第52話
文字数 3,386文字
女を抱く気になれない。
仕事のサポートをしてくれている、同期の大田君子に物欲しそうな顔をされたが、却ってそれが鬱陶しく感じる。
そう言えば、もうずっと女を抱いていない。
1カ月以上になる。
いつからだろうと考えて、バイオリンを放置したまま帰ったあの日からだと気付いた。
怒りが沈静化し、慌ててレッスン室へ戻ったら、バイオリンはきちんとケースの中に納められていた。
芹歌がやってくれたに違いない。きっと呆れかえった事だろう。
翌週から、互いに何でも無いような顔をしてレッスンをしたが、全く合わなかった。
それでも弾き続けたのは、互いに意地っ張りだからか。
そもそも何で俺は怒ったんだと思う。
芹歌が誰と付き合おうが、自分には関係ない事じゃないか。
それなのに、芹歌の言葉に、まるで全ての機能が止まってしまったかのように感じたのだった。
あいつには音楽しかない。
だから、男なんか見向きもしないのだと、ずっと思っていた。
あいつは、神と結婚した尼僧のように、音楽と結婚している。
音楽に身も心も捧げつくしている。
だから、男なんて眼中にないんだ。そう思っていたのが間違いだったのか。
真田は、ずっとそう思っていたからこそ、彼女に手を出さないでいた。
彼女に手を出さないのは、音楽のミューズへの尊敬と敬愛の証しでもあったのだ。
だが、一度だけ。
その禁を破りそうになった。
9月のあの日。
久しぶりに二人でやった『美しきロスマリン』が最高で、高揚して恍惚とした彼女の顔を見た時、我慢できずにキスしてしまった。
真田の唇を受けて、芹歌は硬直した。
はっきりと拒みはしなかったが、口をギュッと固く結んだ。
それは、これ以上は受け付けないとの意思表示に違いなかった。
その事で、真田は自分の過ちに気付いたのだった。
あれ以来、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、須山や大田にレッスンが終わる頃に待機していてくれるよう伝えたのだった。
二人のレッスンが終わると、彼女の顔は極力見ない。
また、あの高揚した顔を見たら、何をしでかすか分からないからだ。
以前よりも大人っぽく、神秘的な雰囲気を漂わせている彼女を見て、自分に自信が無くなった。
だが、その高揚もあれからパッタリと無くなった。
自分が悪いのは分かっている。
いい加減、芹歌も呆れている事だろう。
芹歌との高揚がなくなったら、女を抱く気も無くなった。おかしなものだ。
俺は一体、何の為に帰ってきたんだ。
そう思うばかりだ。
東和音大での出来ごと。
あれもよく理解できない。
純哉に『馬鹿ユキ』と言われた。
久美子まで同感だと言う。
真田の言葉が、神永を焚きつけたとも言っていた。
そしてあれから、芹歌のピアノが少し変わった。
乱れていたのは真田だけではなかった。
芹歌のピアノもだ。
それが落ち着いてきた。
原因は、あの男なのか。
あの男とは付き合ってはいなかったと分かったのも束の間、結局、二人を結び付けるような事をしてしまったわけなのか。
そうだとしたら滑稽としか言いようが無い。
まさに馬鹿なんだ……。
そこまで思って我に返る。
芹歌が誰と付き合おうが、どうでも良い事じゃないかと。
そんな事で、何故、一喜一憂しているのかと。
こんな事がいつまでも続いていたら、学内コンサートは大変な事になる。
たかだか学内コンサートくらいで、失敗なんて出来ない。
もっと身を引き締めねば。
先日、真田の担当教授だった大鳥教授に「最近冴えない様子だが、まさかスランプじゃないだろうね?」と言われてドキリとした。
「まさか。そんな訳ありませんよ」と笑って流したが、さすがに担当教授の耳は誤魔化せないのか。
勘が鋭い。
帰国リサイタルの時には気付かれなかったようだが、多分、純哉と芹歌は気付いている筈だ。
自分でもどうしてなのか分からない。
なんだか変だと思い始めたのは、4年ほど前だったろうか。
とにかくヨーロッパは音に溢れている。
毎日が音楽だった。日本とは全く違う。
日本でも巷 に音楽は溢れているが、日本の音楽は一種独特だ。
元々、二拍子四拍子の世界で、三拍子や八分の六拍子などというのは無い。
生まれた場所や育った場所の音楽環境は、その人間の音楽的素養に大きな影響をもたらす。
クラシックは西洋で生まれて育った音楽だ。
その中で生まれて育った欧米人は、水を飲むが如く、クラシック音楽が体の中に沁み込んでいる。
感性がまるっきり違う。
留学へ行き始めた頃は、全てに圧倒され、感動した。
自分の音楽性が更にここで磨かれると意気揚々としていた。
そして、早く芹歌が留学してくることを待っていた。
このクラシックの本場で、彼女の伴奏で弾けると言う事をこの上なく楽しみにしていた。
だが、予定の時期になっても彼女は来なかった。
まるでそれを狙ったように、両親が車の事故に遭い、父親が亡くなった。
そして母親は車椅子生活を余儀なくされ、留学どころではなくなったのだ。
真田は失望した。
その時期、真田自身、周囲の誰もが分かる程に荒れた。
それは仕方のない事だと、自分自身の中で納得しようとした。
こんな事が起ころうとは、芹歌自身だって思ってみなかった事だろうし、何より失望しているのは彼女の方だろう。
片倉に、何故、葬式に来なかったのかと責められたが、精神的にとても行けるような状況ではなかった。
それに、芹歌に逢うのが怖かった。
その現実を目の当たりにするのが怖かったのだ。
その後、母親の足は治れば歩けるようになると聞いた。
それなら落ち着いたら留学してくるだろうと期待した。
彼女の音楽への情熱を思ったら来ない筈が無い。
そう思って待ち続けた。それなのに、いつまで経っても来ない。
それでも真田はバイオリンに打ち込んだ。
彼の超絶技巧はヨーロッパでも受け入れられた。
華麗な奏法、美しい容姿。どこでも人気者だった。名声は上がる一方だった。
だが、そうなればなるほど、自分の中の違和感が膨らむ。
確かに技術は以前よりも更に向上した。
難曲中の難曲と言われる曲も弾きこなせた。
それなのに、どんなに難しい曲が弾けようとも、自分自身は少しも楽しめない。
そうだ。
ちっとも楽しめていないと自覚した時から、おかしくなってきたと思う。
周囲からもチラホラと、技術は素晴らしいが音楽性に疑問があるとの声が聞こえ始めた。
音楽仲間達も影で噂していた。
あいつがウケたのは、その驚くような技術とルックスだけで、そろそろ飽きられ始めているんだと。
そんな事はない、とやっきになればなるほど思わしい結果が得られない。
こんな風に思うように弾けないのは、伴奏者が悪い。
俺の意を察せられないピアニストが悪いんだと、周囲にもあたり散らすようになった。
ドイツで師事している教師にも、技術は問題ないからあとはメンタルの問題だ、それは自身でどうにかするしかないと言われて悶々とした。
そうして、初めて異郷の地で孤独を感じた。
自分の心を、思いのたけを音楽で語れない焦燥。
異邦人だと自覚して、世界の全てがモノクロームになり、自分だけがたった一人で別の世界を生きている。
誰も自分の存在に気付かない。
恐怖を感じた。
そうして耐えられなくなって逃げ帰って来たのだ。
日本――。
音楽性よりも派手な技巧に驚嘆し、称賛を与えてくれる国。
ここなら自分を迎え入れてくれる。
サントリーホールでの喝采がそれを証明していた。
だが、それでも自分自身がそんな自分を一番よく知っている。
卑怯な自分を、冷めた自分が、ジッと見つめている。
その自分が、技巧に頼った無様な演奏を嘲笑っている。
「先輩……。一体、どうしちゃったんですか?」
ずっと態度の悪い真田だったが、さすがに言わずには、いれなくなったのだろう。
レッスンの途中で芹歌のピアノが止まった。
真田は暗い目で芹歌を見る。
その目を受けて、彼女の瞳に怯えの色が浮かんだ。
「すまない……。俺自身にも……よく分からないんだ。ただ、今の状態を正直に言い現すとしたら。……胸が痛くてたまらない」
そう言った途端、本当に胸部に激痛が走った。
「先輩!先輩、どうしたんですか?先輩!」
胸を押さえて膝をついた真田のそばに、芹歌が慌てて駆け寄った。
仕事のサポートをしてくれている、同期の大田君子に物欲しそうな顔をされたが、却ってそれが鬱陶しく感じる。
そう言えば、もうずっと女を抱いていない。
1カ月以上になる。
いつからだろうと考えて、バイオリンを放置したまま帰ったあの日からだと気付いた。
怒りが沈静化し、慌ててレッスン室へ戻ったら、バイオリンはきちんとケースの中に納められていた。
芹歌がやってくれたに違いない。きっと呆れかえった事だろう。
翌週から、互いに何でも無いような顔をしてレッスンをしたが、全く合わなかった。
それでも弾き続けたのは、互いに意地っ張りだからか。
そもそも何で俺は怒ったんだと思う。
芹歌が誰と付き合おうが、自分には関係ない事じゃないか。
それなのに、芹歌の言葉に、まるで全ての機能が止まってしまったかのように感じたのだった。
あいつには音楽しかない。
だから、男なんか見向きもしないのだと、ずっと思っていた。
あいつは、神と結婚した尼僧のように、音楽と結婚している。
音楽に身も心も捧げつくしている。
だから、男なんて眼中にないんだ。そう思っていたのが間違いだったのか。
真田は、ずっとそう思っていたからこそ、彼女に手を出さないでいた。
彼女に手を出さないのは、音楽のミューズへの尊敬と敬愛の証しでもあったのだ。
だが、一度だけ。
その禁を破りそうになった。
9月のあの日。
久しぶりに二人でやった『美しきロスマリン』が最高で、高揚して恍惚とした彼女の顔を見た時、我慢できずにキスしてしまった。
真田の唇を受けて、芹歌は硬直した。
はっきりと拒みはしなかったが、口をギュッと固く結んだ。
それは、これ以上は受け付けないとの意思表示に違いなかった。
その事で、真田は自分の過ちに気付いたのだった。
あれ以来、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、須山や大田にレッスンが終わる頃に待機していてくれるよう伝えたのだった。
二人のレッスンが終わると、彼女の顔は極力見ない。
また、あの高揚した顔を見たら、何をしでかすか分からないからだ。
以前よりも大人っぽく、神秘的な雰囲気を漂わせている彼女を見て、自分に自信が無くなった。
だが、その高揚もあれからパッタリと無くなった。
自分が悪いのは分かっている。
いい加減、芹歌も呆れている事だろう。
芹歌との高揚がなくなったら、女を抱く気も無くなった。おかしなものだ。
俺は一体、何の為に帰ってきたんだ。
そう思うばかりだ。
東和音大での出来ごと。
あれもよく理解できない。
純哉に『馬鹿ユキ』と言われた。
久美子まで同感だと言う。
真田の言葉が、神永を焚きつけたとも言っていた。
そしてあれから、芹歌のピアノが少し変わった。
乱れていたのは真田だけではなかった。
芹歌のピアノもだ。
それが落ち着いてきた。
原因は、あの男なのか。
あの男とは付き合ってはいなかったと分かったのも束の間、結局、二人を結び付けるような事をしてしまったわけなのか。
そうだとしたら滑稽としか言いようが無い。
まさに馬鹿なんだ……。
そこまで思って我に返る。
芹歌が誰と付き合おうが、どうでも良い事じゃないかと。
そんな事で、何故、一喜一憂しているのかと。
こんな事がいつまでも続いていたら、学内コンサートは大変な事になる。
たかだか学内コンサートくらいで、失敗なんて出来ない。
もっと身を引き締めねば。
先日、真田の担当教授だった大鳥教授に「最近冴えない様子だが、まさかスランプじゃないだろうね?」と言われてドキリとした。
「まさか。そんな訳ありませんよ」と笑って流したが、さすがに担当教授の耳は誤魔化せないのか。
勘が鋭い。
帰国リサイタルの時には気付かれなかったようだが、多分、純哉と芹歌は気付いている筈だ。
自分でもどうしてなのか分からない。
なんだか変だと思い始めたのは、4年ほど前だったろうか。
とにかくヨーロッパは音に溢れている。
毎日が音楽だった。日本とは全く違う。
日本でも
元々、二拍子四拍子の世界で、三拍子や八分の六拍子などというのは無い。
生まれた場所や育った場所の音楽環境は、その人間の音楽的素養に大きな影響をもたらす。
クラシックは西洋で生まれて育った音楽だ。
その中で生まれて育った欧米人は、水を飲むが如く、クラシック音楽が体の中に沁み込んでいる。
感性がまるっきり違う。
留学へ行き始めた頃は、全てに圧倒され、感動した。
自分の音楽性が更にここで磨かれると意気揚々としていた。
そして、早く芹歌が留学してくることを待っていた。
このクラシックの本場で、彼女の伴奏で弾けると言う事をこの上なく楽しみにしていた。
だが、予定の時期になっても彼女は来なかった。
まるでそれを狙ったように、両親が車の事故に遭い、父親が亡くなった。
そして母親は車椅子生活を余儀なくされ、留学どころではなくなったのだ。
真田は失望した。
その時期、真田自身、周囲の誰もが分かる程に荒れた。
それは仕方のない事だと、自分自身の中で納得しようとした。
こんな事が起ころうとは、芹歌自身だって思ってみなかった事だろうし、何より失望しているのは彼女の方だろう。
片倉に、何故、葬式に来なかったのかと責められたが、精神的にとても行けるような状況ではなかった。
それに、芹歌に逢うのが怖かった。
その現実を目の当たりにするのが怖かったのだ。
その後、母親の足は治れば歩けるようになると聞いた。
それなら落ち着いたら留学してくるだろうと期待した。
彼女の音楽への情熱を思ったら来ない筈が無い。
そう思って待ち続けた。それなのに、いつまで経っても来ない。
それでも真田はバイオリンに打ち込んだ。
彼の超絶技巧はヨーロッパでも受け入れられた。
華麗な奏法、美しい容姿。どこでも人気者だった。名声は上がる一方だった。
だが、そうなればなるほど、自分の中の違和感が膨らむ。
確かに技術は以前よりも更に向上した。
難曲中の難曲と言われる曲も弾きこなせた。
それなのに、どんなに難しい曲が弾けようとも、自分自身は少しも楽しめない。
そうだ。
ちっとも楽しめていないと自覚した時から、おかしくなってきたと思う。
周囲からもチラホラと、技術は素晴らしいが音楽性に疑問があるとの声が聞こえ始めた。
音楽仲間達も影で噂していた。
あいつがウケたのは、その驚くような技術とルックスだけで、そろそろ飽きられ始めているんだと。
そんな事はない、とやっきになればなるほど思わしい結果が得られない。
こんな風に思うように弾けないのは、伴奏者が悪い。
俺の意を察せられないピアニストが悪いんだと、周囲にもあたり散らすようになった。
ドイツで師事している教師にも、技術は問題ないからあとはメンタルの問題だ、それは自身でどうにかするしかないと言われて悶々とした。
そうして、初めて異郷の地で孤独を感じた。
自分の心を、思いのたけを音楽で語れない焦燥。
異邦人だと自覚して、世界の全てがモノクロームになり、自分だけがたった一人で別の世界を生きている。
誰も自分の存在に気付かない。
恐怖を感じた。
そうして耐えられなくなって逃げ帰って来たのだ。
日本――。
音楽性よりも派手な技巧に驚嘆し、称賛を与えてくれる国。
ここなら自分を迎え入れてくれる。
サントリーホールでの喝采がそれを証明していた。
だが、それでも自分自身がそんな自分を一番よく知っている。
卑怯な自分を、冷めた自分が、ジッと見つめている。
その自分が、技巧に頼った無様な演奏を嘲笑っている。
「先輩……。一体、どうしちゃったんですか?」
ずっと態度の悪い真田だったが、さすがに言わずには、いれなくなったのだろう。
レッスンの途中で芹歌のピアノが止まった。
真田は暗い目で芹歌を見る。
その目を受けて、彼女の瞳に怯えの色が浮かんだ。
「すまない……。俺自身にも……よく分からないんだ。ただ、今の状態を正直に言い現すとしたら。……胸が痛くてたまらない」
そう言った途端、本当に胸部に激痛が走った。
「先輩!先輩、どうしたんですか?先輩!」
胸を押さえて膝をついた真田のそばに、芹歌が慌てて駆け寄った。