第10話
文字数 3,065文字
(この人は姿勢がいいな……)
懸命にピアノを弾く神永の姿は綺麗だった。
矢張り姿勢が良いのは気持ちが良い。
合唱をやっているのもあるかもしれない。
それにバッハのインベンションを必死に弾いている真剣な横顔もなかなか良いと思う。
神永とは合唱団でも会っているが、こうしてすぐそばで見るのはピアノの時くらいだろう。
歌っている時は、ピアノの場所からは見えない。
もうすぐ梅雨明けが間近いからか、急に暑くなってきた。
だが部屋の中は涼しくて気持ちが良い。
その涼しい部屋の中で、神永は額に汗して必死な形相 をしていた。
段々リズムが乱れて来た。
出だしは良かったが、左右の動きが交互に逆転を始めるとリズムが乱れてゆく。
(混乱してきたな……)
「あ~、駄目です。訳わかんない」
神永はそう言いながらも、何とか弾き続けていたが、グチャグチャになってきたので止めさせた。
「やっぱ、駄目です、バッハ。古典は好きな方なんですけど、インベンションとかって簡単そうで難しいや」
「そうね。一見、大したテクニックを要さない感じだものね。でも実際は、インテンポで右と左が追いかけっこしていくのって、案外難しいかもね」
「かもね、じゃないですよ。一人輪唱ってやつですね。頭混乱して、指まで混乱する」
神永は目をぐるぐる回した。
それを見て芹歌は思わず吹きだした。
「どうする?止める?」
「え?なんでですか?」
「だって、頭も指も混乱して、訳わかんないんでしょう?」
なんとなく意地悪を言いたくなった。
「先生酷いなぁ。これで止めるくらいなら習いに来ないですよ。分からないから教えて貰うんじゃないですか。先生の方こそ、簡単に生徒を見放すんですか?」
軽く睨まれた。
「まさか!でも弱音を吐くものだから、ついね」
芹歌の言葉に、神永は困ったような顔をして吐息をついた。
「弱音くらい、吐かせて欲しいなぁ。だってホントに大変なんですから。それに本気で愚痴ってるわけじゃ無いですよ?先生、その辺を分かってて、わざと言ってますよね?」
思わず笑みがこぼれた。図星だ。
彼はからかい甲斐がある。
あれこれ言っていも本気で受け止めて落ち込むと言った事も無ければ、怒る事も無い。
それが分かっているから、ついつい言ってしまうのだった。
それに、頭も良い。
「ごめん、ごめん。神永君の言う通りかな。ついね。だけど、この間も言ったけど、もう少し片手ずつ、メロディの移動を意識して練習した方がいいと思う。いっぺんにやろうとしない事。あと、拍の最初をちゃんと意識して。フレーズ感を大事にね。フレーズ感はどんな曲でも大事な事よ。今度発表会で弾く曲なんかは特にね」
「分かりました。ただ、片手ずつだと上手くいくのに、合わせると途端に混乱して……」
「それはまだ、習得できていない証拠よ。しっかり入れば混乱しないし、逆に輪唱状態を冷静に楽しめるようになるわよ」
「ええー?僕にでもですかぁ?」
「ええ。勿論」
「そうだったら嬉しいですけど……」
「大丈夫。しっかり練習すればね。……じゃぁ、ドビュッシーいきましょうか」
「はい……」
神永はバッハのインベンションを閉じると、後ろに置いてあるドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」の譜面を引っ張りだした。
今度の発表会で弾く曲だ。
「これ、譜読みが難しいな。フラット6つも付いてるんだから」
譜面を睨むように見ている。
「あら。フラットが6つも付いてるって事は、付かないのは1つだけって事よ?殆ど黒鍵ばっかりで、逆に弾きやすいと思うけどな~」
「そうですけどー」
「この曲を弾きたいって言ったの、神永君でしょうに」
「そうですけど、まさかフラットが6つも付いてるとは譜面見るまで知らなかった……。見てちょっとショック受けましたよ」
「そんな記号の数で一喜一憂しないの。調で覚えて行きましょうよ。はい、質問。この曲は何調でしょうか」
神永は「うへぇっ」と顔をしかめた。
「えーっと、えーっと……シ……、ミ……、ラ……、レ……、ソ……、ド……の順番で、最後の前だから、ソ?……ソ……は、えーと、ト?えーっと、これはフラットだからぁ……、変、ト?……長調?」
恐る恐るな感じで芹歌の方を見た。
「あ・た・り!」
芹歌はにっこりと笑った。
「やったー!」
拳を握った右手を空に突き上げる仕草が可笑しい。
「あのね?クイズじゃないんだし」
「そうですけどー、嬉しい」
本当に嬉しそうな笑顔だ。
「理屈は分かってきてるよね。あとは見てすぐに分かるようになれば言う事ないかな」
「ですよねー。やっぱり、こんなんじゃカッコ悪い……」
今度は肩を落として意気消沈している。
なんだか忙しい人だ。そして面白い人だとも思う。
「じゃぁ、変ト長調で音階を弾いてね。片手ずつ弾いた後に両手で」
必ず曲を弾く前にその調で音階を弾かせている。
神永も春田と同じように独学だった。
独学者はいきなり譜面の音符を追って弾く事が多いから、自身で調の勉強をすると言う事がまず無い。
フラットやシャープがどこに付いてどこに付かないかを音符を見る度に判断していたのでは遅い。
調で流れを覚えれば自然と黒鍵を弾けるようになる。
勿論そうなる為には練習が必要だ。
神永は音楽好きで学生時代からずっと合唱部に所属していたらしい。
だが本当はピアノを弾く事に憧れていて、子どもの時からずっと習いたいと思っていた。
「うちはオヤジが飲んだくれで、貧乏だったんですよ。母は僕が小さい時に身ひとつで逃げ出したんです。その後行方不明……。だから楽器なんてね。歌なら何も要らないから。でもずっと弾きたかったんです」
合唱団に入って1年ほど経った時、休み時間に話してくれた。
そして、芹歌がピアノを教えていると知って、ずっと習いたいと言っていた。
ただ仕事の関係で習う時間が無かった。
いつ休んでいるのだろう?と思う程、仕事に追われていて合唱団の練習でさえ休む事も度々だった。
そんな彼が、この3月に転職した。
時間が前よりもできるようになり、それを機に芹歌の元に通うようになった。
ピアノは大学へ入学してから安い電子ピアノを買って始めたと言う。
学費は奨学金で、生活費をアルバイトで稼いでいた為、ピアノを習う金銭的余裕は相変わらず無かった。
現在ピアノ歴6年ほどで中級レベルである。
春田よりも遥かに癖は強くないし、素直な性格なのかとても教えやすい。
合唱歴が長いから譜読みも早い方だし、表現の面でも「歌うように」と言う抽象的な表現でも分かってくれる。
彼の問題点と言えば手首だろう。
男性だけに手が大きい。届く音域が広いから手首を使わなくても弾けてしまう。
だがその分力が入ってしまうので固い音になりやすい。
子どもの頃から習っていれば自然に感覚で習得できている事が、独学者にはできていない事が多い。子どもの頃に基本を身に付ける事は大切だ。
だが、彼は今の時期に習いに来てくれて良かったと芹歌は思う。
このまま独学で弾き続けていたら、春田のようになりかねない。
神永の場合、合唱をやっているからか、自分の演奏をしっかり聞けている点が良かった。
自分の演奏を聞くと言う事は、案外、誰にでもできる事では無い。
大抵の場合、まずは間違えずに弾こうと、弾く事に夢中になって音まで聞けないのだ。
「僕、自分の演奏、あまり好きじゃないんですよ。もっと綺麗に弾きたいのに」
教えて欲しいと言ってきた時に神永が言った言葉だ。
それを聞いて、春田に聞かせてやりたいと思ったものだった。
懸命にピアノを弾く神永の姿は綺麗だった。
矢張り姿勢が良いのは気持ちが良い。
合唱をやっているのもあるかもしれない。
それにバッハのインベンションを必死に弾いている真剣な横顔もなかなか良いと思う。
神永とは合唱団でも会っているが、こうしてすぐそばで見るのはピアノの時くらいだろう。
歌っている時は、ピアノの場所からは見えない。
もうすぐ梅雨明けが間近いからか、急に暑くなってきた。
だが部屋の中は涼しくて気持ちが良い。
その涼しい部屋の中で、神永は額に汗して必死な
段々リズムが乱れて来た。
出だしは良かったが、左右の動きが交互に逆転を始めるとリズムが乱れてゆく。
(混乱してきたな……)
「あ~、駄目です。訳わかんない」
神永はそう言いながらも、何とか弾き続けていたが、グチャグチャになってきたので止めさせた。
「やっぱ、駄目です、バッハ。古典は好きな方なんですけど、インベンションとかって簡単そうで難しいや」
「そうね。一見、大したテクニックを要さない感じだものね。でも実際は、インテンポで右と左が追いかけっこしていくのって、案外難しいかもね」
「かもね、じゃないですよ。一人輪唱ってやつですね。頭混乱して、指まで混乱する」
神永は目をぐるぐる回した。
それを見て芹歌は思わず吹きだした。
「どうする?止める?」
「え?なんでですか?」
「だって、頭も指も混乱して、訳わかんないんでしょう?」
なんとなく意地悪を言いたくなった。
「先生酷いなぁ。これで止めるくらいなら習いに来ないですよ。分からないから教えて貰うんじゃないですか。先生の方こそ、簡単に生徒を見放すんですか?」
軽く睨まれた。
「まさか!でも弱音を吐くものだから、ついね」
芹歌の言葉に、神永は困ったような顔をして吐息をついた。
「弱音くらい、吐かせて欲しいなぁ。だってホントに大変なんですから。それに本気で愚痴ってるわけじゃ無いですよ?先生、その辺を分かってて、わざと言ってますよね?」
思わず笑みがこぼれた。図星だ。
彼はからかい甲斐がある。
あれこれ言っていも本気で受け止めて落ち込むと言った事も無ければ、怒る事も無い。
それが分かっているから、ついつい言ってしまうのだった。
それに、頭も良い。
「ごめん、ごめん。神永君の言う通りかな。ついね。だけど、この間も言ったけど、もう少し片手ずつ、メロディの移動を意識して練習した方がいいと思う。いっぺんにやろうとしない事。あと、拍の最初をちゃんと意識して。フレーズ感を大事にね。フレーズ感はどんな曲でも大事な事よ。今度発表会で弾く曲なんかは特にね」
「分かりました。ただ、片手ずつだと上手くいくのに、合わせると途端に混乱して……」
「それはまだ、習得できていない証拠よ。しっかり入れば混乱しないし、逆に輪唱状態を冷静に楽しめるようになるわよ」
「ええー?僕にでもですかぁ?」
「ええ。勿論」
「そうだったら嬉しいですけど……」
「大丈夫。しっかり練習すればね。……じゃぁ、ドビュッシーいきましょうか」
「はい……」
神永はバッハのインベンションを閉じると、後ろに置いてあるドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」の譜面を引っ張りだした。
今度の発表会で弾く曲だ。
「これ、譜読みが難しいな。フラット6つも付いてるんだから」
譜面を睨むように見ている。
「あら。フラットが6つも付いてるって事は、付かないのは1つだけって事よ?殆ど黒鍵ばっかりで、逆に弾きやすいと思うけどな~」
「そうですけどー」
「この曲を弾きたいって言ったの、神永君でしょうに」
「そうですけど、まさかフラットが6つも付いてるとは譜面見るまで知らなかった……。見てちょっとショック受けましたよ」
「そんな記号の数で一喜一憂しないの。調で覚えて行きましょうよ。はい、質問。この曲は何調でしょうか」
神永は「うへぇっ」と顔をしかめた。
「えーっと、えーっと……シ……、ミ……、ラ……、レ……、ソ……、ド……の順番で、最後の前だから、ソ?……ソ……は、えーと、ト?えーっと、これはフラットだからぁ……、変、ト?……長調?」
恐る恐るな感じで芹歌の方を見た。
「あ・た・り!」
芹歌はにっこりと笑った。
「やったー!」
拳を握った右手を空に突き上げる仕草が可笑しい。
「あのね?クイズじゃないんだし」
「そうですけどー、嬉しい」
本当に嬉しそうな笑顔だ。
「理屈は分かってきてるよね。あとは見てすぐに分かるようになれば言う事ないかな」
「ですよねー。やっぱり、こんなんじゃカッコ悪い……」
今度は肩を落として意気消沈している。
なんだか忙しい人だ。そして面白い人だとも思う。
「じゃぁ、変ト長調で音階を弾いてね。片手ずつ弾いた後に両手で」
必ず曲を弾く前にその調で音階を弾かせている。
神永も春田と同じように独学だった。
独学者はいきなり譜面の音符を追って弾く事が多いから、自身で調の勉強をすると言う事がまず無い。
フラットやシャープがどこに付いてどこに付かないかを音符を見る度に判断していたのでは遅い。
調で流れを覚えれば自然と黒鍵を弾けるようになる。
勿論そうなる為には練習が必要だ。
神永は音楽好きで学生時代からずっと合唱部に所属していたらしい。
だが本当はピアノを弾く事に憧れていて、子どもの時からずっと習いたいと思っていた。
「うちはオヤジが飲んだくれで、貧乏だったんですよ。母は僕が小さい時に身ひとつで逃げ出したんです。その後行方不明……。だから楽器なんてね。歌なら何も要らないから。でもずっと弾きたかったんです」
合唱団に入って1年ほど経った時、休み時間に話してくれた。
そして、芹歌がピアノを教えていると知って、ずっと習いたいと言っていた。
ただ仕事の関係で習う時間が無かった。
いつ休んでいるのだろう?と思う程、仕事に追われていて合唱団の練習でさえ休む事も度々だった。
そんな彼が、この3月に転職した。
時間が前よりもできるようになり、それを機に芹歌の元に通うようになった。
ピアノは大学へ入学してから安い電子ピアノを買って始めたと言う。
学費は奨学金で、生活費をアルバイトで稼いでいた為、ピアノを習う金銭的余裕は相変わらず無かった。
現在ピアノ歴6年ほどで中級レベルである。
春田よりも遥かに癖は強くないし、素直な性格なのかとても教えやすい。
合唱歴が長いから譜読みも早い方だし、表現の面でも「歌うように」と言う抽象的な表現でも分かってくれる。
彼の問題点と言えば手首だろう。
男性だけに手が大きい。届く音域が広いから手首を使わなくても弾けてしまう。
だがその分力が入ってしまうので固い音になりやすい。
子どもの頃から習っていれば自然に感覚で習得できている事が、独学者にはできていない事が多い。子どもの頃に基本を身に付ける事は大切だ。
だが、彼は今の時期に習いに来てくれて良かったと芹歌は思う。
このまま独学で弾き続けていたら、春田のようになりかねない。
神永の場合、合唱をやっているからか、自分の演奏をしっかり聞けている点が良かった。
自分の演奏を聞くと言う事は、案外、誰にでもできる事では無い。
大抵の場合、まずは間違えずに弾こうと、弾く事に夢中になって音まで聞けないのだ。
「僕、自分の演奏、あまり好きじゃないんですよ。もっと綺麗に弾きたいのに」
教えて欲しいと言ってきた時に神永が言った言葉だ。
それを聞いて、春田に聞かせてやりたいと思ったものだった。