第51話
文字数 2,997文字
「気持ちいい……」
天気が良く、潮風が心地良い。
海岸はサーファーやカップル、家族連れなど、多くは無いが、それなりに賑わっていた。
富士山も見えて、心が洗われる気がした。
寄せて来る白波が、泡をたてて消える様は、まるで人生のようだ。
波がたっても、やがて泡のように消えて行く。
その繰り返しだ。
悩みや痛みも、そんな風にして消えていってくれたらと思う。
こんな風に思うのは、逃避なんだろうか?
「芹歌さん。今日はどういう話しだったんですか?」
一緒に海を見ている神永が、世間話をするような調子で訊いてきた。
「うん……」
芹歌は理事長から言われた事を淡々と話した。
「それで芹歌さんは、どうするつもり?」
黙って俯く。
どうしたらいいのだろう。
気持ちは、やりたくない。だが、それでも良いのだろうか。
結果的に自己中なんじゃないのか、との思いが湧いてくる。
無責任なのではないかと。
「我慢、するつもりですか?できるんですか?」
「……自信は、無い、かな……」
「なら、やめましょう」
神永がきっぱり言った。
「え?でも……」
そんな風にきっぱりと割り切れるなら、何も悩んだりはしないと思って顔を上げたら、いきなり抱きしめられた。
「あ……」
「いいんですよ、断って。でないと、あなた自身が駄目になってしまう。僕は壊れて行くあなたを見たくないです」
「神永君……」
「今にも、水の中に身を投げ出しそうですよ。そんな風に一人で抱え込まないで下さい」
神永の手に力が入った。
(温かい……)
神永の胸に顔を埋めた。
こんな風に抱きしめられたのは、何年ぶりだろう。
ずっと一人で、ひとりぼっちで戦ってきた気がする。
運命から見放されて、たったひとりで。
「あなたが……好きです。だから、あなたに拒絶されたと思って、僕は辛かった。それでも毎週、あなたと逢う。あなたの息使いをすぐ傍に感じる場所で……。だから、極めて事務的に装うしか無かった。でも僕、間違ってましたね。それが今日分かったんで、お宅へ伺ったんです」
「分かったって、何を?」
「僕は、芹歌さんにとって、迷惑な存在なんだと思ったんです。でも、そうじゃなかったって事です。そうじゃないんですよね?」
芹歌は神永の胸の中で頷いた。
迷惑なんかじゃなかった。
どれだけ助けられていた事か。
「僕は、これからもあなたの力になりたい。あなたの傍にいたい」
神永は、抱きしめていた手をそっと緩めて、芹歌の顔を持ちあげた。
怖れと不安と、希望と歓びがない混ぜになったような瞳が近づいてきた。
唇が重なった瞬間、芹歌は目を閉じた。
神永の唇は、最初はためらいがちだったが、やがて強く押し当ててきた。
唇が僅かに開き、吐息が混ざり合う。
唇が離れ、再び抱きしめられた。
「ずっと、あなたが好きでした。ピアノを習う前から……。憧れていたんです。でも仕事が忙し過ぎてなかなか練習に行けなくて。だから、転職して、合唱とピアノとで週に二日も逢える事になって、凄く嬉しかった。しかも、ピアノのレッスン中は、すぐ傍だし、あなたは手取り足とり丁寧に教えてくれるから、内心凄くドキドキしてたんです」
そうだったのか。
少なくとも、レッスンに通って来る前までは、全くそんな事は感じなかった。
レッスンに来るようになってから、時々彼のせつなそうな視線を受けて不思議に思ったが、彼を意識しだしたのは、我が家で食事をするようになってからだ。
「神永君……」
「はい……」
「ありがとう……」
体が離れた。
問うような眼差しに見つめられた。
「少し、歩かない?なんかちょっと、恥ずかしい……」
芹歌は周囲に目をやる。
「ああ、そうですね。すみません……。じゃぁ、あの……。手を繋いでもいいですか?」
若い男が頬を染めている。なんだか可愛い。
芹歌は頷いて、手を差し出した。
神永は嬉しそうに、その手を取った。大きな手だ。
いつもピアノを弾いている時に、羨ましいと思う手。
「私……、本当に団に戻らなくてもいいって思う?3月まで我慢すれば済む事なのよ?」
心が凪いでいた。
自分を抱きしめて、受け止めてくれる存在があると言う事が、どれだけ心の安定になるのか、初めて知った気がした。
「さっき、自信が無いって言ったじゃないですか」
「そうだけど……」
「芹歌さんは、もっと自分の事を考えるべきです。自分自身を最優先にしないと。あまりに、自分をおざなりにし過ぎてる」
神永の握る手に力が入った。
「山口さんと組む事で、芹歌さんの神経がすり減ってくの、僕は見てて辛かったです。本当は、もっと早くに辞めても良かったくらいなんです。今更ですよ。山口さんをすぐに切れないからって、芹歌さんに我慢を強いるなんてとんでもない話しです。断るべきです。と言うか、断って下さい」
神永は真面目に言っているんだろうが、芹歌は何故か可笑しくなってクスリと笑った。
「あ、笑った」
不服そうな顔だ。
「だって……」
ちょうど、辺りに人影が無かったからか、いきなり腕を引っ張られて唇を塞がれた。
舌は入って来ないものの、啄ばむように何度も何度も唇を重ねる。
胸の動悸が激しくなってきて、頭がぼーっとした。
そのままどこかへ雪崩れこみそうな勢いを感じたが、暫くしてようやく芹歌の唇は解放された。
耳元で「笑った罰……」と囁かれて、頬が熱くなった。
その頬を大きな手で包まれて、一層、熱くなるのを感じた。
「芹歌さん、なんか可愛いな。もしかして、こういうの馴れて無い?」
馴れてなどいない。ずっと音楽一筋で来たのだから。
再び唇を塞がれたが、今度は軽く触れて終わった。
「ごめん。困らせちゃったかな」
再び手を取って歩き出す。
情熱的な人だな。
でも考えて見れば、毎週彼が歌う歌は、情熱的な恋の歌だった。
あれが彼の心だったと言う事か。
「ご飯、食べて帰りたいところだけど、お母さんは大丈夫かな」
「多分……。須美子さんにメールするね」
芹歌は繋がれた手を外して、須美子にメールをした。
その間、神永はジッと芹歌を見つめていた。
見ると、嬉しそうに笑っている。
「どうしたの?」
「あなたが、素直だったから」
「はい?どういう意味かしら」
「ご飯を食べて帰る事に、何の抵抗もなく、すんなりと受け入れてくれた。それが嬉しくて」
「やだ、そんな事で?」
「だって、これまでずっと、僕のやる事に抵抗を示してたじゃないですか」
少し恨みのこもったような目つきになった。
「そ、それは……。普通でしょう。行動の意図が掴めなかったから。うちのような家庭状況で、若い男性に親切にされたら、警戒くらいするし」
「それは、そうかもしれません。僕はちょっと傷つきましたけど」
「じゃぁ訊くけど、あなたじゃなくて、他の男性とかだったら?その親切を素直に私たちが受け入れてたとしたら、あなた平気?」
その時、神永の顔色が突然変わった。
「え?どうしたの?」
恐れるような目で芹歌を見た。
一体、いきなりどうしたと言うのか。
「あ、いえ。すみません。平気じゃないです」
首をぶんぶん振る。
「ねぇ、何か顔色が悪くなったみたいだけど、どこか具合が悪くなったの?」
「いえいえ。想像したら、ちょっと怖くなってしまっただけです。すみません。もう、この話しはやめましょう。ご飯、ご飯」
神永は陽気に笑ったが、その笑顔はどこかぎこちなさが感じられた。
天気が良く、潮風が心地良い。
海岸はサーファーやカップル、家族連れなど、多くは無いが、それなりに賑わっていた。
富士山も見えて、心が洗われる気がした。
寄せて来る白波が、泡をたてて消える様は、まるで人生のようだ。
波がたっても、やがて泡のように消えて行く。
その繰り返しだ。
悩みや痛みも、そんな風にして消えていってくれたらと思う。
こんな風に思うのは、逃避なんだろうか?
「芹歌さん。今日はどういう話しだったんですか?」
一緒に海を見ている神永が、世間話をするような調子で訊いてきた。
「うん……」
芹歌は理事長から言われた事を淡々と話した。
「それで芹歌さんは、どうするつもり?」
黙って俯く。
どうしたらいいのだろう。
気持ちは、やりたくない。だが、それでも良いのだろうか。
結果的に自己中なんじゃないのか、との思いが湧いてくる。
無責任なのではないかと。
「我慢、するつもりですか?できるんですか?」
「……自信は、無い、かな……」
「なら、やめましょう」
神永がきっぱり言った。
「え?でも……」
そんな風にきっぱりと割り切れるなら、何も悩んだりはしないと思って顔を上げたら、いきなり抱きしめられた。
「あ……」
「いいんですよ、断って。でないと、あなた自身が駄目になってしまう。僕は壊れて行くあなたを見たくないです」
「神永君……」
「今にも、水の中に身を投げ出しそうですよ。そんな風に一人で抱え込まないで下さい」
神永の手に力が入った。
(温かい……)
神永の胸に顔を埋めた。
こんな風に抱きしめられたのは、何年ぶりだろう。
ずっと一人で、ひとりぼっちで戦ってきた気がする。
運命から見放されて、たったひとりで。
「あなたが……好きです。だから、あなたに拒絶されたと思って、僕は辛かった。それでも毎週、あなたと逢う。あなたの息使いをすぐ傍に感じる場所で……。だから、極めて事務的に装うしか無かった。でも僕、間違ってましたね。それが今日分かったんで、お宅へ伺ったんです」
「分かったって、何を?」
「僕は、芹歌さんにとって、迷惑な存在なんだと思ったんです。でも、そうじゃなかったって事です。そうじゃないんですよね?」
芹歌は神永の胸の中で頷いた。
迷惑なんかじゃなかった。
どれだけ助けられていた事か。
「僕は、これからもあなたの力になりたい。あなたの傍にいたい」
神永は、抱きしめていた手をそっと緩めて、芹歌の顔を持ちあげた。
怖れと不安と、希望と歓びがない混ぜになったような瞳が近づいてきた。
唇が重なった瞬間、芹歌は目を閉じた。
神永の唇は、最初はためらいがちだったが、やがて強く押し当ててきた。
唇が僅かに開き、吐息が混ざり合う。
唇が離れ、再び抱きしめられた。
「ずっと、あなたが好きでした。ピアノを習う前から……。憧れていたんです。でも仕事が忙し過ぎてなかなか練習に行けなくて。だから、転職して、合唱とピアノとで週に二日も逢える事になって、凄く嬉しかった。しかも、ピアノのレッスン中は、すぐ傍だし、あなたは手取り足とり丁寧に教えてくれるから、内心凄くドキドキしてたんです」
そうだったのか。
少なくとも、レッスンに通って来る前までは、全くそんな事は感じなかった。
レッスンに来るようになってから、時々彼のせつなそうな視線を受けて不思議に思ったが、彼を意識しだしたのは、我が家で食事をするようになってからだ。
「神永君……」
「はい……」
「ありがとう……」
体が離れた。
問うような眼差しに見つめられた。
「少し、歩かない?なんかちょっと、恥ずかしい……」
芹歌は周囲に目をやる。
「ああ、そうですね。すみません……。じゃぁ、あの……。手を繋いでもいいですか?」
若い男が頬を染めている。なんだか可愛い。
芹歌は頷いて、手を差し出した。
神永は嬉しそうに、その手を取った。大きな手だ。
いつもピアノを弾いている時に、羨ましいと思う手。
「私……、本当に団に戻らなくてもいいって思う?3月まで我慢すれば済む事なのよ?」
心が凪いでいた。
自分を抱きしめて、受け止めてくれる存在があると言う事が、どれだけ心の安定になるのか、初めて知った気がした。
「さっき、自信が無いって言ったじゃないですか」
「そうだけど……」
「芹歌さんは、もっと自分の事を考えるべきです。自分自身を最優先にしないと。あまりに、自分をおざなりにし過ぎてる」
神永の握る手に力が入った。
「山口さんと組む事で、芹歌さんの神経がすり減ってくの、僕は見てて辛かったです。本当は、もっと早くに辞めても良かったくらいなんです。今更ですよ。山口さんをすぐに切れないからって、芹歌さんに我慢を強いるなんてとんでもない話しです。断るべきです。と言うか、断って下さい」
神永は真面目に言っているんだろうが、芹歌は何故か可笑しくなってクスリと笑った。
「あ、笑った」
不服そうな顔だ。
「だって……」
ちょうど、辺りに人影が無かったからか、いきなり腕を引っ張られて唇を塞がれた。
舌は入って来ないものの、啄ばむように何度も何度も唇を重ねる。
胸の動悸が激しくなってきて、頭がぼーっとした。
そのままどこかへ雪崩れこみそうな勢いを感じたが、暫くしてようやく芹歌の唇は解放された。
耳元で「笑った罰……」と囁かれて、頬が熱くなった。
その頬を大きな手で包まれて、一層、熱くなるのを感じた。
「芹歌さん、なんか可愛いな。もしかして、こういうの馴れて無い?」
馴れてなどいない。ずっと音楽一筋で来たのだから。
再び唇を塞がれたが、今度は軽く触れて終わった。
「ごめん。困らせちゃったかな」
再び手を取って歩き出す。
情熱的な人だな。
でも考えて見れば、毎週彼が歌う歌は、情熱的な恋の歌だった。
あれが彼の心だったと言う事か。
「ご飯、食べて帰りたいところだけど、お母さんは大丈夫かな」
「多分……。須美子さんにメールするね」
芹歌は繋がれた手を外して、須美子にメールをした。
その間、神永はジッと芹歌を見つめていた。
見ると、嬉しそうに笑っている。
「どうしたの?」
「あなたが、素直だったから」
「はい?どういう意味かしら」
「ご飯を食べて帰る事に、何の抵抗もなく、すんなりと受け入れてくれた。それが嬉しくて」
「やだ、そんな事で?」
「だって、これまでずっと、僕のやる事に抵抗を示してたじゃないですか」
少し恨みのこもったような目つきになった。
「そ、それは……。普通でしょう。行動の意図が掴めなかったから。うちのような家庭状況で、若い男性に親切にされたら、警戒くらいするし」
「それは、そうかもしれません。僕はちょっと傷つきましたけど」
「じゃぁ訊くけど、あなたじゃなくて、他の男性とかだったら?その親切を素直に私たちが受け入れてたとしたら、あなた平気?」
その時、神永の顔色が突然変わった。
「え?どうしたの?」
恐れるような目で芹歌を見た。
一体、いきなりどうしたと言うのか。
「あ、いえ。すみません。平気じゃないです」
首をぶんぶん振る。
「ねぇ、何か顔色が悪くなったみたいだけど、どこか具合が悪くなったの?」
「いえいえ。想像したら、ちょっと怖くなってしまっただけです。すみません。もう、この話しはやめましょう。ご飯、ご飯」
神永は陽気に笑ったが、その笑顔はどこかぎこちなさが感じられた。