第67話

文字数 3,144文字

 28日の日曜日に、神永はやってきた。
 この日から冬休みだ。いつもと様子は変わらないように見える。

「大掃除、まだ残ってますか?」

 少しは手伝いたいから、残しておいて欲しいと言っていたので、窓拭きをしないでおいた。
 窓は背の高い男性にやってもらうと助かるからだ。

 嬉々として窓拭きに取り掛かっている。
 実花はその姿を嬉しそうに見つめていた。

「やっぱり、いいわね。男性が家にいるって。何かと頼もしいと言うか」

 それは確かにそう思う。それに神永は、何でも嫌がらずにテキバキとこなすから、見ていて気持ちがいい。

「芹歌さん、傷の方はどうですか?もう、大分いい?」

 掃除が終わり、ホッと一息している。

「ええ。まぁね。完全無欠とまではいかないけど。触ったりすると少し痛いくらい」

「じゃぁ、ピアノ、どうですか?まだ駄目?」

「うーん、そろそろ弾けそうかな。激しいのは無理だけど」

 芹歌は笑った。そろそろ弾いてみようと思っていたところだった。

「じゃぁ、ちょっと弾いてくれませんか?僕、聴きたいです」
「え?」

 何となく躊躇(ためら)われた。
 どうしてだろう。
 躊躇う原因は怪我ではない。気持ちだ。

「どうしたんですか?」
「あ……、うん」
「芹歌、弾いてあげたら?そろそろいいんじゃないの?指がなまるわよ?」

 実花が横から口を挟んで来た。

「じゃぁ、お母さんも聴く?」
 実花は首を振った。

「私、ちょっと見たいテレビがあるのよ。時代劇の……。あなた達には退屈でしょうから、ちょうどいいじゃない。ついでにゆう君、少しうちでピアノの練習もするといいわ」

 そう言って、テレビを点けた。

「ほら、芹歌さん」

 明るい顔で催促されて、仕方なく付き合う事にする。
 二人はレッスン室に入った。

「あ、ここの大掃除も終わってるのかな?」
「ええ。須美子さんがやってくれたの。私も手伝ったけど……。じゃぁ、何を弾く?」

 振り向いたら抱きしめられた。

「神永君……」
 芹歌は慌てた。

「芹歌さん……」

 唇が近づき、重なった。
 舌が入って来て、芹歌は神永の胸を押した。

「芹歌さん……、どうしたんですか」
「そ、それは、私のセリフよ。一体、どうしたの?」

 神永は挑むような目で芹歌を見た。

「いけませんか?」
「あ、当たり前じゃない。ここは、レッスン室よ?向こうにはお母さんもいるんだし」
「それじゃぁ、場所を変えますか?ホテルにでも行く?」

 芹歌は目を剥く。

「何言ってるのよ」

 神永は、まるで何かを探るような目をして芹歌を見ている。
 猜疑心が垣間見える。
 矢張り、真田との事が原因か。

「芹歌さんの方こそ、おかしくないですか?いくらレッスン室だからって、そこまで嫌がる事、無いじゃないですか。恋人同士らしくない」

(恋人同士?)

 言われてみて、自分達はそういう関係なのかと改めて認識した思いだった。
 そして、今更それに気付くなんてと、自分が滑稽に思えてくる。

「あの人が原因ですか?」
 刺すような目だ。

「あの人?」
「真田さんですよ。僕、気付いてましたよ。コンサートよりもずっと前に。僕がここへ出入りしている事を、あの人が怒った時に。ああ、この人は芹歌さんが好きなんだって」

「え?」
 どうして真田が怒った事を知っているのだろう。

「片倉さんのフルートを聴きに、東和音大まで久美子さんと行った時、そこに現れた真田さんから怒られたんですよ。でもその時に、芹歌さんがあの人に、僕と付き合ってるような事を言ったって知って、嬉しかった。だから僕はその足で、ここへ来た。そして、公民館へ行ったんです」

 ああ、あの日の事か。
 他人行儀になっていた神永が突然現れて、傷ついている私を慰めてくれたんだ。

 一緒に海へ行って、告白された日。
 海が、空が、富士山が綺麗だった。
 そして、神永も……。

「ごめんなさい」
 芹歌は思わず謝った。

「どうして、謝るんです?」

 芹歌は首を振る。
 自分で自分が解らなくなってきた。

「とりあえず、今日はもう、ここを出ましょう?」
「嫌だ。一緒にいたい。3人で過ごすのも、お母さんと2人で過ごすのも好きです。だけど何より、芹歌さんと2人で過ごす時間も欲しいんです」

 神永は再び抱きしめて来た。

「芹歌さん、ずっとこうしていたい。ずっと……」

 芹歌は諦めて神永の胸に顔を寄せた。
 清潔な石鹸の匂いがする。
 男の一人暮らしなのに、本当にマメなんだなと思う。
 そして、思い出した。先日の昼間の事を。

「神永君……。この間、一人で散歩に出た時にね。あなたのお兄さんに会ったんだけど」

 神永の体がビクッとした。ゆっくり体が離れる。
 見上げたら、恐れるような顔をしている。

「どうしたの?」
「あ……、あの……」

 声が(かす)れている。

「それって、誰の事ですか?」
「誰って、私の方こそ知りたいわ。あなたにお兄さんがいたなんて……」

 神永の反応を(いぶか)しく思う。

「あ、すみません。その、詳しく聞かせて貰えませんか。何処で、どんな男と会ったのか」

 益々おかしい。矢張り、兄はいないのか。
 あれは、単なる他人の空似で、(かた)りだったとでも言うのだろうか。

「神永健って名乗ってた。年は私と同じくらいかしら。顔は、あなたとよく似てたわよ?小田原に住んでたけど、会社が倒産したから、こっちで仕事に就く為に出て来たって。おまけに、私のフルネームも、母の事も知っていて、弟がお世話になってますって言ったわ」

 神永は芹歌の話しを聞くうちに、どんどん表情が硬くなっていった。

「ねぇ。あなたのお兄さんなんでしょう?」

 芹歌が訊ねると、神永は小さく頷いた。

「どうして、教えてくれなかったの?いきなり声を掛けられて、びっくりした。だって神永君の口ぶりじゃ、一人っ子で天涯孤独って感じだったんだもの。まさか、お兄さんがいるなんて……」

「すみません……」
 神永は目を伏せた。

「あの……、あまり仲の良い兄弟じゃ無かったから。それに、父が死んだ時、兄は家を出てて一緒に住んでなかったし、それ以降も一緒に住んだ事はないんです。もう、お互いに、別々の道を歩いてて、兄弟だけど接点は殆ど無かったから」

 見るからに嫌そうな雰囲気だ。
 兄に対して良い感情を持って無いように思う。
 縁を切ったも同然のような関係だったから、言わなかったと言う事なのか。

「それでも、ちゃんと言ってて欲しかったわ。そういう事は隠して欲しくない。まぁ、赤の他人だから、内輪の事は喋らないものでしょうけど、でも、母なんて、あなたが天涯孤独だと思うからこそ、肩入れしてたわけだし……」

 なんだか、説教臭い事を言っていると思う。

「すみません……。本当に」

「お兄さん、また来るって言ってた。母にも挨拶したいって」
「え?それは。やめてください。って言うか、来ても会わないで下さい」
「どうして?」
「それは……」

 顔を強張らせている。
 どこか逡巡しているような様子だ。

「とにかく、あの人とは関わらない方がいいんです。会社が倒産したって言ってましたよね?それなら失業中と言う事です。きっと金をせびられる……」

 悔しそうな、憤るような、そんな表情をしている。

「あの……、もしかして、お金を無心されてるの?」

 恐る恐る訊ねると、神永は首を振った。

「いいえ。でもそのうちに、されると思います。だから。それに、そうでなかったとしても、僕はあの人と今後も付き合う気は無いんです。関わりたくない。だから、芹歌さんも」

 懇願するような目に、芹歌は「わかった」と頷いた。

 母親が蒸発し、父親の手で育てられた兄弟。
 その父親も亡くなって二人だけになったのに、まるで嫌悪するような様子を見ていると、それほどの事があったのかと思ってしまう。

一体何があったのか興味はあるが、本人が言わない限り詮索するのはやめようと思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み