第103話

文字数 4,234文字

 神永の父親、神永友喜は小田原で漁師をしていて、地元の水産会社で事務をしていた菜々子と結婚したが、悠一郎が生まれて1年ほど経った頃に漁で怪我をして、漁師の仕事を続けられなくなった。

 元々が大酒飲みだったが、陽気な性格だったせいか、飲んで暴れるような事も無かった友喜だったが、仕事が出来なくなってから、典型的な酒乱に変貌した。

 怪我の為に漁に出られなくなっても、組合の紹介で水産会社の下働きのような仕事をしていたが、海に出られないストレスで飲んだくれてはクダを巻き、仕事は疎かになり、周囲に当たり散らすようになった。

 生計は殆ど、妻の菜々子の稼ぎに頼るようになり、自身はパチンコやギャンブルに手を出し、責められれば暴力をふるう。

 健が小学校に入学し、悠一郎が4歳になった頃には、神永家では喧嘩が絶えなかったらしい。
 菜々子が子どもの学費の為にと隠していた金を友喜が発見し、大ゲンカになった事もあったと言う。

 毎日のように、飲んで暴れる大騒ぎな神永家は、近所では評判だった。
 そんな時、ある日を境に、ぱったりと静かになって、近所は不審に思ったそうだ。

 子ども達に訊くと、「お母さんが出て行った」と言う。
 友喜自身も、「あいつは俺に嫌気がさして、書置きを残して出て行ったんだ。もう、耐えられないんだとよ」と周囲に言っていた。

 酒を飲むと暴れて、妻を殴る蹴ると痛い目に遭わせていたのだから、奥さんが逃げても当然だ。むしろ、逃げないわけがない、と周囲は誰もがそう思ったらしい。

 警察は、多岐にわたる調査結果により、いつものような夫婦喧嘩がエスカレートし、カッとした友喜が妻の菜々子を花瓶で殴った結果、死んでしまったものと結論づけた。

 その後、床下に埋めて、妻は蒸発したと周囲に喧伝(けんでん)した。

 家は持ち家である。
 その後の経済状況や、ギャンブルと酒に明けくれた生活から見れば、家を売っても良さそうなものなのに、最後まで売ろうとしなかったのは、そういう理由があったからだろうと推測された。

 凶器の花瓶は桐箱に納められて、天袋の隅に置かれていた。
 血痕が残っていて、被害者のものと一致した。

 花瓶には友喜と子ども達の指紋が残っていたが、手の大きさからしても、この花瓶で子どもが母親を殴るのは不可能であり、凶行に及んだのは友喜であると断定されたのだった。

 事件は被疑者死亡で書類送検されて終わった。

「ゆう君、ほんとに可哀想だったわね。お父さん、ずっとお酒とギャンブルばかりだったそうだから。お兄さんも、そんな父親が嫌で、さっさと家を出たのに、結局、満足な仕事に就けなくて、父親と同じような人生を送るようになったみたいよ。そんな中で、真面目に勉強して大学も出て、福祉の仕事に就いて……。しかも、あんなにいい子で。不憫な子よね……」

 家庭環境や生い立ちを知ると、そんな中で彼は一人で健気に生きてきたんだな、とつくづく思う。
 だからこそ、芹歌や実花への思いも強かったんだろうと納得する。

 これから彼はどうするのだろう。

「ねぇ、芹歌。真田さんとの事だけど」
「うん……」

 急に真田との話しになって、芹歌は緊張した。

「あなた、お教室も閉じちゃったし、どうあってもヨーロッパへ行っちゃうのよね?」
「ごめんなさい……」

 謝る事しかできなかった。何をどう言われても、変えられない。

「あの人、ステキな人だし、音楽的にも凄いわよね。いい人だと思うわ。学生の時には、あの人の後を追ってあなたが留学するの、楽しみにしてた。あの人に任せて安心だって思ってたから。だけどねぇ……」

 実花はそう言って、溜息をついた。

「結婚となるとね。やっぱり話しは別な気がするの。ヨーロッパへ行くのは、もう反対しないわ。元々、行く筈だったのが駄目になってしまったんだから。だけど、結婚は、そう慌てなくてもいいんじゃない?もう少し、時間をかけても……」

「ありがとう。心配してくれて。お母さんの言う事も、一理あると思う。だけど今は、コンクールに集中したいから、終わってからまた話すって事でいいかな」

「そうね。直前にする話しじゃないわね。私の今後の生活についても、相談しなきゃならないし、全ては終わってからね」

「そう。全ては終わってから」

 芹歌は小さく笑って頷いた。

 母の心配は尤もだと思う。
 はたから見れば、容姿端麗な世界的なバイオリニストである30歳の男性と結婚して、女として幸せになれるのかと心配にもなるだろう。

 そう考えると、実花が本選に聴きに来ると言うのは、丁度良い機会なのかもしれない。
 自分達の愛を分かって貰えるのではないか。

――すべてをピアノにぶつける。
 それこそが全てなのだと、改めて思う。


 コンクール当日がやってきた。本選2日目だ。
 前日は下位4名の演奏だった。

 聴きに行った渡良瀬からの情報によると、勝ち残っただけに其々素晴らしい演奏ではあったが、上位に喰い込む程では無かったと言う。
 下位の中での順位争いで終わりそうだとメールにあった。

 会場へは真田と共に向かった。渡良瀬は一足先に行っている。

「どう、調子の方は?」
 タクシーの中で繋がれた手に軽くキスされて、芹歌は赤くなる。

「大丈夫です。体調も、気持ちの方も」
 真田は芹歌の指先を軽く揉む。

「指先、少し冷たいんじゃないか?」
「いつもの事です。ずっと冷たいわけじゃないから、大丈夫ですよ、心配いりません」
「そうか。ならいいが……」

 繋がれた手が温かい。
 並んで座る心地良さ。
 こうしてずっと、二人で生きて行きたい。
 その想いを、今日、ピアノにぶつける。

「今日、この後、お母さんが来るって言ってました。神永君と一緒に」
「え?彼と一緒に?」

「はい。でも、大丈夫です。いい機会だと思います。私も二人に聴いて欲しいから」
「そうだな。いい機会だな。お母さんは、去年の発表会以来だろ?」

「はい。きっと、驚くと思いますよ」
 芹歌は笑った。

「驚き過ぎて、いきなり走りだすかもな」
「あはは、それ、凄い面白い。ウケますよ」

 真田がこんな冗談を言うなんて、初めて聞いた。
 いつも神経質で気難しい所があるのに、新しい発見をしたような気になる。

 タクシーが到着し、二人は会場へ入った。
 出場者専用の受付へ進む。二人は取り敢えずそこで別れた。
 出場者達は、一度会議室に集合し、今日1日の段取りなどの説明を聞いた後は、自分の出番が来るまでは自由だ。

 上位4人は芹歌を除いて全員が男子だった。
 そのうち二人が外国人。

 アーロンの他に韓国人のリ・ギジュン。
 リ・ギジュンは東和音大に留学中だ。2次予選を3位で通過している。
 4位通過は日本人男子で、畑地伸一。逍遙音学院4年。
 全員が20代前半で芹歌より年下だ。

 下位から始まるので、4位の畑地はすぐに衣装に着替えて軽く音合わせをし、本番に入る。
 9時にスタートだ。持ち時間1時間。演奏後、1時間の休憩が入る。

 1番手は9時、2番手は11時、3番手は13時、そして芹歌は15時にスタートすることになる。
 芹歌にとっては長丁場だ。この順番が吉と出るか凶と出るか。

 それに、間に1時間ずつの休憩が入るとは言え、オーケストラと指揮者への負担も大きい。
 渡されたプログラムを見ると、後半ほど大曲で時間も長い。
 特に芹歌が弾くチャイコフスキーはかなり激しい曲だ。

「へぇ~、浅葱さん、チャイコの1番をやるんですか。ソロも大ポロネーズ。凄いですねぇ。体力的にハードでしょうに。ぶつけてきましたね」

 4位の畑地が声を掛けて来た。
 畑地はリストのソロとモーツァルトのコンチェルトだ。
 1位と4位だが、そんな順位などまるで気にしていない、むしろ小馬鹿にしたような雰囲気が感じられた。

「最近、国内のコーンクールでありながら、国際コンクールは外国人ばっかり優勝して腹が立ちますよね。派手で目立つ演奏ばかりに偏重しがちで。日本人だってスケール的には負けてても音楽性では引けを取らないのに」

 悔しそうな口ぶりだ。
 今回も外国人に持って行かれそうだと思っているのだろう。

「あなたもその年齢で、しかも女性でありながら、随分と頑張りましたねぇ。でも本選では、どうなる事か。スケールと言う点では、更に女性は不利ですもんねぇ」

 明らかに女性を見下している。だからこそ、芹歌の方でも、男の癖にイヤミなヤツと思う。
 だが、あくまでも笑顔で対応する。

「そうですね。早く済ませて楽になりたいんですけど、順番が最後じゃ、ね。それまでリラックスしてゆっくり待つしかないのかな。畑地君はすぐよね。早く終わって羨ましい」

 わざとクスリと笑った。畑地の顔が微かに引きつる。
 フンッと内心鼻で嗤って、芹歌は会議室をさっさと出た。
 ホールのカフェで真田と渡良瀬が待っている。
 カフェの中はまだ人は少なかったが、殆どの人間が真田をチラ見していた。

「お待たせしました」
「ああ、芹歌ちゃん。もう打合せは終わったのね。段取りはどんな感じ?」

 渡良瀬が気ぜわしい様子で訊いてきた。
 芹歌は貰ったタイムテーブル表を手渡しながら、ざっと説明した。

「先が長いわね。分かっていたことではあるけど、まだ6時間も先よ」

 3番手のアーロン・M・ラインズの終了予定が14時なので、その時間になったら、楽屋に入ってメイクアップし、遅くとも10分前には袖で待機しないとならない。

 自分の前の参加者達の演奏を聴かないのであれば、14時までは外へ出て自由に過ごしても構わない。
 人によっては近ければ自宅待機も可能だ。

 他人の演奏を聴くのも、それなりに疲れるものだ。
 この時間を利用して練習する者もいる。

 ラインズはどうするのだろう。
 リ・ギジュンは2番目なので、当然、このまま畑地の演奏を聴くだろう。
 いや、客席で聴くとも限らないか。
 自分より先の人間の演奏を聴いて、動揺したり影響されたりする事を避け、わざと聴かない人間も少なくない。

 どうしようか考えていたら、ホールを早足で抜けて行く背の高い男に気付いた。
 ラインズだった。
 その後を、男性二人と女性一人が追うようにして歩いている。三人とも外国人のようだ。

「あら、あれは、ラインズ?」
 渡良瀬も気付いた。

「どうやら、出番まで外へ出るようだな」
 入りまで3時間少々ある。どこへ行くのだろう。

「あの調子だと、近くのレッスン場だな」
「どうして分かるんですか?」

 真田を見ると、驚いた事にニヤついていた。
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