第30話
文字数 3,063文字
真田の方は、或る意味、後が無いような状況だった。
コンクールを目指していると言うのに、伴奏の成り手がいないのだから。
彼の煩さは学内外でも有名だった。
傲慢な性格が仇になって、彼の成功を祈らない者も少なくない。
誰が協力してやるか、と思われていた。
そんな事もあって、新参者であっても芹歌に降りられたら困る筈だった。
それにも関わらず容赦がない。
目指すコンクールの為に、パートナーに頑張って貰わなければならないとは言え、諧謔 趣味でもあるのかと思わせるほどの情け容赦の無さに、芹歌はよくついていったと思う。
ある日、二人の練習が終わった時、帰り際に真田に食事に誘われた。
遅い時間だったから芹歌も一緒なのだろうと思ったら、久美子だけだった。
「芹歌は?」と訪ねたら、「練習後は顔も見たくないんだ」と言われて驚いた。
有名なホテルのレストランに連れて行かれ、食後に「部屋を取ってあるから」と言われ、当然のように抱かれた。
あまりの自然な成り行きに、久美子は何の違和感もなく受け入れてしまっていた。
「このまま泊まっていっていいから」
そう言い残して、真田は深夜に一人で帰っていった。
真田に抱かれた事に喜びを感じていたが、一方で良く分からない複雑な感情も芽生えていた。
何となく、芹歌に悪い気がしたのだ。
この頃はもう、二人の息は大分合うようになっていたので、何かしらの心の繋がりが生まれているのではないか、と思っていたからだ。
その後、真田とは何度も寝たが、彼は寝たからと言って、その相手を特別扱いする事は無かった。要するに特定の“彼女”と言う存在を作らない。
真田にとって、女は慰み者に過ぎなかった。
それを良しとして割り切る相手とは何度も寝るが、そうでない相手は容赦なく切り捨てる。
束縛を嫌う所は純哉と同じだし、自分とも同じだから久美子は気にしなかったが、心の奥底で特別な存在になりたい願望があったと思う。
だからこそ、今回の件は気になるのだ。
幾ら元パートナーとは言え、もう8年近く、二人は組んでいない。
学生の時は、真田と組みたがる相手はいなかったが、今の彼なら引っ張りダコだろうし、幾らでも選べるだろうに、何故、芹歌なのか。
彼女が自分のように社会的に認められたピアニストであるならば、まだ理解できるが、そうではない。
伴奏の仕事をしてはいるが、本数的には少ない方だ。本職はピアノ教師だろう。
今現在、天才フルーティストである純哉の伴奏をしている自分に、全く声が掛らなかった事が、些 か気に入らないとも言えた。
在学中から、女としての自分に興味を持ってはくれていても、ピアニストとしても伴奏者としても、全く眼中に無いようだったから、今回も名前が浮かびもしなかったのかもしれないが、帰国早々のリサイタルの後、久しぶりに肌を重ね合わせたと言うのにと、少々恨み節にもなってしまう。
純哉はソファに腰かけると、テーブルの上に置いてあるキャンディを口の中に放り込んだ。
その口許がいやらしいと思う。
久美子はその隣に座った。
「ねぇ、純哉君。どうして、今更、芹歌なの?彼女、凄くブランクがあるじゃない」
「そうだねー。だけど、この間のトリオ、凄い良かったじゃない。彼女の実力は、何度か組んでるから知ってるけど、いくら簡単な曲とは言え、全くのぶっつけ本番であれだけやれるんだから、やっぱり凄いよね~」
キャンディをペチャペチャしながら、天使のような笑顔を浮かべている。
「それは、あたしもそう思うけど、そもそも、どうして来たの?芹歌も全くの不意打ちって顔してたわよね。あたしも凄い驚いた。純哉君、何にも教えてくれてなかったし」
「あー、そうだったっけ?」
明らかにとぼけている。
「だけど久美ちゃん、芹歌ちゃんからクリスマスの話し、全然聞いて無かったんだね」
「聞いてると思ったの?」
「うん。だから話したんだけど……」
なんだ、それじゃぁ、話さなきゃ良かったと思っているのか?
「そんなに、しょっちゅう連絡を取り合ってるわけじゃないし、何でもかんでも話すわけじゃないわよ。純哉君と真田さんだって、そうでしょう?」
「ああ、確かに」
ニヤリと笑った。なんだか、小憎らしい笑顔だ。
「もしかして久美ちゃんさぁ。芹歌ちゃんに妬いてるの?」
ニヤニヤしながら、覗きこんで来た。色濃い瞳が妖しげに光っている。
「そんなわけないじゃない」
「でもさぁ。久美ちゃんって、幸也が好きでしょ」
「そ、そんなの、当たり前じゃない。彼を好きな人、私だけじゃないでしょ」
「ふぅ~ん、そう来たか。まぁ、周知の事ではあるよね」
「それで、どうして発表会に?」
「あれ、まだその話題?」
「いけない?気になるんだもの」
「う~ん、そうだなぁ。あれはさ。僕が誘ったの」
「え?純哉君が?どうして?」
「だってさ。幸也が彼女の事を気にしてるみたいだったから」
「気にしてる?芹歌の事を?」
いきなりモヤモヤとしたものに襲われた気がした。
「だって、そんなの、おかしくない?ずっと音信不通みたいだったし。芹歌の話しや様子からしたら、もう全然関係ないって感じだったし」
「そうみたいだね。その辺はさ。僕にもよく分からない。2人が連絡を全く取り合って無かったって事は事実だけど」
「じゃぁ、なんで今更?」
「なんでなんだろうね。はたから見たら、ホントになんで今更?って思うよね。だけど、気にしている事は確かなんだ。この間のリサイタルの時、楽屋に芹歌ちゃんが来るのを待ってたしね。それなのに来なくて、ガッカリしてた」
「え?何それ……」
思いも寄らない純哉の言葉に、久美子はひどく驚いた。
待っていたって、どういう事?
そんなに、彼女の事を気にしてるって……。
「あの日、久しぶりの再会を祝したのかどうかは別として、アイツと寝たんだよね。荒れて無かった?」
久美子はジロリと純哉を見た。
「久しぶりだったから……。『やっぱり女は日本人の方がいい』なんて言ってたけど」
「あはは。それは僕も聞いた事がある。ヨーロッパはさ。空気が乾燥しているせいか、女の肌も乾燥してて、20代後半でもうカサカサで肌さわりが悪いってね。そういう点、湿度の高い日本の女は、肌がきめ細やかで潤いがあって肌触りは最高だって」
なるほど。外国でも女は抱き放題だったと言うわけだ。
あの腕とルックスだったら、確かに不自由はしないだろう。
あの晩はどうだったのだろうと、改めて思い出してみる。
純哉が言うほど荒れてはいなかったとは思う。
ただ、不機嫌そうではあった。
真田の不機嫌は今に始まった事じゃない。
些細な過失で機嫌が悪くなるので、周囲からは原因が分からない。
「うーん、やっぱり、分からないかな。荒れてるって感じでは無かった。相変わらずの仏頂面で不機嫌な態度……。いつもそうじゃない?」
「へぇ、あいつ、女を抱く時でも仏頂面なんだ。そんなんで、つまらなくないの?」
面白そうな顔で突っ込まれて、返事に窮 す。
「ねぇ……。じゃぁさぁ。仏頂面の幸也と、いっぱい奉仕しちゃう僕とさ。久美ちゃんはどっちが好き?」
肩に腕が伸びて来て、裸の胸に抱き寄せられた。
ぷっくりした唇が久美子の頬に軽く触れた。
それだけで、そそられる。
「やだわ……。純哉君に、……決まってるじゃない」
撫でるように唇が頬を這い、首筋へと移動する。
躰が敏感になってゆく。
唇から洩れる吐息が甘くて、うっとりした。
「今この瞬間は、幸也のこと、忘れて……」
そう囁く声に、久美子は黙って頷いた。
コンクールを目指していると言うのに、伴奏の成り手がいないのだから。
彼の煩さは学内外でも有名だった。
傲慢な性格が仇になって、彼の成功を祈らない者も少なくない。
誰が協力してやるか、と思われていた。
そんな事もあって、新参者であっても芹歌に降りられたら困る筈だった。
それにも関わらず容赦がない。
目指すコンクールの為に、パートナーに頑張って貰わなければならないとは言え、
ある日、二人の練習が終わった時、帰り際に真田に食事に誘われた。
遅い時間だったから芹歌も一緒なのだろうと思ったら、久美子だけだった。
「芹歌は?」と訪ねたら、「練習後は顔も見たくないんだ」と言われて驚いた。
有名なホテルのレストランに連れて行かれ、食後に「部屋を取ってあるから」と言われ、当然のように抱かれた。
あまりの自然な成り行きに、久美子は何の違和感もなく受け入れてしまっていた。
「このまま泊まっていっていいから」
そう言い残して、真田は深夜に一人で帰っていった。
真田に抱かれた事に喜びを感じていたが、一方で良く分からない複雑な感情も芽生えていた。
何となく、芹歌に悪い気がしたのだ。
この頃はもう、二人の息は大分合うようになっていたので、何かしらの心の繋がりが生まれているのではないか、と思っていたからだ。
その後、真田とは何度も寝たが、彼は寝たからと言って、その相手を特別扱いする事は無かった。要するに特定の“彼女”と言う存在を作らない。
真田にとって、女は慰み者に過ぎなかった。
それを良しとして割り切る相手とは何度も寝るが、そうでない相手は容赦なく切り捨てる。
束縛を嫌う所は純哉と同じだし、自分とも同じだから久美子は気にしなかったが、心の奥底で特別な存在になりたい願望があったと思う。
だからこそ、今回の件は気になるのだ。
幾ら元パートナーとは言え、もう8年近く、二人は組んでいない。
学生の時は、真田と組みたがる相手はいなかったが、今の彼なら引っ張りダコだろうし、幾らでも選べるだろうに、何故、芹歌なのか。
彼女が自分のように社会的に認められたピアニストであるならば、まだ理解できるが、そうではない。
伴奏の仕事をしてはいるが、本数的には少ない方だ。本職はピアノ教師だろう。
今現在、天才フルーティストである純哉の伴奏をしている自分に、全く声が掛らなかった事が、
在学中から、女としての自分に興味を持ってはくれていても、ピアニストとしても伴奏者としても、全く眼中に無いようだったから、今回も名前が浮かびもしなかったのかもしれないが、帰国早々のリサイタルの後、久しぶりに肌を重ね合わせたと言うのにと、少々恨み節にもなってしまう。
純哉はソファに腰かけると、テーブルの上に置いてあるキャンディを口の中に放り込んだ。
その口許がいやらしいと思う。
久美子はその隣に座った。
「ねぇ、純哉君。どうして、今更、芹歌なの?彼女、凄くブランクがあるじゃない」
「そうだねー。だけど、この間のトリオ、凄い良かったじゃない。彼女の実力は、何度か組んでるから知ってるけど、いくら簡単な曲とは言え、全くのぶっつけ本番であれだけやれるんだから、やっぱり凄いよね~」
キャンディをペチャペチャしながら、天使のような笑顔を浮かべている。
「それは、あたしもそう思うけど、そもそも、どうして来たの?芹歌も全くの不意打ちって顔してたわよね。あたしも凄い驚いた。純哉君、何にも教えてくれてなかったし」
「あー、そうだったっけ?」
明らかにとぼけている。
「だけど久美ちゃん、芹歌ちゃんからクリスマスの話し、全然聞いて無かったんだね」
「聞いてると思ったの?」
「うん。だから話したんだけど……」
なんだ、それじゃぁ、話さなきゃ良かったと思っているのか?
「そんなに、しょっちゅう連絡を取り合ってるわけじゃないし、何でもかんでも話すわけじゃないわよ。純哉君と真田さんだって、そうでしょう?」
「ああ、確かに」
ニヤリと笑った。なんだか、小憎らしい笑顔だ。
「もしかして久美ちゃんさぁ。芹歌ちゃんに妬いてるの?」
ニヤニヤしながら、覗きこんで来た。色濃い瞳が妖しげに光っている。
「そんなわけないじゃない」
「でもさぁ。久美ちゃんって、幸也が好きでしょ」
「そ、そんなの、当たり前じゃない。彼を好きな人、私だけじゃないでしょ」
「ふぅ~ん、そう来たか。まぁ、周知の事ではあるよね」
「それで、どうして発表会に?」
「あれ、まだその話題?」
「いけない?気になるんだもの」
「う~ん、そうだなぁ。あれはさ。僕が誘ったの」
「え?純哉君が?どうして?」
「だってさ。幸也が彼女の事を気にしてるみたいだったから」
「気にしてる?芹歌の事を?」
いきなりモヤモヤとしたものに襲われた気がした。
「だって、そんなの、おかしくない?ずっと音信不通みたいだったし。芹歌の話しや様子からしたら、もう全然関係ないって感じだったし」
「そうみたいだね。その辺はさ。僕にもよく分からない。2人が連絡を全く取り合って無かったって事は事実だけど」
「じゃぁ、なんで今更?」
「なんでなんだろうね。はたから見たら、ホントになんで今更?って思うよね。だけど、気にしている事は確かなんだ。この間のリサイタルの時、楽屋に芹歌ちゃんが来るのを待ってたしね。それなのに来なくて、ガッカリしてた」
「え?何それ……」
思いも寄らない純哉の言葉に、久美子はひどく驚いた。
待っていたって、どういう事?
そんなに、彼女の事を気にしてるって……。
「あの日、久しぶりの再会を祝したのかどうかは別として、アイツと寝たんだよね。荒れて無かった?」
久美子はジロリと純哉を見た。
「久しぶりだったから……。『やっぱり女は日本人の方がいい』なんて言ってたけど」
「あはは。それは僕も聞いた事がある。ヨーロッパはさ。空気が乾燥しているせいか、女の肌も乾燥してて、20代後半でもうカサカサで肌さわりが悪いってね。そういう点、湿度の高い日本の女は、肌がきめ細やかで潤いがあって肌触りは最高だって」
なるほど。外国でも女は抱き放題だったと言うわけだ。
あの腕とルックスだったら、確かに不自由はしないだろう。
あの晩はどうだったのだろうと、改めて思い出してみる。
純哉が言うほど荒れてはいなかったとは思う。
ただ、不機嫌そうではあった。
真田の不機嫌は今に始まった事じゃない。
些細な過失で機嫌が悪くなるので、周囲からは原因が分からない。
「うーん、やっぱり、分からないかな。荒れてるって感じでは無かった。相変わらずの仏頂面で不機嫌な態度……。いつもそうじゃない?」
「へぇ、あいつ、女を抱く時でも仏頂面なんだ。そんなんで、つまらなくないの?」
面白そうな顔で突っ込まれて、返事に
「ねぇ……。じゃぁさぁ。仏頂面の幸也と、いっぱい奉仕しちゃう僕とさ。久美ちゃんはどっちが好き?」
肩に腕が伸びて来て、裸の胸に抱き寄せられた。
ぷっくりした唇が久美子の頬に軽く触れた。
それだけで、そそられる。
「やだわ……。純哉君に、……決まってるじゃない」
撫でるように唇が頬を這い、首筋へと移動する。
躰が敏感になってゆく。
唇から洩れる吐息が甘くて、うっとりした。
「今この瞬間は、幸也のこと、忘れて……」
そう囁く声に、久美子は黙って頷いた。