第73話

文字数 3,916文字

 芹歌の複雑な思いをその表情から感じとったのか、真田は小さく溜息をつくと、仰向けになって天井を見つめた。

「あの……、せ……、幸也さん?」

 先輩と言いそうになって、慌てて言い直した。
 矢張り口に出すと恥かしさが湧いてくる。

「うん……、あぁ、芹歌の心配は解ってる。乗り越え無きゃならない壁が、幾つかあるよな。お母さんの事が1つ」

 母の事は、最大の問題だ。
 国内に居住する事が前提なら、結婚の大きな障害にはならないかもしれない。
 反対されそうな気はするが。
 だが、ヨーロッパに行くとなると難しい。

「他にも色々と考え無ければならない事はあるとは思う。だけど、俺から見たら、みんな些末な事に思える。ただ、お母さんの事とは別に、もう1つ、乗り越え無きゃならない壁がある。と言うか、乗り越えて欲しい壁、と言った方がいいかな」

「え?どういう事ですか?」
 
 なんだか、芹歌が思っている事とは違うように感じた。
 
 真田は厳しい瞳で上を見ている。

「3月に行われる、山際国際ピアノコンクールに出場して、優勝して欲しい」

 あまりの話しに絶句した。

 コンクール?

 なぜ、今頃コンクールに出場しなければならないのか。

 乗り越えて欲しい壁が、それなのか?

 二人の間を暫く沈黙が支配したが、気を取り直して芹歌は訊いた。

「どうしてですか?何よりもう、出場募集は閉め切られているのでは?年明けにすぐに予選会が始まるし」

「実は、恵子先生に確認したんだが、教授の推薦枠でなら出場可能だそうだ。すぐに予選は始まるが、予選くらいなら問題なく突破できるだろう」

 何でも無い事のように、平然としている。

「そんな事を突然言われても……。コンクールなんて、もう自分には無縁の事だと思ってたから、心の準備が全くないのに。いきなり出ろなんて。しかも、優勝って……」

 動揺するばかりだ。

 芹歌は在学中には、何度か国内のコンクールに出場した事はある。
 だが、入賞経験はあるが優勝した事は一度もない。
 まして国際コンクールの経験は皆無だった。

 山際国際ピアノコンクールは、国内で行われる国際コンクールの中では、知名度もレベルも高い。
 だが世界的な見地からすると、中堅どころだ。

 国内のコンクールで一度も優勝した経験が無いのに、中堅どころとは言え、レベルの高い国際コンクールで優勝を目指すなんて無謀だ。
 しかも、登り坂にある学生でもなければ、本選までの時間も短い。

「不利なのは、解ってる。それでも、挑戦して乗り越えて欲しいんだ」

 真田が芹歌の方を向いて真剣な眼差しでそう言った。
 どうして、そんな事を言うのか、芹歌は真田の心を探るように、その目を見つめた。

「どうして?理由を教えて下さい」
「わかった。だがその前に、お前に訊きたい事がある」
「?」
 芹歌は無言で問いかけた。

「自分に纏わる一切合財(いっさいがっさい)のしがらみを無視して、答えて欲しい。ずっと、俺のパートナーとして、一緒に生きていきたいって、思ってくれてるのかな」

「え?」
 芹歌の目が揺れた。

「余計な理屈は考えずに、気持ちだけを教えて欲しい。公私ともに、俺の傍にずっといたいって思ってるのか否かを……」

 余計な事は考えずに……。

 自分の回りの色んな感情や問題の全てを無視して、ただ気持ちだけ……。

 気持ちだけなら、思っている。だが、それを実現する事は無理なんじゃないのか。
 そう思うと、自分の気持ちを押さえようとする自分がいる。

 そうしないと、後々一層辛くなると思うから。
 芹歌は真田の目を正視できなくて、思わず目を伏せた。

「気持ちだけなら……、思ってます。でも……」

 言いかけた唇に、指があてがわれた。
 思わず視線を戻すと、優しい瞳が芹歌を見降ろしていた。
 喜びの色が見て取れる。

「気持ちだけでいい。お前の気持ちを確認したかったんだから。俺ばっかりが愛情を訴えているのに、お前は全然、言葉では返してくれないから、ちゃんと確かめたかったんだ。色んな問題は、これから一緒に考えよう。乗り越え無きゃならない壁は、1つ1つ乗り越えていく。で、コンクールの件だが」

 この人は前向きだ。
 芹歌は色々な事を考えると、到底無理だと思ってしまうのに、この人は無理とは思わずに乗り越えていこうとしている。乗り越えられると信じている。

「前にも言ったが、お前のソロは腑抜けだ。だから今までコンクールで優勝できずにいた。だけどお前は、実際には優勝できるだけの実力がある。お前がその力を発揮できないのは、メンタル面に問題があるんだ」

「それに関しては……、自分でも多少自覚してます。大体、ソロ演奏する事に、自分自身魅力を感じないと言うか、楽しめないから、一層身が入らないって言うか」

「芹歌、いいか、よく聞け」

 真田は芹歌の頬に手を当てた。
 大きな掌が頬を包んで安堵感が湧いてくる。

「お前は、名伴奏者だ。だが、伴奏者の地位は低い。どんなにお前が良い伴奏をしても、評価されるのはお前じゃ無くソリストだ。俺は、お前が正当に評価されないのは嫌なんだ。俺のパートナーは、ただの伴奏者じゃない。ソリストとしても活躍できるほど、凄いんだって世間に認めさせたいんだよ」

 真田がそんな風に思っていたとは、気づかなかった。

「母さんが言ってたよ。今の俺達は立場が違い過ぎるって。俺はそんなのは気にしない。だけど、実力があるのに、俺に釣り合わないと、お前が言われるのが我慢ならない。お前だって、ずっとそう言われ続ける事に腹が立つだろう?あの指揮者に馬鹿にされたのだって、伴奏者に過ぎないからだ。伴奏者だって、これだけソリストとしても凄いんだぞって見返してやりたいと思わないのか?」

 優しく諭すような口調が心に沁みた。いつもなら怒り口調なのに。

 確かに真田の言う通りだと思う。
 山口に散々愚弄され、プライドを傷つけられた。

 ただの伴奏者として蔑まれるのも、ピアニストとしての実績を積み上げて来なかった結果だと言ってもいいだろう。

 これが久美子だったら、あんな風に愚弄されなかったに違いない。
 そんな芹歌の心を読んだように真田が言った。

「久美子、じゃなかった、中村さんより、お前の方が伴奏者としての実力は上だ」

 強い確信が伺える。

「だが、世間的に高く評価されるのは、結局彼女の方なんだ。それが世間なんだよ。俺は、世間がどう言おうが、誰が何と言おうが芹歌と組む。ただ、芹歌には、芹歌なりにピアニストとして一人前になって欲しい」

 一人前に?その為のコンクールだと言う事か。

「俺の相手として、相応しいステージまで登ってきて欲しい。そしたらもう、誰にも文句は言わせない。ヨーロッパで俺と演奏活動をするのだって、今のままじゃお前は肩身の狭い思いをするに決まっている。だから、お前には自信が必要なんだ。その為に、国際コンクールで優勝する。わかるか?」

 芹歌自身は、元々ピアニストとしてソロ活動をしていく気持ちはなかった。
 ピアノが弾ければそれで良かった。

 だが結局、その考え自体が甘かったのだと思う。
 そうやって自分を甘やかし続けて、プライドを傷つけられた事で憤っていた。
 はたから見たら滑稽な事だったろう。

「せ、幸也さんの言う事は、凄くわかる。その通りだって思う。けれど、プロを目指してる多くの学生さん達と、今更競える自信が今の私には無い。毎日弾いてるし、月に一度は恵子先生の元に通ってはいるけれど、明確な目標を持ってずっと頑張って来た人達を差し置いて優勝だなんて…。時間も無いのに」

「大丈夫だ。お前は優勝できる」

「あなたのその自信、どこから来るの?」

「さぁ、どこからだろうな。お前の事に関しては、一緒にやってる俺が一番よくわかってるって思うよ。お前が、俺と一緒に弾いている時と同じように一人で弾けたら、絶対に優勝間違いなしだ。どうして一人だと腑抜けになる?楽しくないだって?だったら楽しめばいいじゃないか。俺と一緒に弾いてると思って楽しめばいい」

 自信たっぷりな笑顔に、芹歌は半ば呆れた。

「お前が国際コンクールで優勝したら、お母さんはどう思うだろうな?そんな娘を、まだそばに置いて縛り付けておこうとするかな。それ程の娘が、外国で更に羽ばたこうとするのを邪魔するだろうか?」

「幸也さん……」

 真田はそこまで考えていたのか。

「お前が外国へ行ったら、お母さんは一人ぼっちだ。だけどお母さんは病人なわけじゃない。いつまでも娘にぶら下っていて、いい訳がない。永遠に逢えなくなる訳でもない。ただお母さんが望むなら、一緒にヨーロッパへ連れて行ってもいいとも思ってる」

「え?だって、そんな……」

 思いがけない言葉に動揺する。芹歌はそんな事すら思い浮かばなかったのに。
 そんな芹歌を真田は優しく抱きしめた。

「俺を愛してくれてるなら、頑張って優勝してくれ。俺が協力する。その他の色んな問題も、一緒に解決しよう。駄目とか無理とか、そんな事は考えるな。それじゃ、道は切り開けないぞ」

 真田の暖かな肌のぬくもりが、芹歌を丸ごと包み込んでくれているようで、親鳥に守られた雛鳥のような気がしてくる。

 大きな寄る辺を亡くしてから5年。
 ずっと彷徨(さまよ)ってきた魂が、新しい寄る辺を見つけて、吸い寄せられていくような気がした。

「わかった。コンクールには出場する。優勝目指して頑張る。だけど……」
「だけど?」
「もし、優勝できなかったら?」

 芹歌は震えた。
 もし優勝できなかった時、どうするんだろう。
 見えない先が不安を呼んだ。

「もし、なんて無い。お前は優勝する。そして俺と結婚してヨーロッパへ行くんだ」

 真田は芹歌の震えを止めるように、抱きしめる手に力を入れた。
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