第26話

文字数 4,045文字

「素晴らしかったですよね。最後のアンサンブル」
 駅前にあるファミレスで、大人組の一人、春田が興奮した面持ちで他の3人の顔を見た。

「春田さん、良かったんですか?奥様やお嬢さんとお帰りにならなくて」

「大丈夫です。なんせ年に1度の事ですし、今日は特別ですよ。この興奮を他の方達と分け合いたいじゃないですか」

「そうですよ。本当なら、芹歌先生達も一緒が良かったなって思いますけど」

 朱美が口を少し尖らせた。

 3人のアンサンブルは確かに素晴らしかった。久美子にしたら、芹歌が妬ましいほど羨ましかった。あの2人とアンサンブルができるなんて。しかも舞台の上で。

 今日の発表会は芹歌の教室のものだから仕方が無い。だが、あの二人がやってくるなんて事は、全く聞かされていなかった。
 純哉とは5日ほど前に逢ったばかりだというのに。

 3人の演奏の後、参加者全員でピアノの前で記念撮影をした。
 その中に真田と純哉も納まった。今年の参加者にとって、最高の記念だろう。
 あの真田と一緒に写っているのだから。

 撮影終了と共に、発表会はお開きになった。
 いつものように、生徒と保護者達が芹歌と挨拶を交わして去って行った。
 いつもなら久美子と渡良瀬も一緒に見送って、最後に一緒に帰るのだが、何処かへ寄る事はない。

 普通ならこういう場合、ちょっとお茶をしたり食事をしたりして別れるものだが、母親が家で待っている芹歌は寄り道ができなかった。

 だが今年は違う。その母親も一緒に会場だ。
 そして、芹歌親子を真田、片倉、渡良瀬が囲んでいた。

 いつもは図々しい久美子だったが、なぜか自らその中へ入って行くことができずにいた。
 何となく遠目で見ていたら、春田達に声を掛けられたのだ。

「このまま帰るの、惜しい気がするんで、良かったら久美子さんも一緒にお茶か食事でもどうですか」

 春田だけだったなら、きっぱりと断っただろう。
 だが、神永が一緒にいた。
 そして朱美も。

「朱美ちゃんは大丈夫なの?お母さんの許しを貰ってる?」

「やだ久美子さんったら。この年でいちいち親の許可なんて得ませんよ。一応、報告はしますけど、あくまでも報告ですから。許可じゃなくて」

「まぁいいわね、親御さんに理解があって」
「久美子さんのところは違うんですか?」
「うちは違ったわね」

 あまりにも厳格過ぎて、その反動が入学後にどっと出たと自分では思っている。
 国芸時代からの友人達には、きっと信じられない事だろう。
 ただ、久美子自身も国芸に入学する事が全てであり、何を差し置いても不満は無かった。

「あの……」
「ん?どうかした?」

 ためらいがちに声をかけてきた神永に、彼が話しやすいように微笑みかけた。

「あの人達……、真田さんと片倉さんでしたっけ。どうして今日、来られたんでしょう」

「神永さん、聞いてなかったんですか?恵子先生の説明を」

 朱美が驚いたように勢いよく言った。

「いや、それは聞いたけど、でも何かピンとこないと言うか……。あの人達、大物ですよね?一応、僕も知っています。今日のような場に出るような人達じゃない。幾ら、芹歌先生と知り合いだからって……」

「そんなに気になるの?」

 久美子は不思議に思う。神永の指摘は当然とは言える。
 だが、いくら不思議に思っても、そんなに理由を突き詰めるほどの事とも思えない。
 不思議だけど、ラッキーだった。普通はそれで終わりだと思う。

「あ、そんなにと言うほどでは……。何となく、です」

 神永は目を伏せた。
 白い顔に翳りが生まれて、ナイーブな少年のような顔になった。

「神永君が気になるの、分かるよ。僕は真田さんの事はテレビでしか知らないが、凄い人だ。片倉さんの事は今日始めて知ったけど、彼も凄い。その凄い2人が、芹歌先生の発表会に来たんだから、芹歌先生もそれだけ凄いって事だよ」

 春田はコップの水を一気に飲んだ。まだ興奮が覚めないようだ。

「芹歌先生の『幻想即興曲』、凄い良かった。僕の『悲愴』もレッスン中に弾いて貰ったんだけどね。その時も感動した。去年の『華麗なる大円舞曲』も素晴らしかったし。普段のレッスン中も、この先生は凄いなって思う事の連続だよ。習いに来て良かったよ」

 60年配とは思えないほど、血色が良くて若々しい。
 頭髪も薄くなく、むしろ豊かで、まさにロマンスグレーと言った感じで、まだまだ男くさい。
 久美子は少し興味が湧いた。

「春田さん、芹歌の信者みたいですよ」

 わざと揶揄(やゆ)すると、顔を赤らめた。

「え?やだなぁ、久美子さん。久美子さんのCD、芹歌先生から借りて聴きましたよ。久美子さんも素晴らしいです」

 改まった顔をして褒めて来る姿が、妙に初々しい感じがして思わず笑みが浮かぶ。

「私も久美子さんのCD、聴きましたよ。凄く良かったです。芹歌先生も春田さんが言うように凄い人だって思いますよ。私も先生の所に来て良かったって改めて思ってます。でもやっぱり、あの真田さんがわざわざ足を運んできたのって、どーして?って思うかな。ずっと日本にいなかったのに。もしかして、その間も芹歌先生と交流があったのかな?」

「そうそう、それだ。僕も、まさかひょっとして?って、ちょっと思ったんだよね。実際のところ、どうなんですか?久美子さんならご存知じゃ?」

 朱美と春田が、興味津々と言った顔をして久美子を見つめた。
 神永の方は、俯き加減でコーヒーを飲んでいる。
 無表情を装っているように感じられた。

「そんな事を聞かれても、ご期待に添えないわよ。だって私、本当に知らないんだから」

「ええー?久美子さん、先生の親友でしょう?知らないなんてないと思うー。やっぱ、言えないって事なんですかぁ?」

 不満げな顔をされても、何より久美子自身が不満だ。
 この連中が思っている疑問は、久美子の疑問でもあるからだ。

「本当にね。知らないのよ。聞いて無いから、そんな事は。ただ、私が知っている限りでは、2人の交流は無かったと思うんだけどね。だって、この間の真田さんの帰国リサイタルの時だって、楽屋へ行くのを断って帰ったのよ?芹歌は」

「この間のリサイタル、行ったんですか?」

 神永が驚いたような顔をしている。

「ええ。私と、もう一人の友人と3人でね」
「でも、お母さんは?」

「その時は、ヘルパーさんにお願いしたの。彼女だって伴奏の仕事とかで、夜にいない時もあるからね。珍しい事じゃないのよ。ただ、終わるとサッサと帰るの」

「ああ、そうなんですか」

 納得したように頷いているが、あまり元気があるようには見えない。
 発表会が始まる前までは、颯爽(さっそう)とした印象だったのに。

「いつも、芹歌先生は楽屋へは行かないんですか?他の場所で逢ってるとか、もしかしてホテルで待ち合わせしてるとか」

「こら。下卑た事を言わないの。女子高生が。お母さんが待ってるのよ?そんな事できるわけないじゃない。それに、真田さんのリサイタル、この前は行ったけど、それまではずっと、行ってなかったみたいだし」

「え?それはどういう事ですか?」

「家庭の事情でしょうね。その辺の事は、私も芹歌から詳しく聞いて無いの。お父さんが亡くなってから、お母さんの事で苦労してるからね。さすがの私も、突っ込んで聞けない」

「確かにそれはそうですね」
 春田が深く頷いた。

「真田さんの国芸時代に、先生が伴奏してたって恵子先生がおっしゃってたけど、それって?」

「その通りよ。楽器のソロ演奏の時って、伴奏が必要な場合が多いのよ。恵子先生は勉強になるからって、よく伴奏役を自分の担当生徒にやらせるの。それで、その中でも芹歌はひと際、伴奏の方で力を発揮したって言うか、本人が言うには好きなんですって。自分の肌に合っているって言ってる」

「だから、今も伴奏の仕事をされてるんですね」

「そうなのよ。お母さんの事もあるわけだから、何も伴奏の仕事を引き受けなくたって、ピアノ教室だけで十分なのに、大変な思いをしながらも伴奏を続けてるのは、好きだから。お父さんが亡くなって、留学できなくなって、それなら伴奏の仕事って事で希望通りの就職ができそうだったのに、それもチャラになっちゃって」

 久美子はあの時の事を思い出すと胸が痛い。

「それって、やっぱり原因はお母さん?」
「ええ……」

「僕には本当に、理解できないな。なぜ我が子の幸せを妨害するのだろう?同じ親として分からない。うちも一人娘だけど、何より娘の幸せを願うのが親じゃないのかな」

「前から思ってたけど、芹歌先生、本当に可哀想。私、国芸に入る為に必死で頑張ってる。先生達だって同じだったんだよね?折角入れて、留学までしようとしてたのに。自分だったらって思うと、やりきれない。凄く怒りが湧いてきちゃう」

「みなさんの言う事もわかりますが……」

 それまで黙って聞いていた神永が、言葉を挟んだ。
 眉間に皺が僅かに寄っていてる。

「お母さんは、ご主人を亡くされて全てが見えなくなってしまったんですよ。普通の親なら、子どもの事が一番だと思うのが当たり前ですが、その普通の状態じゃなくなってしまったんです。自分しか見えない状態になってしまった。自分を取り戻しさえしていれば、何より芹歌先生の幸せを望む筈です」

「そうなのかなぁ。君の言う事も分からないではないが、それでも僕はなぁ……」

「絶望の淵に落とされたままなんですよ。そこには自分ひとりしかいないんだ。だから、自分の事しか考えられなくなるんです」

 神永の力が入った言いぶりに、皆は思わず顔を見合わせた。
 その空気を悟ったのか、「すみません」と頭を下げた。

「生意気な事を言ってしまって……。芹歌先生が大変な苦労をされてる事は僕も知ってますが、ただ、お母さんだって可哀想な人なんだと言う事を言いたかっただけです」

「いや、そうだな。君の言う通りだ。お母さんを責めてばかりいてもしょうがないよな」

 ちょうど頼んだ料理が運ばれてきたので、その話しはひとまずそこで終わった。
 神永の顔は、憂いを帯びていた。
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