第18話
文字数 3,381文字
翌週の水曜日、午後3時頃に神永がやってきた。手にケーキの箱を持っている。
「お土産でーす。3人で食べましょう。ちょうどお茶の時間ですし。まだしてませんよね?お茶」
「ゆう君、いらっしゃい。お茶、まだよ。嬉しいわ~、ケーキ」
実花は朝から上機嫌だった。いや、正確には前の晩からだ。
明るい笑顔で見送られたヘルパーの須美子は苦笑していた。
こんな風にお盆休みに入るのを見送られた事は、未だかつて一度もない。
「特別な用事があるわけでもないので、お困りの時には連絡下さいね」
そう残して、自宅へと帰っていった。その心遣いには感謝している。
最初の頃は、芹歌の手に負えなくて助けを求めた事が何度かある。
だが、ここ2年ほどは何とかなっていた。
「芹歌、お茶淹れてちょうだい」
「あ、僕、いいお茶を持って来たんで、良かったらこれを……」
カバンの中から小さめの紙袋を出して芹歌の方へつき出した。
「あら、ゆう君。男の子なのに気が利くのね」
「これで結構、お茶とかうるさい方なんですよ」
そう言いながら明るい笑顔で実花の車椅子を押しだした。
芹歌は渡された紙袋の中身を手に取った。
「あ……。ダージリンの……オレンジペコー?」
芹歌の言葉に実花が驚いて振り返った。
そんな二人に、不思議そうな顔を神永は向けた。
「どうしたんです?」
芹歌は実花と顔を見合わせた。複雑な表情が読みとれる。
「あ、あの……。今ちょうどね。これ切らしてたから。私もお母さんも、好きなんだけど高級茶葉だから、……ね……?」
取り敢えず、何か言わなきゃと思って少しシドロモドロな口調で母に同意を求めると、実花が頷いたのでホッとした。
「そうなのよ。オレンジペコーって言ったら最高級のお茶でしょう?まさかその、ゆう君から頂くとは思って無かったわ。ご、ごめんなさいね。馬鹿にしてるとかって訳じゃないのよ?」
神永は何でもないように、にっこりと微笑んだ。
心なしか気品が漂っているように感じるのは目の錯覚か心の錯覚か。
「美味しいお菓子には、最高級のお茶をね。僕はお茶にはうるさい方だって、言ったじゃないですか」
「ああ、そうね。言葉通りね」
実花は取り繕 ったように笑ったが、感心しているようだ。
芹歌の方は内心複雑な思いだった。
何故なら、この最高級の紅茶が誰より好きだったのは亡くなった父、浅葱庸介で、浅葱家では庸介が亡くなって以来、ずっと安い紅茶を飲んでいたからだ。
実花は庸介を思い出す物を嫌がった。食べ物も飲み物も。
だが、貰った紅茶がそれと知った時、実花は驚きはしたが、その瞳に不快な感情は浮かんでいなかった。
ただ動揺していただけだった事に、芹歌の方が驚いたのだった。
芹歌は食器棚からケーキ皿を出してテーブルの上に置くと、ヤカンを火に掛け、お茶の支度を始めた。
「まぁ、美味しそう!綺麗ねぇ……」
実花の声に、芹歌は上からケーキの箱を覗いた。
見るも鮮やかなフルーツに彩られたケーキが目に飛び込んで来た。
まるで宝石のようだ。
(うわっ、ほんとに美味しそう)
こんなケーキ、何年ぶりだろう。
職業柄お菓子関係も色々と頂くが、こんなに綺麗で美味しそうなケーキは早々ない。
「ねぇ、どこで買ったの?この辺に、こんな美味しそうなケーキを売ってるお店って、あったかしら?芹歌は知ってる?」
言われてケーキの箱を見ると、『 ma chérie 』の文字が見てとれた。
「マ、シェリ……。こんなお店、あったかな?」
小首を傾げた。考えてみても思い浮かばない。
「駅の反対側に、最近できたんですよ」
「え?反対側?」
駅の反対側は、意外と用事が無い限り行かないものだ。だから全く気付かなかった。
「なんか評判みたいですよ?ここへ来た帰りに、試しに買って帰ったんですよね。そしたら、凄く美味しかったのでお土産にはピッタリだと思って」
「まぁ、そうなの。男の子なのに、甘党なの?」
「そうなんです。まぁ、美味しい物なら何でもですけど。だから辛いものも大好きですよ」
感心しながら茶葉の入ったポットに、コトコトと音を立てている高温のお湯を注ぐ。
その瞬間、ふわっと良い香りが鼻腔を襲った。
(いい匂い……)
そして、懐かしい匂いでもある。幸せだった時の匂いだ。
「いい香りですね」
神永の言葉に、「ええ」と頷いた。
「僕は貧乏育ちで、いまだに貧乏ですけど、お茶とかお菓子は良いものを頂くようにしてるんです。家は貧しくても、心は貧しくなりたくないなって……」
少ししんみりした声音だが、決して暗くは無く、好感が持てた。
「幸い、子どもの時から音楽好きなので、それが僕の精神土壌になってるのかもしれません。音楽のお陰で、心が荒 む事も無かったって言うか、辛い事とかも乗り越えられたって言うか……」
音楽のお陰……。その言葉が芹歌の胸を打った。
芹歌は大好きな音楽を生業 としている。
目指していた道や望んでいた未来とは違うけれど、好きな音楽で生きていけていると言う事に、もっと感謝すべきなのではないか。
この人は、何故転職したのだろう?
ふと疑問が湧いた。
介護の仕事は大変な割には収入が少なくて、人材不足だと聞いている。
矢張り、大変過ぎて続けられなくなってしまったのか。
だが、これまで見て来た神永の印象からすると、いつも前向きで頑張り屋で、へこたれない精神の持ち主のように感じる。
ほんの2,3年でギブアップするような人物とは思えない。
「そうなの。ゆう君、偉いわね。それに比べると、私なんて駄目ね。趣味も無いし……。あ、そうだ。ゆう君って芹歌が行ってる合唱団の団員さんなのよね?歌が上手なんでしょう?良かったら、聴かせてくれない?」
「ええーっ?」
実花の言葉に、神永は珍しく目を丸くして驚いた。
「そ、そんな……。人様にお聞かせできるような歌じゃないので……」
まるで少年のように顔を染めて、慌てふためいている。
こんな姿を見るのは初めてだ。
「芹歌は聞いた事あるんでしょう?」
実花が少し睨むように訊いてきた。
あなただけ狡 いとでも言いたげだ。
「生憎、私も無いわよ~」軽く返す。
「あら、どうして?」
「どうしてって、合唱だもの。ソロで歌う事は無いから。プロじゃないんだし」
プロのソリストをゲストに呼ぶ事はあるが、団員はソロを歌わない。
「そうですよ。だから歌ってって言われても、歌えません」
神永はきっぱりと言った。
芹歌の言葉に力を得たように、さっきよりは声も態度も落ち着いている。
だがそれに水を差すように、「でも……」と芹歌が言う。
「団員さん達との会話で、学生時代は発表会の時にソロで歌わせてもらったりしてたって、言ってたわよね?私、そばで聞いてたんだけど」
チラっと横目で様子を伺うと、神永はメデューサに石にされた人間のように固まっていた。
「あら、そうなの?それなら、是非聴きたいわ~。舞台の上で歌えって言ってるんじゃないんだし。聴衆が2人だけじゃ、逆に寂しくて物足りないのかもしれないけれど、ね?いいじゃない。芹歌だって、聴きたいわよね?」
「ええ……、まぁ」
その時、神永がギロリと目だけを動かして、芹歌を睨むように見た。
(え?何?)
と思ったのもほんの一瞬の事で、すぐに諦めたような溜息が彼の口から洩れた。
どうやらメデューサの呪いは解けたらしい。
「芹歌さん、紅茶、もういいのでは?」
「あ!」
そうだった。もういい頃だ。
「ゆう君……」
実花がねだるような声を出した。
「わかりました。わかりましたよ。歌います。だけどその前に、ケーキとお茶を頂きましょうよ。歌は、その後で」
どこか投げやりな調子に聞える。だが、実花は大喜びだ。
「……まったく困った親子だ……」
呟くような小声が聞えた。
「できたら、ケーキを食べながら聴きたいわ~。BGMで」
実花が調子に乗ったように浮かれた様子で言うと、神永はすぐさまそれを却下した。
「それは駄目です。僕だって、ケーキを食べたいですし、それに芹歌さんに伴奏してもらわないと歌えません」
実花に対して、いつでも優しい態度と言葉の神永が、この時は少し不機嫌そうな様子を現している。何を言っても許してくれそうな雰囲気だったのに、今は少し違うようだ。
そんなに嫌なのだろうか?
芹歌はカップに紅茶を注ぎながら、そっと神永を見ていた。
「お土産でーす。3人で食べましょう。ちょうどお茶の時間ですし。まだしてませんよね?お茶」
「ゆう君、いらっしゃい。お茶、まだよ。嬉しいわ~、ケーキ」
実花は朝から上機嫌だった。いや、正確には前の晩からだ。
明るい笑顔で見送られたヘルパーの須美子は苦笑していた。
こんな風にお盆休みに入るのを見送られた事は、未だかつて一度もない。
「特別な用事があるわけでもないので、お困りの時には連絡下さいね」
そう残して、自宅へと帰っていった。その心遣いには感謝している。
最初の頃は、芹歌の手に負えなくて助けを求めた事が何度かある。
だが、ここ2年ほどは何とかなっていた。
「芹歌、お茶淹れてちょうだい」
「あ、僕、いいお茶を持って来たんで、良かったらこれを……」
カバンの中から小さめの紙袋を出して芹歌の方へつき出した。
「あら、ゆう君。男の子なのに気が利くのね」
「これで結構、お茶とかうるさい方なんですよ」
そう言いながら明るい笑顔で実花の車椅子を押しだした。
芹歌は渡された紙袋の中身を手に取った。
「あ……。ダージリンの……オレンジペコー?」
芹歌の言葉に実花が驚いて振り返った。
そんな二人に、不思議そうな顔を神永は向けた。
「どうしたんです?」
芹歌は実花と顔を見合わせた。複雑な表情が読みとれる。
「あ、あの……。今ちょうどね。これ切らしてたから。私もお母さんも、好きなんだけど高級茶葉だから、……ね……?」
取り敢えず、何か言わなきゃと思って少しシドロモドロな口調で母に同意を求めると、実花が頷いたのでホッとした。
「そうなのよ。オレンジペコーって言ったら最高級のお茶でしょう?まさかその、ゆう君から頂くとは思って無かったわ。ご、ごめんなさいね。馬鹿にしてるとかって訳じゃないのよ?」
神永は何でもないように、にっこりと微笑んだ。
心なしか気品が漂っているように感じるのは目の錯覚か心の錯覚か。
「美味しいお菓子には、最高級のお茶をね。僕はお茶にはうるさい方だって、言ったじゃないですか」
「ああ、そうね。言葉通りね」
実花は取り
芹歌の方は内心複雑な思いだった。
何故なら、この最高級の紅茶が誰より好きだったのは亡くなった父、浅葱庸介で、浅葱家では庸介が亡くなって以来、ずっと安い紅茶を飲んでいたからだ。
実花は庸介を思い出す物を嫌がった。食べ物も飲み物も。
だが、貰った紅茶がそれと知った時、実花は驚きはしたが、その瞳に不快な感情は浮かんでいなかった。
ただ動揺していただけだった事に、芹歌の方が驚いたのだった。
芹歌は食器棚からケーキ皿を出してテーブルの上に置くと、ヤカンを火に掛け、お茶の支度を始めた。
「まぁ、美味しそう!綺麗ねぇ……」
実花の声に、芹歌は上からケーキの箱を覗いた。
見るも鮮やかなフルーツに彩られたケーキが目に飛び込んで来た。
まるで宝石のようだ。
(うわっ、ほんとに美味しそう)
こんなケーキ、何年ぶりだろう。
職業柄お菓子関係も色々と頂くが、こんなに綺麗で美味しそうなケーキは早々ない。
「ねぇ、どこで買ったの?この辺に、こんな美味しそうなケーキを売ってるお店って、あったかしら?芹歌は知ってる?」
言われてケーキの箱を見ると、『 ma chérie 』の文字が見てとれた。
「マ、シェリ……。こんなお店、あったかな?」
小首を傾げた。考えてみても思い浮かばない。
「駅の反対側に、最近できたんですよ」
「え?反対側?」
駅の反対側は、意外と用事が無い限り行かないものだ。だから全く気付かなかった。
「なんか評判みたいですよ?ここへ来た帰りに、試しに買って帰ったんですよね。そしたら、凄く美味しかったのでお土産にはピッタリだと思って」
「まぁ、そうなの。男の子なのに、甘党なの?」
「そうなんです。まぁ、美味しい物なら何でもですけど。だから辛いものも大好きですよ」
感心しながら茶葉の入ったポットに、コトコトと音を立てている高温のお湯を注ぐ。
その瞬間、ふわっと良い香りが鼻腔を襲った。
(いい匂い……)
そして、懐かしい匂いでもある。幸せだった時の匂いだ。
「いい香りですね」
神永の言葉に、「ええ」と頷いた。
「僕は貧乏育ちで、いまだに貧乏ですけど、お茶とかお菓子は良いものを頂くようにしてるんです。家は貧しくても、心は貧しくなりたくないなって……」
少ししんみりした声音だが、決して暗くは無く、好感が持てた。
「幸い、子どもの時から音楽好きなので、それが僕の精神土壌になってるのかもしれません。音楽のお陰で、心が
音楽のお陰……。その言葉が芹歌の胸を打った。
芹歌は大好きな音楽を
目指していた道や望んでいた未来とは違うけれど、好きな音楽で生きていけていると言う事に、もっと感謝すべきなのではないか。
この人は、何故転職したのだろう?
ふと疑問が湧いた。
介護の仕事は大変な割には収入が少なくて、人材不足だと聞いている。
矢張り、大変過ぎて続けられなくなってしまったのか。
だが、これまで見て来た神永の印象からすると、いつも前向きで頑張り屋で、へこたれない精神の持ち主のように感じる。
ほんの2,3年でギブアップするような人物とは思えない。
「そうなの。ゆう君、偉いわね。それに比べると、私なんて駄目ね。趣味も無いし……。あ、そうだ。ゆう君って芹歌が行ってる合唱団の団員さんなのよね?歌が上手なんでしょう?良かったら、聴かせてくれない?」
「ええーっ?」
実花の言葉に、神永は珍しく目を丸くして驚いた。
「そ、そんな……。人様にお聞かせできるような歌じゃないので……」
まるで少年のように顔を染めて、慌てふためいている。
こんな姿を見るのは初めてだ。
「芹歌は聞いた事あるんでしょう?」
実花が少し睨むように訊いてきた。
あなただけ
「生憎、私も無いわよ~」軽く返す。
「あら、どうして?」
「どうしてって、合唱だもの。ソロで歌う事は無いから。プロじゃないんだし」
プロのソリストをゲストに呼ぶ事はあるが、団員はソロを歌わない。
「そうですよ。だから歌ってって言われても、歌えません」
神永はきっぱりと言った。
芹歌の言葉に力を得たように、さっきよりは声も態度も落ち着いている。
だがそれに水を差すように、「でも……」と芹歌が言う。
「団員さん達との会話で、学生時代は発表会の時にソロで歌わせてもらったりしてたって、言ってたわよね?私、そばで聞いてたんだけど」
チラっと横目で様子を伺うと、神永はメデューサに石にされた人間のように固まっていた。
「あら、そうなの?それなら、是非聴きたいわ~。舞台の上で歌えって言ってるんじゃないんだし。聴衆が2人だけじゃ、逆に寂しくて物足りないのかもしれないけれど、ね?いいじゃない。芹歌だって、聴きたいわよね?」
「ええ……、まぁ」
その時、神永がギロリと目だけを動かして、芹歌を睨むように見た。
(え?何?)
と思ったのもほんの一瞬の事で、すぐに諦めたような溜息が彼の口から洩れた。
どうやらメデューサの呪いは解けたらしい。
「芹歌さん、紅茶、もういいのでは?」
「あ!」
そうだった。もういい頃だ。
「ゆう君……」
実花がねだるような声を出した。
「わかりました。わかりましたよ。歌います。だけどその前に、ケーキとお茶を頂きましょうよ。歌は、その後で」
どこか投げやりな調子に聞える。だが、実花は大喜びだ。
「……まったく困った親子だ……」
呟くような小声が聞えた。
「できたら、ケーキを食べながら聴きたいわ~。BGMで」
実花が調子に乗ったように浮かれた様子で言うと、神永はすぐさまそれを却下した。
「それは駄目です。僕だって、ケーキを食べたいですし、それに芹歌さんに伴奏してもらわないと歌えません」
実花に対して、いつでも優しい態度と言葉の神永が、この時は少し不機嫌そうな様子を現している。何を言っても許してくれそうな雰囲気だったのに、今は少し違うようだ。
そんなに嫌なのだろうか?
芹歌はカップに紅茶を注ぎながら、そっと神永を見ていた。