第60話
文字数 3,336文字
拍手と歓声が鳴る。真田が出て来ただけで、大歓声だ。
それだけ期待されていると言う事だ。
きっと、外国でも、こんな風に期待されてきたのだろう。
出て来ただけで歓声が湧き、聴衆の要求に満足いく答えを出さなければならないのだから、プロの演奏家は大変だと今更ながらに思う。
軽くお辞儀をして、芹歌はピアノの椅子に腰かけた。
椅子を軽く調節し、ペダルの具合を確認する。
裾の長さが気になるが、全部完全に覆うようにすれば問題なさそうだった。
手の方も戻って来た感じだ。
真田がバイオリンを当て、芹歌の方へ軽く頷いた後、曲に入った。
(ああ……)
何て深い音なんだろう。練習以上だ。この人は本番に強い。
芹歌は感動しながら鍵盤に指を置いた。いいタイミングで入れたと思う。
僅かに真田が芹歌の方へ視線を送てっきた。OKの合図だ。
嬉しそうな表情に芹歌の気持ちも高まって来る。
いつだってそうだ。だからますます応えたくなる。
静寂から高揚へ、情熱が迸 しり、これでもかと言うくらい弓が鳴る。
弦を押さえる指は軽やかで速く、弓を持つ手は、しっかりとした肘に支えられ、柔らかな手首が撓 る様に音を奏でる。
芹歌はピアノの次に弦楽器が好きだった。特にバイオリンだ。
バイオリンが奏でる音は、胸を掻 き毟 られる程、せつない。
特に真田が紡ぎ出す音は、体の芯まで響いて恍惚となってくる。
そのバイオリンにピアノで合わせられる事は至福の喜びだ。
この人の演奏を、更に引き立てているんだと思うと興奮する。
2曲目は、ピアノが主体のモーツァルトのソナタ。
1曲目の興奮を押さえて、慎重に入った。
物悲しい曲だが、モーツァルトのピアノは粒をクリアにして弾かないと、平凡でくすんでしまう。
一人のパートの時は緊張する。だが、曲に入る時、真田が送ってきた視線が芹歌を力づけた。
大丈夫だ、そう言ってくれているように感じた。
力強い眼差しだった。そして、信頼の眼差しでもあった。
『お前のソロは腑抜けている』と言っていた癖に、そんな事はどこ吹く風だ。
二人の舞台で腑抜けた音なんて、出せない。
いつになく上手く始められたと感じた。
そこへ真田のバイオリンが乗ってくる。この共鳴が最高だ。
いつも引き立てられ役のバイオリンが、ここでは憎らしいくらいにピアノを引き立ててくる。
それが素晴らしくて、芹歌はかつてない程の充実感を味わった。
自分がこんなに弾けるなんて、とまで思う。
そうして、3曲目はパガニーニ。
もう、駄目だ、と思った。
死にそうに思うほど、酔いしれた。
バイオリンが素晴らし過ぎる。
技巧に頼り過ぎるきらいがあったのに、今はそんな事は全く感じさせない。
どうやら自分を取り戻したようだ。
ピアノを弾きながら、真田の姿を見る。
背筋が伸びて、スラリとした肢体がバイオリンと一体になって音を奏でている。
目を閉じて、微かに寄る眉間の皺が小刻みに伸びたり縮んだりしている。
口許は甘美だ。
時々芹歌を見る目が妖艶過ぎて、芹歌の指は昇天せんばかりに一層軽やかに飛ぶ。
この感覚だ。この感覚が溜まらない。
ずっと求めて止まないものだった。
だから、早く卒業して留学したかった。
早くまた彼と競演したかった。
だからこそ、失った時、どん底へと突き落とされたが如く絶望した。
パガニーニが終わった時、耳が壊れる程の喝采が湧きおこった。
スタンディングオーベーションだった。
ピアノの椅子に座ったまま、呆然と客席を見渡す。
観客は異常なくらいに興奮していた。
芹歌自身も体が火照っている。夢の中にいるようだ。
真田がお辞儀をした後、芹歌の元にやってきて手を伸ばした。
にっこり笑っている。
芹歌はその手を取った。その瞬間、ギュッと握られた。
共に何度もお辞儀をしながら、舞台袖に引っ込む。真田は手を握ったままだ。
「芹歌……。凄く良かった。ありがとう」
息を切らしながら礼を言われた。
「私の方こそ……。先輩、素晴らしかったです」
「まだ、もう少し、付き合ってくれ。……行くぞ」
アンコールに応える為、共に舞台に出た。
繋がれた手はそのままだ。
二人でお辞儀をした後、ポジションについた。
客席が静かになるまでの間に、自分の呼吸を整える。
アンコールの1曲目は、軽やかな曲だった。
そして2曲目はサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」。
ピアノの短い前奏から入り、劇的で物悲しい旋律のバイオリンが鳴る。
ジブシーのせつない音楽が奏でられ、胸を抉 るような孤独が伝わってくる。
真田のバイオリンは、胸が締め付けられるほど切なく歌っていた。
ああ、もっと歌わせてあげたい。
ひたすらそう願い指を動かす。
後半の速い旋律は軽やかで、しかも激しく情熱的で慕わしかった。
こんなに物狂おしいツィゴイネルワイゼンは無い。
この音に全てを捧げたいとまで思ってしまう。
終わった時の感動は、パガニーニを超えていた。
どうしてここまで弾けるのだろう。
この人の演奏家としての魂の素晴らしさを痛感する。
そんな人と、共に演奏できた事に感謝する。
曲が終わり、大喝采の中、ひとしきりお辞儀をしてから、真田がやってきた。
その顔は紅潮していた。
嬉しそうに差し出された手に手を添えると、腕を引かれて抱きしめられた。
突然の事に、芹歌は仰天した。
未だかつて無かった事だ。
「芹歌……。愛してる……」
耳元でそう言われた。
周囲の歓声の中で、ひと際、その声がこだました。
だが、思いもよらない出来ごとに、頭が真っ白になっていた。
客席は相変わらず、惜しみない拍手の嵐だ。
きっと、感極まって喜び合っていると思っているに違いない。
芹歌がどうしたら良いか分からなくて狼狽 ていると、真田の体が離れて、芹歌の手を取りながら舞台の中央へ進んだ。
芹歌はお辞儀をする真田に合わせて頭を下げるが、気持ちは動揺したままだ。
繋がれた手が、震えている。
その震えを止めようとするが如く、真田はしっかりと握って来た。
その後、何度もお辞儀をし、舞台袖に引っ込むものの再度舞台へ戻り、3回ほど繰り返してから、やっと終わった。
「お疲れ様でしたー」
周囲のスタッフから声を掛けられる中で、芹歌は再び抱きしめられた。
体が震えている。
真っ白だった頭が現実を認識し始めていた。
この状況が理解できない。
だが、抱きしめられている事が少しも不快ではない。
むしろ嬉しいと思っている事に気付いた。
それでも、『愛してる』の言葉だけは理解できないのだった。
あれはきっと、言葉の綾だ。
最高に良い演奏ができた事に対する、演奏家への賛辞の言葉だ。
そうとしか思えない。
そういう意味であるならば、自分だって愛している。
この素晴らしい芸術家を。
「真田君、浅葱さん!」
大鳥教授が駆け寄って来た。
それと同時に二人の体が離れた。
大鳥の背後には渡良瀬教授や他の教師陣がいた。
「素晴らしかったよ、二人とも」
そう言いながら手を差し出してきて、強く手を握られた。
「芹歌ちゃん、凄く良かったわよ」
渡良瀬に抱きしめられた。
ここまで手放しで褒められた事はない。
真田のコンクールの時も、皆から喝采を浴びたが、今回はそれを上回るような感動だ。
「二人のコンビは以前から素晴らしかったが、年数を置いての久しぶりのコンビとは思えない程だったよ。浅葱さん。あなたには、これからも真田君のパートナーとしてもっと活躍してもらわないとね」
大鳥の言葉に、真田は満足げに頷いている。
「芹歌ちゃん、本当に良かったわね。これで、あなたのパートナーとしての実力を公にする事ができたのよ?これからは、世間もあなたを真田幸也のパートナーとして注目する筈よ」
メディアの人間も来ていたから、今日の公演は明日の記事に出るだろう、と大鳥が意気揚々としている。
芹歌はなんだかビックリだ。
真田を見上げると、「だから、ドレスアップしといて良かったろう?ダサいまま記事に載ったら、それこそ恥ずかしい」と言った。
どこまで侮辱すれば気が済むんだ。
『愛してる』なんて調子のいい人だ。
上げたり下げたり、いいように弄 ばれたと、芹歌は少し憤慨した。
それだけ期待されていると言う事だ。
きっと、外国でも、こんな風に期待されてきたのだろう。
出て来ただけで歓声が湧き、聴衆の要求に満足いく答えを出さなければならないのだから、プロの演奏家は大変だと今更ながらに思う。
軽くお辞儀をして、芹歌はピアノの椅子に腰かけた。
椅子を軽く調節し、ペダルの具合を確認する。
裾の長さが気になるが、全部完全に覆うようにすれば問題なさそうだった。
手の方も戻って来た感じだ。
真田がバイオリンを当て、芹歌の方へ軽く頷いた後、曲に入った。
(ああ……)
何て深い音なんだろう。練習以上だ。この人は本番に強い。
芹歌は感動しながら鍵盤に指を置いた。いいタイミングで入れたと思う。
僅かに真田が芹歌の方へ視線を送てっきた。OKの合図だ。
嬉しそうな表情に芹歌の気持ちも高まって来る。
いつだってそうだ。だからますます応えたくなる。
静寂から高揚へ、情熱が
弦を押さえる指は軽やかで速く、弓を持つ手は、しっかりとした肘に支えられ、柔らかな手首が
芹歌はピアノの次に弦楽器が好きだった。特にバイオリンだ。
バイオリンが奏でる音は、胸を
特に真田が紡ぎ出す音は、体の芯まで響いて恍惚となってくる。
そのバイオリンにピアノで合わせられる事は至福の喜びだ。
この人の演奏を、更に引き立てているんだと思うと興奮する。
2曲目は、ピアノが主体のモーツァルトのソナタ。
1曲目の興奮を押さえて、慎重に入った。
物悲しい曲だが、モーツァルトのピアノは粒をクリアにして弾かないと、平凡でくすんでしまう。
一人のパートの時は緊張する。だが、曲に入る時、真田が送ってきた視線が芹歌を力づけた。
大丈夫だ、そう言ってくれているように感じた。
力強い眼差しだった。そして、信頼の眼差しでもあった。
『お前のソロは腑抜けている』と言っていた癖に、そんな事はどこ吹く風だ。
二人の舞台で腑抜けた音なんて、出せない。
いつになく上手く始められたと感じた。
そこへ真田のバイオリンが乗ってくる。この共鳴が最高だ。
いつも引き立てられ役のバイオリンが、ここでは憎らしいくらいにピアノを引き立ててくる。
それが素晴らしくて、芹歌はかつてない程の充実感を味わった。
自分がこんなに弾けるなんて、とまで思う。
そうして、3曲目はパガニーニ。
もう、駄目だ、と思った。
死にそうに思うほど、酔いしれた。
バイオリンが素晴らし過ぎる。
技巧に頼り過ぎるきらいがあったのに、今はそんな事は全く感じさせない。
どうやら自分を取り戻したようだ。
ピアノを弾きながら、真田の姿を見る。
背筋が伸びて、スラリとした肢体がバイオリンと一体になって音を奏でている。
目を閉じて、微かに寄る眉間の皺が小刻みに伸びたり縮んだりしている。
口許は甘美だ。
時々芹歌を見る目が妖艶過ぎて、芹歌の指は昇天せんばかりに一層軽やかに飛ぶ。
この感覚だ。この感覚が溜まらない。
ずっと求めて止まないものだった。
だから、早く卒業して留学したかった。
早くまた彼と競演したかった。
だからこそ、失った時、どん底へと突き落とされたが如く絶望した。
パガニーニが終わった時、耳が壊れる程の喝采が湧きおこった。
スタンディングオーベーションだった。
ピアノの椅子に座ったまま、呆然と客席を見渡す。
観客は異常なくらいに興奮していた。
芹歌自身も体が火照っている。夢の中にいるようだ。
真田がお辞儀をした後、芹歌の元にやってきて手を伸ばした。
にっこり笑っている。
芹歌はその手を取った。その瞬間、ギュッと握られた。
共に何度もお辞儀をしながら、舞台袖に引っ込む。真田は手を握ったままだ。
「芹歌……。凄く良かった。ありがとう」
息を切らしながら礼を言われた。
「私の方こそ……。先輩、素晴らしかったです」
「まだ、もう少し、付き合ってくれ。……行くぞ」
アンコールに応える為、共に舞台に出た。
繋がれた手はそのままだ。
二人でお辞儀をした後、ポジションについた。
客席が静かになるまでの間に、自分の呼吸を整える。
アンコールの1曲目は、軽やかな曲だった。
そして2曲目はサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」。
ピアノの短い前奏から入り、劇的で物悲しい旋律のバイオリンが鳴る。
ジブシーのせつない音楽が奏でられ、胸を
真田のバイオリンは、胸が締め付けられるほど切なく歌っていた。
ああ、もっと歌わせてあげたい。
ひたすらそう願い指を動かす。
後半の速い旋律は軽やかで、しかも激しく情熱的で慕わしかった。
こんなに物狂おしいツィゴイネルワイゼンは無い。
この音に全てを捧げたいとまで思ってしまう。
終わった時の感動は、パガニーニを超えていた。
どうしてここまで弾けるのだろう。
この人の演奏家としての魂の素晴らしさを痛感する。
そんな人と、共に演奏できた事に感謝する。
曲が終わり、大喝采の中、ひとしきりお辞儀をしてから、真田がやってきた。
その顔は紅潮していた。
嬉しそうに差し出された手に手を添えると、腕を引かれて抱きしめられた。
突然の事に、芹歌は仰天した。
未だかつて無かった事だ。
「芹歌……。愛してる……」
耳元でそう言われた。
周囲の歓声の中で、ひと際、その声がこだました。
だが、思いもよらない出来ごとに、頭が真っ白になっていた。
客席は相変わらず、惜しみない拍手の嵐だ。
きっと、感極まって喜び合っていると思っているに違いない。
芹歌がどうしたら良いか分からなくて
芹歌はお辞儀をする真田に合わせて頭を下げるが、気持ちは動揺したままだ。
繋がれた手が、震えている。
その震えを止めようとするが如く、真田はしっかりと握って来た。
その後、何度もお辞儀をし、舞台袖に引っ込むものの再度舞台へ戻り、3回ほど繰り返してから、やっと終わった。
「お疲れ様でしたー」
周囲のスタッフから声を掛けられる中で、芹歌は再び抱きしめられた。
体が震えている。
真っ白だった頭が現実を認識し始めていた。
この状況が理解できない。
だが、抱きしめられている事が少しも不快ではない。
むしろ嬉しいと思っている事に気付いた。
それでも、『愛してる』の言葉だけは理解できないのだった。
あれはきっと、言葉の綾だ。
最高に良い演奏ができた事に対する、演奏家への賛辞の言葉だ。
そうとしか思えない。
そういう意味であるならば、自分だって愛している。
この素晴らしい芸術家を。
「真田君、浅葱さん!」
大鳥教授が駆け寄って来た。
それと同時に二人の体が離れた。
大鳥の背後には渡良瀬教授や他の教師陣がいた。
「素晴らしかったよ、二人とも」
そう言いながら手を差し出してきて、強く手を握られた。
「芹歌ちゃん、凄く良かったわよ」
渡良瀬に抱きしめられた。
ここまで手放しで褒められた事はない。
真田のコンクールの時も、皆から喝采を浴びたが、今回はそれを上回るような感動だ。
「二人のコンビは以前から素晴らしかったが、年数を置いての久しぶりのコンビとは思えない程だったよ。浅葱さん。あなたには、これからも真田君のパートナーとしてもっと活躍してもらわないとね」
大鳥の言葉に、真田は満足げに頷いている。
「芹歌ちゃん、本当に良かったわね。これで、あなたのパートナーとしての実力を公にする事ができたのよ?これからは、世間もあなたを真田幸也のパートナーとして注目する筈よ」
メディアの人間も来ていたから、今日の公演は明日の記事に出るだろう、と大鳥が意気揚々としている。
芹歌はなんだかビックリだ。
真田を見上げると、「だから、ドレスアップしといて良かったろう?ダサいまま記事に載ったら、それこそ恥ずかしい」と言った。
どこまで侮辱すれば気が済むんだ。
『愛してる』なんて調子のいい人だ。
上げたり下げたり、いいように