第44話

文字数 3,222文字

 帰りの車の中でも、実花は一人ではしゃいでいたが、芹歌は何だか気が重かった。
 あんな事を言われたら、意識せずにはいられない。神永だってそうだろう。

「ねぇ、ゆう君……。今日はうちで晩ご飯を食べていって?」
「え?あ、でも……」

 芹歌の反応を伺うように、芹歌の方を見た。

「何か用事でもあるの?」
「あ、いえ……」

 気不味いのだろう。
 実花がとんでもない事を言うからだ。
 ただの友人だったらまだしも、毎週、芹歌の元にレッスンに来ている生徒だ。
 この先、毎週顔を合わせなければならないのに。

「お弁当を作った食材が、まだ残ってるじゃない?あれで、何か作ってよ」
「芹歌さんさえ、良ければ……」

 遠慮がちな様子だ。

 芹歌は小さく溜息をつくと、
「神永君がいいなら、私は別に構わないけど」と、半ばなげやりに答えた。

「じゃぁ、決まりね」

 手を合わせて喜んでいる。
 神永の方はホッとした顔をしていた。

 実花があんな事を言わなければ、夕飯についての実花の提案を、抵抗なく受け入れていたと思う。
 全く、余計な事を言うからいけないんだ。

 神永は手際よく残りモノで料理した。
 ありきたりの材料なのに、ちょっとした工夫があり、夏休みの間も凄いなと思ったが、一層、その力量が窺える。

 実花は昼間の話しを蒸し返すことなく、疲れたから早く寝たいと言い出したので、風呂に入れて寝かす事にした。

「お風呂って、いつもどうしてるんですか?」

 車椅子の人間が風呂に入る大変さを経験上、知っているからだろう。
 だが実花の場合、予想に反してそれ程大変でも無い。
 立てるからだ。

 足はすっかり良くなっているのである。
 だが、歩こうとしないから歩けない。
 それだけだ。

 トイレや風呂はその場まで車椅子で連れていけば、後は立って自分でやる。
 ただ、浴槽に浸かる時だけ、支えてやる。

「そうなんですか……。じゃぁ、お風呂の間に、僕、洗い物を片づけます」

(え?なんで?)

 こういう時、じゃぁそろそろ、と言って引き揚げるものじゃないのか。

「そんな、いいわよ。私が後でやるから。作ってもらって、片づけまでさせるなんて、申し訳無いから」

 やんわりと帰宅を促したつもりだった。
 だが、こちらの意思が伝わらないのか、

「大丈夫ですから」と笑って引き下がらない。
「神永君……」

 どう言ったものかと思っていたら、「芹歌早く」と母に催促されたので、仕方なく風呂場へ
向かった。

 女性がこれから入浴すると言うのに、無神経じゃなかろうか。

 実花はあまり長湯をしないので、芹歌は浴室の外で待機し、呼ばれる度に中へ入って介助する。
 離れている間に事故があったらいけないからだが、ほんの10分程度で終了だ。

 待っている間、神永は何を考えているのだろうと思う。

 いつも優しい人だが、何を考えているのか実はさっぱり分からなかった。

 レッスン中は真面目だ。
 熱心だし、よく練習してくるから教え甲斐はある。
 ただ、歌の時、恋の歌ばかりなので少し閉口する。

 歌曲は確かに男女の情愛を歌った歌が多いが、それだけとも限らない。
 単に、そういう歌が好きだからなのかもしれないが、かなり感情を込めて、芹歌に訴えかけるように歌ってくる為、言語を知っている身からすると少々困惑する。

 情感込めて歌うのは当然の事だから、気にする方が馬鹿なのだと自分で思う。

(それにしても、婿養子って……)

 付き合ってもいないのに、突拍子もない発想だ。
 それに、芹歌自身、今まで一度も結婚を考えた事が無い。

 いつかするものだ、との意識すら無かった。
 音楽一筋だったからだ。

 特に若い頃は留学する予定でもあったし、結婚どころの話しじゃない。
 父が亡くなって、母と二人だけの生活になってからも、日々の暮らしに追われて、矢張りそれどころじゃなかった。

 ましてや、あんな母親と二人暮らしなんだから、結婚なんて出来ようはずも無い。
 最近、年老いた親の介護の為に結婚できない子どもが増えているらしい。

 分かる気がした。
 それどころじゃないのだろう。

 これから、どうなるのだろう。
 確かに実花は良い方へと進んでいる。

 お陰で芹歌も外へ出やすくなった。
 とは言え、車椅子生活である事は変わりない。
 家族は芹歌しかいない。これから先も、ずっと母と二人で生きて行くしかない。

 母はまだ55歳だ。この先、30年ほど、ずっと介護に縛られて生きて行くと言う事なのか。
 そう考えたら急に身も心も重たくなった気がした。
 背中に重たい石でも背負わされたような気がする。

 実花の風呂が終わり、身支度を整えてリビングに戻ると、神永はちょうど片付けが終わった所だった。

「あ、早かったですね」

 女は長湯と思っているのか、驚いたように二人を見た。

「そぉ?いつもこんなもんなのよ。だけど、ゆう君。ありがとう。助かったわ。私、今日は疲れたからもう休むけど、ゆっくりしていってね」

(ちょっと~)

 いいのか。若い男女を二人だけにして。
 神永も神永だ。いい加減、そろそろ失礼しますと言えばいいのに、何故言わない。

 芹歌は不審に思いながら、実花を寝室へ連れて行った。

「ねぇ、芹歌」
 布団に入った実花が珍しく声をかけてきた。落ち着いた瞳だ。

「ねぇ。あなた、真田さんとどうなってるの?」

 全くの思いがけない問いかけに、何も言葉が出て来ない。
 声すら出無い。

 母の瞳は少し不安の色が浮かんでいるように見える。
 どうして今頃、こんな事を訊いてくるのだろう。

 真田との関係を問われた事は、未だかつて一度もない。
 二人がコンビを組んでいた頃でさえ、問われた事が無かったのに。

 学内では恋仲じゃないかと噂される程、或る意味、濃密な関係だった。
 だがそれは音楽上の事であって、それ以上の事は何も無い。
 ただ、周囲が疑うのも無理は無かった。

 そういう状況においてでさえ、実花も父も、二人の関係を問うては来なかった。
 全く心配していなかったようだ。
 それなのに、何故……。

「どうしたの?なんで答えないの?」

「あ、だって……。質問の意味がよく分からないんだもの。どうなってるって言われてもね。どういう意味で訊いてるの?」

 芹歌は自分を落ち着かせた。

「そうね……。あの人と音楽以外で付き合ったりしてるの?」

 芹歌は思いきり首を振った。

「まさか。そういう意味のお付き合いはありません」

 きっぱりと答えた。

「そう。でも今は、って事よね」
「はぁ?何言ってるの?」
「芹歌の気持ちはどうなの?」
「気持ちって……」

 答えに窮していたら「好きなのね?」と強い眼差しで言われた。

 何も言えない自分がいた。
 自分の中にモヤモヤしたものがあって、はっきり好きだと言えない代わりに、はっきり否定も出来なかった。

「お母さんはね。反対よ。音楽上、組むのは構わない。素晴らしいバイオリニストですものね。でも、人生のパートナーとしては、最低の人だと思うわ。付き合った所で、いずれ捨てられるに決まってる。散々傷つけられてね」

 少し怒ったような顔の母を見て、悲しくなった。
 まだ好きとも言ってい無い。
 そもそも自分でもよく分からない。

 それなのに、こんな事を言われたくない。ただ傷つくだけだ。
 第一、一体、母に、あの人の何が分かると言うんだと、反抗的な気持ちが湧いてくる。

「女はね。愛される方が幸せよ。愛して大切にしてくれる人。趣味で音楽をやってる分には良いけれど、本業にしてるような人は駄目。気難しくて傲慢で、自分が世間に認められる事しか考えて無いから。芹歌には、お父さんのような優しくて大切にしてくれる人と幸せになって欲しいのよ」

 母の目じりが僅かに濡れている。
 これ以上何か言ったら号泣しかねないと思った。

「お母さん。ありがとう。自分の事は自分でどうにかするから、あまり心配しないで。今日は疲れたんでしょう?もう休んで?おやすみなさい」

「そうね。おやすみ……」
 実花の目は静かに閉じられた。
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