れている手付きが優美だ。
この人は何をやっても様になる。
「さぁ、どうぞ」
良い香りが鼻をくすぐる。
香りの高いお茶は心が
「お前、ジャスミンティ好きだもんな」
(え?)
と思ったら、真田は芹歌の隣に腰掛けて来た。
驚いて少し腰を引く。
「ところで、腕の怪我、もう平気か?」
「はい。もう大丈夫です。触ると少し痛いけど、ピアノを弾くのに差し支えないです」
「そうか。良かった」
心の底から安堵したように、息をついている。
「先輩の方こそ、足の方は?まだ治ってませんよね?」
「うん。まぁな。でも大した事は無い。生活にも差し障りないし。ただ、ランニングはさすがに無理だ」
「はぁ?ランニング?何言ってるんですか。当たり前じゃないですか。散歩だって駄目ですよ」
「え?それじゃ、体力落ちちゃうな」
真面目な顔をしている。
「ちょっとちょっと、先輩」
芹歌は持っていたカップをテーブルの上に置いた。
「まさか、散歩してるんじゃないでしょうね?」
思わず睨みつける。
「何、その目。してるに決まってるじゃないか」
「はぁ?」
思わず声が大きくなった。
「やだ、何やってるんですか。そんな事してたら、治るのが遅くなりますよっ」
「大丈夫だよ。無理はしてないし……」
「だからって、散歩って」
「芹歌、いいか。あくまでも散歩だから。ウォーキングじゃないんだ。お前は、ウォーキングと散歩の違い、解ってないのか?」
そう言われてウッと言葉が詰まる。
「無理はしてないから。俺だって早く治りたいさ。ただ、ジッとしてるばっかりじゃ、体力が落ちるじゃないか。足腰が萎えたら、
「それは、そうですけど……」
芹歌は肩を落とした。理屈は解る。
それでも、引きずって歩いていた様を思うと、心配になるのだ。
「心配してくれるのは、嬉しいよ。だけど、俺はちゃんと自分を大事にしてるから、大丈夫だ。絶対に無理はしない」
そっと見ると、いつもの自信が溢れていた。
そして優しさも。
「病院では、結局あれから逢えなかったな」
芹歌は過呼吸になった時の事を急に思い出して、カーッとなった。
恥ずかしい。
「どうした?急に赤くなって」
(やだ、そんな事、指摘しないで)と思う。
「あの、過呼吸になった自分を思い出したら、急に恥ずかしくなってきて……」
ボソボソと言う。こんな事、堂々とは言えない。
「ああ、あれな。あの時は、ほんと驚いたよ。真っ赤な顔して、息止めちゃって。なんでだぁ?未だにわからないんだけど」
「そ、そ、そんなの、自分でも解りません」
「え?そうなの?」
不審げな眼差しを向けられた。
「それより、大事な話しって、何なんですか?」
芹歌は、慌てて話題を逸らした。
真田の表情が少し沈んだように見える。
「うん……。実はな。俺、来年の春になったら、ヨーロッパへ戻ろうかと思ってるんだ」
芹歌は体が凍りつくのを感じた。