第104話
文字数 3,233文字
「切羽詰まったような、余裕の無い顔をしている。仕上がってないのか、それとも自信がないのかは分からないが、3時間もあったら練習せずにはいられないんだろう。そんな顔をしてるじゃないか」
「そうね」と渡良瀬が同調した。
「何と言っても、ラフマニノフをやるんだからな。指の動きにまだ不安定要素があるのかもな」
なるほど。だが、こんな直前にそんなに練習するのはどうなのだろう。
真田も渡良瀬も同じに考えているに違いない。
だから真田はニヤけている。
「さて。周囲が賑やかになってきたから、場所を変えるか」
「え?どこへ?」
「ここでジッとしてても仕方ないだろう?お前を待っている間、恵子先生と相談してたんだ。近くにスポーツジムがあるから、そこで軽く汗を流そう。それから全身をアロマトリートメントして、ゆっくり昼食を楽しむ。13時のラインズに間に合うように会場に戻ろう」
芹歌は驚いた。幾ら時間があるとは言え、今からスポーツジム?
「私、衣装以外、何も持ってきてないけど……」
「芹歌ちゃん、大丈夫よ。ジムで全部貸してくれるから。話しはつけてあるから安心してちょうだい。私は畑地君とリ・ギジュン君の演奏をここで聴いとくから、二人で楽しんできて」
「楽しむって……」
戸惑っていると、真田が立ち上がり手を取られた。
周囲の注目を浴びて急に恥ずかしくなる。
会場に来ているのは音楽関係者ばかりだ。
だから当然のように真田の事を殆どの人間が知っている。
中には写真を撮ろうとスマホや携帯を出している人間もいた。
そんな中を素早く通り抜ける。
真田は会場前でタクシーに乗り込むと、スポーツジムの名前を告げた。
「束の間のデートだな」
途端に頬が熱くなる。
「デートって……」
「考えてみれば、俺達ってデートした事無いよな」
音楽を共に奏でる事で一緒に過ごす時間は長かったが、二人で遊びに出かけた事は確かになかった。
だが、デートと言う言葉に、ふと神永を思い出してしまった。
(あの横浜のデートが、最初で最後だったんだな)
思い出すとせつない。
「どうした?」
「ううん……。何か、その、恥ずかしくって」
「なんで恥ずかしくなるのか、俺にはわからない。デートと言ったって、スポーツジムだぞ?まぁ、軽く運動した後で、ブールに入るから、水着が恥ずかしいと言うなら、少しは分かるけどな」
「ええー?プール?水着ぃ~?」
「おい、大きな声出すなよ。そっちの方がよっぽど恥ずかしいぞ」
「ご、ごめんなさい……」
「体を適度に動かして血行を良くしておいた方がいいからさ。で、その後、アロマトリートメントを受けてリラックス。俺はトリートメントはしないが。水着くらいで、大騒ぎしない。どうせ色気のない水着なんだし」
言われて少し冷静になった。
コンクールの直前に、贅沢な時間の過ごし方だと思う。
ここまでセッティングしてくれたのだから、感謝しなければならない。
「それなら、デートなんて言わないで。全然、甘い要素が無いんだし……」
結局のところ、練習の延長線上にある行為だと思う。
デートなんて言うから、無駄にドキドキしてしまったではないか。
「それは悪かったな。ま、デートはコンクールが終わってから、改めてするか。時間があるかどうかは、わからないが」
ジムにはすぐに到着した。
フロントで手続きを済ませ、一式を手渡される。
ロッカールームで着替えて二人で軽くストレッチやウォーキングで汗をかき、プールで泳ぐ。
泳ぎ終わった後、芹歌はリラクゼーションルームで、アロマトリートメントを受けた。
その間に真田はタブレットで動画配信サイトにアクセスして、畑地の演奏を視聴していた。
アロマトリートメントを受けた芹歌は、良い香りに包まれて最高の心地だった。
泳ぐ事で適度に得た疲労が解消されて心地良い。
終了後、ジム内のサロンでゆったり座りながら動画を見ている真田と合流した。
「あ、いい匂い……」
真田はそう言って、芹歌の体に腕を回し、軽く口づけた。
「コンクールなんか無かったら、このまま抱くのにな」
「もう……」
真田は軽く微笑むと、芹歌を促した。
「じゃぁ、食事に行こう」
そう言って連れて行かれたのは、近くのイタリアンレストランだった。
そこで、魚介や野菜、肉をふんだんに使った料理が出されたが、パスタやライス、パン、ピザなどは一切出て来なかった。
「炭水化物は眠くなって集中力を阻害する。たんぱく質と良質の脂質で、しっかり精力をつけて長丁場を乗り越える。まぁ、最後に口直しでジェラートくらいはいいけどな」
とても美味しい店だった。
こんな風に、ムール貝や魚をたっぷり食べれるなんて、贅沢な事だ。
運動した後だけに、よく食べれる。
「芹歌を待っている間に、畑地の演奏を動画配信で視聴したんだけど、まぁ、あいつは敵じゃない。思った通りだった」
「どんな感じだったんですか?」
「そうだな。一言で言えば、優等生?型どおりな感じだな。あとは少し硬くなってたか。ソロは気負いが感じられた。コンチェルトの方は、合わせるのに精いっぱいな感じ。でも、ソツなくこなしていた。2次の時の方が、マシだったんじゃないのかな」
「そうですか」
芹歌は始まる前に畑地とやり取りがあった事を真田に話した。
「へぇ~、そんな事があったんだ。まぁ、よくある事さ。水面下での心理戦ってやつ。そういう事を仕掛けてくる奴ほど、大した事は無いんだ。自信の無さがそうさせる」
そうなのかもしれない。
それにしても男のイヤミは嫌だなと思う。
「それにしても、よく食べるな。それだけ食べれるなら心配ない。緊張して食べられなくなるようじゃ、土台無理だからな」
真田は満足そうに笑っている。
「だって、美味しいんですもん」
「そうか。それは良かった」
「幸也さんこそ、小食じゃないですか?緊張してる?」
「ば~か。なわけないだろう。俺だってちゃんと食べてるさ。だが俺は、この後は座って視聴してるだけだからな。食べ過ぎて太ったら困る」
「ふぅ~ん」
太るのが嫌で我慢しているのなら、面白い。
確かに普段二人で練習した後の食事も、夕飯だからなのか控えめのように感じる。
だが、昼食は割とガッツリと食べている印象だ。
食事を終えて会場へ向かった。
到着したのが12時45分頃。ホール内は人で溢れていた。
昼時だから外へ出て、戻って来たのだろう。
二人は関係者用の出入り口から中へ入る。
渡良瀬が指定エリア内に座っているのが見えた。
「先生……」
「あら、どうだった?楽しめたかしら」
「はい。美味しいものもいっぱい頂きました」
「それは良かったわ」
芹歌と真田は渡良瀬の隣に腰かけた。
「リ・ギジュンはどうでした?」
真田が渡良瀬に訊ねた。
「そうね。まずまずね。最初の畑地君よりは、ずっと良かったわ」
「そうですか。畑地のは動画配信でさっき視聴しましたよ。ソツなくまとめてましたが、思ったほどじゃ無かったですね」
「そうね。あれだど、下位グループと入れ替わるんじゃないかしら。昨日の5位、6位の子達はよく頑張ってたし」
「なるほど。あり得そうですね」
場内アナウンスが入った。
開演直前の着席を促すアナウンスだ。
きっとラインズも舞台袖で緊張して出番を待っているに違いない。
「芹歌ちゃん、あなた、大丈夫?聴かない方が良くない?」
渡良瀬が眉を微かに寄せて、心配げな表情になっている。
心を平静に保つためにも、聴かずにおいた方が良いと言う判断からだろう。
「大丈夫です。どんな演奏をするのか、知りたいし。その欲求を残したままじゃ、却ってストレス溜まっちゃいます」
芹歌は笑顔で答えたが、渡良瀬は呆れたように溜息めいた息を洩らした。
「だけど、2次の時の事を思うとねぇ。真田君は、よく平気ね」
「本人の希望ですから。それに、ショックを受けて弾けなくなるようじゃ、所詮はそれまで、って事ですよ」
「全く、あなた達ったら……」
場内の照明が絞られて暗くなり始めた。
「そうね」と渡良瀬が同調した。
「何と言っても、ラフマニノフをやるんだからな。指の動きにまだ不安定要素があるのかもな」
なるほど。だが、こんな直前にそんなに練習するのはどうなのだろう。
真田も渡良瀬も同じに考えているに違いない。
だから真田はニヤけている。
「さて。周囲が賑やかになってきたから、場所を変えるか」
「え?どこへ?」
「ここでジッとしてても仕方ないだろう?お前を待っている間、恵子先生と相談してたんだ。近くにスポーツジムがあるから、そこで軽く汗を流そう。それから全身をアロマトリートメントして、ゆっくり昼食を楽しむ。13時のラインズに間に合うように会場に戻ろう」
芹歌は驚いた。幾ら時間があるとは言え、今からスポーツジム?
「私、衣装以外、何も持ってきてないけど……」
「芹歌ちゃん、大丈夫よ。ジムで全部貸してくれるから。話しはつけてあるから安心してちょうだい。私は畑地君とリ・ギジュン君の演奏をここで聴いとくから、二人で楽しんできて」
「楽しむって……」
戸惑っていると、真田が立ち上がり手を取られた。
周囲の注目を浴びて急に恥ずかしくなる。
会場に来ているのは音楽関係者ばかりだ。
だから当然のように真田の事を殆どの人間が知っている。
中には写真を撮ろうとスマホや携帯を出している人間もいた。
そんな中を素早く通り抜ける。
真田は会場前でタクシーに乗り込むと、スポーツジムの名前を告げた。
「束の間のデートだな」
途端に頬が熱くなる。
「デートって……」
「考えてみれば、俺達ってデートした事無いよな」
音楽を共に奏でる事で一緒に過ごす時間は長かったが、二人で遊びに出かけた事は確かになかった。
だが、デートと言う言葉に、ふと神永を思い出してしまった。
(あの横浜のデートが、最初で最後だったんだな)
思い出すとせつない。
「どうした?」
「ううん……。何か、その、恥ずかしくって」
「なんで恥ずかしくなるのか、俺にはわからない。デートと言ったって、スポーツジムだぞ?まぁ、軽く運動した後で、ブールに入るから、水着が恥ずかしいと言うなら、少しは分かるけどな」
「ええー?プール?水着ぃ~?」
「おい、大きな声出すなよ。そっちの方がよっぽど恥ずかしいぞ」
「ご、ごめんなさい……」
「体を適度に動かして血行を良くしておいた方がいいからさ。で、その後、アロマトリートメントを受けてリラックス。俺はトリートメントはしないが。水着くらいで、大騒ぎしない。どうせ色気のない水着なんだし」
言われて少し冷静になった。
コンクールの直前に、贅沢な時間の過ごし方だと思う。
ここまでセッティングしてくれたのだから、感謝しなければならない。
「それなら、デートなんて言わないで。全然、甘い要素が無いんだし……」
結局のところ、練習の延長線上にある行為だと思う。
デートなんて言うから、無駄にドキドキしてしまったではないか。
「それは悪かったな。ま、デートはコンクールが終わってから、改めてするか。時間があるかどうかは、わからないが」
ジムにはすぐに到着した。
フロントで手続きを済ませ、一式を手渡される。
ロッカールームで着替えて二人で軽くストレッチやウォーキングで汗をかき、プールで泳ぐ。
泳ぎ終わった後、芹歌はリラクゼーションルームで、アロマトリートメントを受けた。
その間に真田はタブレットで動画配信サイトにアクセスして、畑地の演奏を視聴していた。
アロマトリートメントを受けた芹歌は、良い香りに包まれて最高の心地だった。
泳ぐ事で適度に得た疲労が解消されて心地良い。
終了後、ジム内のサロンでゆったり座りながら動画を見ている真田と合流した。
「あ、いい匂い……」
真田はそう言って、芹歌の体に腕を回し、軽く口づけた。
「コンクールなんか無かったら、このまま抱くのにな」
「もう……」
真田は軽く微笑むと、芹歌を促した。
「じゃぁ、食事に行こう」
そう言って連れて行かれたのは、近くのイタリアンレストランだった。
そこで、魚介や野菜、肉をふんだんに使った料理が出されたが、パスタやライス、パン、ピザなどは一切出て来なかった。
「炭水化物は眠くなって集中力を阻害する。たんぱく質と良質の脂質で、しっかり精力をつけて長丁場を乗り越える。まぁ、最後に口直しでジェラートくらいはいいけどな」
とても美味しい店だった。
こんな風に、ムール貝や魚をたっぷり食べれるなんて、贅沢な事だ。
運動した後だけに、よく食べれる。
「芹歌を待っている間に、畑地の演奏を動画配信で視聴したんだけど、まぁ、あいつは敵じゃない。思った通りだった」
「どんな感じだったんですか?」
「そうだな。一言で言えば、優等生?型どおりな感じだな。あとは少し硬くなってたか。ソロは気負いが感じられた。コンチェルトの方は、合わせるのに精いっぱいな感じ。でも、ソツなくこなしていた。2次の時の方が、マシだったんじゃないのかな」
「そうですか」
芹歌は始まる前に畑地とやり取りがあった事を真田に話した。
「へぇ~、そんな事があったんだ。まぁ、よくある事さ。水面下での心理戦ってやつ。そういう事を仕掛けてくる奴ほど、大した事は無いんだ。自信の無さがそうさせる」
そうなのかもしれない。
それにしても男のイヤミは嫌だなと思う。
「それにしても、よく食べるな。それだけ食べれるなら心配ない。緊張して食べられなくなるようじゃ、土台無理だからな」
真田は満足そうに笑っている。
「だって、美味しいんですもん」
「そうか。それは良かった」
「幸也さんこそ、小食じゃないですか?緊張してる?」
「ば~か。なわけないだろう。俺だってちゃんと食べてるさ。だが俺は、この後は座って視聴してるだけだからな。食べ過ぎて太ったら困る」
「ふぅ~ん」
太るのが嫌で我慢しているのなら、面白い。
確かに普段二人で練習した後の食事も、夕飯だからなのか控えめのように感じる。
だが、昼食は割とガッツリと食べている印象だ。
食事を終えて会場へ向かった。
到着したのが12時45分頃。ホール内は人で溢れていた。
昼時だから外へ出て、戻って来たのだろう。
二人は関係者用の出入り口から中へ入る。
渡良瀬が指定エリア内に座っているのが見えた。
「先生……」
「あら、どうだった?楽しめたかしら」
「はい。美味しいものもいっぱい頂きました」
「それは良かったわ」
芹歌と真田は渡良瀬の隣に腰かけた。
「リ・ギジュンはどうでした?」
真田が渡良瀬に訊ねた。
「そうね。まずまずね。最初の畑地君よりは、ずっと良かったわ」
「そうですか。畑地のは動画配信でさっき視聴しましたよ。ソツなくまとめてましたが、思ったほどじゃ無かったですね」
「そうね。あれだど、下位グループと入れ替わるんじゃないかしら。昨日の5位、6位の子達はよく頑張ってたし」
「なるほど。あり得そうですね」
場内アナウンスが入った。
開演直前の着席を促すアナウンスだ。
きっとラインズも舞台袖で緊張して出番を待っているに違いない。
「芹歌ちゃん、あなた、大丈夫?聴かない方が良くない?」
渡良瀬が眉を微かに寄せて、心配げな表情になっている。
心を平静に保つためにも、聴かずにおいた方が良いと言う判断からだろう。
「大丈夫です。どんな演奏をするのか、知りたいし。その欲求を残したままじゃ、却ってストレス溜まっちゃいます」
芹歌は笑顔で答えたが、渡良瀬は呆れたように溜息めいた息を洩らした。
「だけど、2次の時の事を思うとねぇ。真田君は、よく平気ね」
「本人の希望ですから。それに、ショックを受けて弾けなくなるようじゃ、所詮はそれまで、って事ですよ」
「全く、あなた達ったら……」
場内の照明が絞られて暗くなり始めた。