第102話

文字数 2,981文字

 最後まで弾き終えると、オーケストラ内から拍手が湧いた。
 原も拍手している。

「凄く良かったよ、浅葱さん」
「あ、ありがとうございます」

 立って周囲にお辞儀をした。
 振り返って真田を見る。彼も満足した顔をして手を叩いていたので、やっとホッとする。

「さすがに渡良瀬さんのお弟子さんだね。よくここまで作り上げて来たと感心したよ。あとはね。本番では、もっと思いきりいってもいいから。オケの事は、あまり気にしなくていい。こちらで合わせていくから。君のピアノは気持ちいいね。一緒にやってると、どんどん盛り上がっていく感じがする。だから、本番ではもっと自分を解放して構わないからね」

「はいっ、ありがとうございました」

 芹歌は充実した気持ちで会場を後にした。


「芹歌ちゃん、とっても良かったわ。先生、ここまで来て凄く嬉しいわよ」

 帰り道に、渡良瀬が感動したように言う。

「先生、ありがとうございます。私の方こそ感謝してます」

 本当に、一人じゃとても無理だった。
 そもそも、卒業後もずっと見捨てずにきてもらえた事が何よりも感謝だ。
 そうでなければ、とても挑戦なんてできなかった。

「当日が楽しみだな。原さん、君と一緒にやってると盛り上がって来るって言ってたが、さすがだね。よく分かってる。今日は7割だったからな。本番で思いきりやったら、腰を抜かすかもしれないぞ」

 楽しそうに笑っている。

「え?今日は7割だったの?」

 渡良瀬が目を丸くして驚いた。

「恵子先生、何を言ってるんですか。当たり前じゃないですか。なぁ、芹歌」

 芹歌は笑顔で頷いた。

「あら、まぁまぁ……。私、9割くらいだと思ってた。あれで7割?だとしたら、本番はどうなるのかしら?だけど、リハとは言え、7割なんて抑え過ぎじゃなくて?」

「恵子先生は、いつもリハでは9割なんですか?」

 真田に問われて、「当然よ」と渡良瀬は答えた。

「本番に近いくらいにテンションを上げておかないと、本番で上げきれないじゃないの」

「なるほど。まぁ、その辺は人によるのかな。僕はいつも7割なんですよ。だから一緒にやってる芹歌も7割の癖がついてるのかもしれません。それが良いのか悪いのかは分かりませんが、僕達の間では良い結果をもたらしてます。リハは7割、本番は十全以上で」

「十全以上?何なの?それは」

「言葉通りですよ。十全、つまり、万全、完全、それ以上を出すと言う事です。完璧を目指すようじゃ、逆に自分で限界を作ってるようなものです。それに音楽は生き物ですから。いつどう変化し、昇華するか分かりません。その為にも、リハでは十分な余裕を持たせるんです。あえて伸びシロを作っておく。だから芹歌も本番でそれが出来たら、今日とは比較にならない程の音楽が生まれて来ますよ。今からそれが楽しみです」

「ええ?それって、凄い事じゃないの?だけど、そんな、上手くいくの?」

 渡良瀬はかえって不安を募らせるように、心配げに眉を寄せた。

「やるしかないですよ、先生。それに、今日が7割だったんだから本番は確実に今日より良い演奏だって事です。それだけでも楽しみになりませんか」

「それはそうだけど……、芹歌ちゃんはどうなの?大丈夫そう?」

 芹歌は笑った。

「大丈夫です。真田さんが言うように、少なくとも今日よりは更に良くなると思いますよ。なんせ7割だったんですから」

「あら。あなたがそんな風に自信を持って言うなんて、珍しいわね。昔から、あがらない子だったけど、でも自信家ではなかったのに。真田君の影響かしら。まぁ、いい事だけど」

 渡良瀬は呆れたような、ホッとしたような、そんな顔をして芹歌と真田の顔を見た。

 芹歌はあの日から、自分の心が充足して強くなったと感じている。
 目の前の壁を乗り越える事が、真田への愛の証しだと思うようになった。

 とても愛されているのを感じる。
 この日も家まで送ってきて、別れ際に熱いキスを交わした。
 門柱の影で抱きしめられる。

「いよいよだな」
「うん……」

「今日は本当に良かったよ。あとは本番で出し切るだけだ。ポロネーズの方も楽しみにしてるから」

「ありがとう。……だけど、先生にはああ言ったけど、本番、大丈夫かな。ソロはともかく、コンチェルトの方……」

 自分自身は弾ける自信はある。
 だが、協奏曲はソロではない。オーケストラとのコラボレーションだ。
 自分ばかりが思いきり弾いて、走ってしまうような事になったら、との不安が若干あった。

「それは大丈夫だよ、きっと。今日の原さんの言葉でも分かっただろう?本番は思いきりって。オケの方で合わすって。原さんはきっと分かってる。今日のお前が抑えて弾いてたのをね。だから、本番では出し切れと促してきた。相手はプロ中のプロなんだ。指揮者だけでなく、オーケストラもね。合わせるのは朝飯前だよ。それに、思うにきっとオケの方もお前に影響されて、遥かに良くなると思うな。審査員も会場も唸るに違いない」

 芹歌は温かな真田の胸の中で頷いた。
 最後の口づけを交わして別れた後、家へ入る。

「どうだった?今日のオケとのリハは……」
 母が心配げに問いかけて来た。

「うん。良かったと思う。原さんにも褒められた」

「あら、本当?私、原道隆、結構好きなのよ。ダンディでステキだし、指揮を振る姿なんて、最高よね。あの人の指揮で演奏できるなんて、羨ましいわ」

 少女のように頬を染めて興奮している実花を見て、芹歌は微笑む。

「本番は、お母さん、会場へ行くわよ?」
「え?」

 以前よりも母親らしさを取り戻していた実花だが、車椅子だけに滅多に外出はしないから、今度の本番も当然、来ないものと思っていた。
 それだけに、芹歌はビックリした。

 行くと言われても、車椅子の人間を連れて行くなら、それなりの前準備が必要だろう。
 当事者である芹歌に、その負担は重い。

「折角の晴れ舞台じゃない。前のコンクールの時は6位入賞で残念だったけど、今回は違うでしょう?2次突破の時点でトップだったんだから、優勝できるかもしれないんだし。そんな時に母親が行かないって、可笑しいわよね?幾らいい歳した大人だと言っても」

「それはそうかもしれないけど……」

 連れて行く方の身にもなって欲しい。
 演奏する事に集中したいのに。

「大丈夫よ。当日はね。ゆう君に連れて行ってもらうから」
「え?神永君に?」

 神永のレッスンは、昨日で最後だった。

「1年間、ありがとうございました。楽しかったです」

 彼はそう言って、深々とお辞儀をした。
 そして、いつもの通りに浅葱家で夕飯を摂り、特に別れを惜しむでもなく、いつも通りに去っていった。

 芹歌には何だかそれが凄く寂しかった。
 あまりにも呆気ない。

「ゆう君もね。本選は是非会場で聴きたいって言ってたからね。二人で行く事にしたの。だから、あなたは私の心配をしなくていいわよ?」

「い、いつの間に、そんな話しになったの?」
「そうねぇ……。いつだったかしら。あなたが2次を突破した頃だったかしらねぇ」

 そんな前から……。
 だから昨日は、素っ気ない様子で帰っていったのか。

 昨日が本当の別れでは無かったから。

「そう言えば、ゆう君のお母さんの事、大体片付いたみたいね。良かったわ。これであの子も安心したでしょうね」

 難航していた白骨遺体の件が、取り敢えず、大体の解決を見るに至ったのだった。

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