第72話

文字数 3,271文字

「痛かったろ?ごめんな」

 真田はその胸に芹歌を抱いていた。時々、髪を弄ぶ。
 芹歌は首を振った。

「先輩……」
「幸也でいいよ」
「え?でも……」
「先輩ってのは、もうやめて欲しいな」
「じゃぁ……、真田さん」

 真田の手が、芹歌の髪を引っ張った。

「痛いっ」
「他人行儀な呼び方をするからだ」

 声が少し怒っている。

「だからって、引っ張らなくても」
「幸也でいいって言ってるじゃないか」
「えぇ?ゆ、幸也……、あ、だめ。やっぱ無理」
「おい!」
「だって。ずっと先輩として慕ってきたのに、呼び捨てなんて……」

 真田がギュッと抱きしめた後、額に口づけた。

「嬉しいよ。ずっと慕ってきてくれて」
「あ……」

 そんな言葉に反応したのか。ちょっと意外だ。

「だけど」
 と、口調が強くなった。

「『先輩』と『真田さん』は禁句だ」
「えー?酷い!」
「酷くない。お前だって、俺に『浅葱さん』って言われて嬉しいか?」
「先輩、それは違いますよ。私と先輩じゃ立場が違うでしょう」

 真田が耳を引っ張った。

「やー!!」
「二回も『先輩』と言った」

 不満げに見つめている。

「浅葱さん。浅葱さん。浅葱さん」

 芹歌はムカついてきて、対抗する。

「真田さん、真田さん、真田さん」

 真田の目つきが悪くなってきた。

「浅葱さんが好きだ。浅葱さんを愛してる。浅葱さんを離したくない。俺の浅葱さん」

 全くムードも何も無い、表情の無い顔で淡々と言われて、芹歌は溜息が出た。
 言っている内容と口調が全く合っていない。

「もうっ。いや」

 芹歌は顔を背けた。
 そんな芹歌に、真田はキスしてきた。
 頭部に唇を受けて、なぜかキュンとする。

「嫌なのは、俺の方だぞ?浅葱さん」
「まだ言うかっ」

 振り向いたら唇を塞がれた。
 食べられそうな勢いに、顔が熱くなる。

「なぁ。自分が言われて、わかるだろ?」

 ねだるような目つきで見られて、反論できなくなった。

「お前が俺を真田さんって呼ぶなら、俺もお前を浅葱さんと呼ぶ。お前はそれでいいのか?」

 確かにそれでは他人行儀だと思う。
 思うが、男と女では違う気もする。
 しかも、芹歌の方が年下だ。
 芹歌が逡巡していると、真田が思いもよらない事を訊いてきた。

「あいつの事、何て呼んでる?」

 芹歌は顔が強張った。

「浅葱さん」
「もう……。どうして、そんな事を訊くんですか?」

「気になるから。俺はいつまで経っても『先輩』か『真田さん』なんて他人行儀な呼び方のままで、あいつの事は親密な呼び方なら、正直、許せない」

「はぁ~っ。それなら大丈夫です。『神永君』ですから」

 真田は目を(みは)った。

「それは本当か?」
「本当ですよ」

 真田は小さく一つ、息をついた。

「そうか。お前って、そういうヤツなんだな。親しくなっても苗字呼びか。お前とあいつなら、お前の方が年上だし、教師だし、名前に君づけか呼び捨てが妥当だろうに」

 何故か責めるような口ぶりだ。

「許せないと言っておきながら、そのセリフですか?真田さん」
「悪かったな、浅葱さん」

 芹歌はウンザリしてきた。

「どうしてそんなに、こだわるの?」
「どうしてだろうな」

 真田もウンザリしてきたようだ。

「幸也が無理なら、ユキでもいいぞ。純哉は両方呼んでるが」
「ユキ?」
「ああ」

 芹歌的には、それもちょっと無理かもと思った。

「なんか、女の子みたいで、無理かな」
「なぁ?いい加減にしろよ」
「はい?」

 真田の口調に反発を覚える。
 いい加減にしろとは、どういう事だ。何故そんな風に責められなければ、ならないんだ。
 失礼な呼び方をしているなら理解できるが、そうじゃないのに。

「あれは駄目、これも駄目って、我がままだな、お前」

「それはとっても、心外です。あなたこそ、我がままでしょ?呼び方ひとつで、どうしてこんなに文句言われなきゃならないんですか?失礼な呼び方をしてるわけじゃないのに、責められる謂われ、ありませんからっ」

「失礼な呼び方だから、文句言ってるんじゃないか」
「はぁ??」

「解った。お前は、俺が想うほど、俺を想って無いって事なんだな。だから、平気で他人行儀な呼び方しかしないんだ」

 互いの吐息が混じるほど程近くにいるのに、なぜこんな事で揉め無きゃならないのか。

「そうだとしたら、どうするんですか?」

 真田は絶句した。
 そう返ってくるとは思っていなかっただろう。
 
 芹歌は黙って見つめる。
 その視線を受けて、真田は寂しそうな顔をした。
 その事に芹歌の胸は締め付けられた。

「芹歌……。頼むから、そんな事は言わないでくれ。俺が悪かったよ。だけど俺、お前に名前で呼んで欲しいんだ。芹歌にとって、特別なんだって思いたいんだ。実感したいんだよ」

 好きな人にそうまで言われて、尚、躊躇う理由があるのだろうか。
 ずっと求めて止まなかった人なのに。

「そうまで言ってくれるの、嬉しいけど、それでもやっぱり恥ずかしいって言うか。大体、どんなに親しくなっても、相手が年下であっても、呼び捨てになんて、私できない。だから、その……、幸也さん……じゃ駄目?それでも凄く恥ずかしくて、抵抗あるんだけど」

 芹歌は譲歩した。確かに恋人同士なら名前で呼び合うのが普通なのだろうが、先輩後輩としての時間が長かったのもあり、何よりも恥ずかしさが先に立つのだった。

「ありがとう……」
 真田の手が伸びて来て、芹歌を抱きしめた。

「それでいいよ。無理して呼び捨てにする必要、ないもんな。俺が悪かった。無理強いして。久美子なんて、純哉のことを『純哉君』だもんな」

「あの……」
「ん?」
「もう、『久美子』って呼ぶの、やめて欲しいです。『中村さん』で。あ、他の人も」
「え?」

 真田が意表を突かれでもしたように、驚いた目で芹歌を見た。

「だって、親密な仲じゃない人を、どうして名前で呼ぶの?他人行儀な呼び方でいいじゃないですか。そうでないと、私、自分が特別なんだって思えないし」

 真田の顔から、プッと笑いがこぼれた。

「わかった。芹歌の言う通りだ。だけど、みんな驚くだろうな」

「そうでしょうね。でも、私、5年も待たされたんですから。もう、永遠に関わりの無い人になってしまったんだって、思ってた。だから、恵子先生からチケットを買っても、行かなかったし。だって、あなたが直接呼んでくれた訳じゃなかったから……」

 真田の指が唇に触れた。
 そっとなぞられる。

「ごめん。恵子先生のチケットは、俺が手配して頼んだんだ。そうとは知られずに芹歌にって……。来てくれるのをずっと待ってた。直接呼ぶのが怖かったから、間接的に。やっぱり俺は卑怯な男だな。でももう、それも終わりだ。だから、ヨーロッパに一緒に行こう。お前を連れて行きたいんだ。これからは、ずっと一緒にいよう。お前はちょっと鈍いみたいだから、はっきり言っとく。これは、プロポーズだからな。ジョークじゃないぞ、本気だからな」

 芹歌は目をパチクリさせた。

(今、何て言ったの?プロポーズ?)

 おまけに本気だと念押しされた。
 でも、その前に……。

「はぁ?鈍い?酷くないですか?」
「なぁ、そこに反応するのか?だから鈍いって言われるんだよ」

 呆れたような顔をしながら、芹歌の顔を両手で包んだ。
 愛しげな瞳で見つめられて、想いが伝わってくる。

 舞台の上で、よくこういう目で見られた事を思い出す。
 だが、舞台を降りた場所では無かった。

 特に演奏後は目を合わせようとはしなかった。
 まさか自分が愛されていたなんて、思いもしなかっただけに、今この瞬間が夢のように思えてくる。

 唇が落ちて来た。震える唇がそれを受ける。

「愛してるんだ……。だから、結婚して欲しい」

 耳元で、熱い吐息がそう囁いた。
 そのまま唇が耳の周辺で戯れる。

 くすぐったさと快感がない交ぜになって芹歌を襲う。
 真田は芹歌の耳たぶをそっと噛んでから、顔を離した。

「返事が無いのは、OKって事でいいんだな?」

 その自信はどこから来るのだろうと思いながら、真田を見つめる。
 こんな風に抱き合っているのだから、愛情は疑いない。
 
 だが、結婚となったら話は別だと芹歌は思うのだった。
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