第15話

文字数 3,611文字

 東和音大のキャンパスは、真夏にも関わらず気持ちの良い風が吹いていた。
 木々が計算されたように強い日差しを(さえぎ)って、風を呼ぶように植えられている。

 その木立の中を縫うようにして真田は歩いていた。
 周囲には夏休みにも関わらず生徒が多く、木の下のベンチで楽器の練習をしている者もいる。

(この暑いのに外で練習とはな)

 夜ならともかく、真っ昼間からそんな事、自分ならしないと半ば侮蔑の視線を投げつける。
 きっと秋の学際の為の練習なんだろうが、真夏の昼間に外で練習しなければならないような状況である事自体が信じられない。
 腕が悪いかサボったか、貧乏な結果だろう。

 C棟のドアを開けると、涼しい空気が体全体を包み込んだ。
 高温多湿は楽器にも悪いと言うのにと、つくづくさっき見た光景が信じられない思いだ。
 基本的な事を(ないがし)ろにする人間は大成しない。
 ミュージシャンとして失格だとさえ思うのだった。

 ここは母校では無いが、勝手はよく分かっている。学生時代から何度も訪れているからだ。
 自分が通う学校で無くとも、色んな音大とは盛んに交流している。
 教師同士の繋がりからの交流もある。それぞれ学風が違い、面白いし勉強にもなる。

「よぉ!来たな~」

 練習室のドアを開ける前に、既に気付いていたらしい。
 ドアを開けた瞬間に、片倉が声を掛けて来た。

 真田は指二本を頭上から投げた。
「こんにちは~」と一斉に声が飛んできた。
 男ばかりが12人、一列に横並びしている。

「ちょうど良かった。出来あがってきた所なんで、聴いてよ」

 言われて目の前の椅子に座るよう、ゼスチャーで指示された。
 フルーティスト12人による連弾。

「面白いから聴きに来て、ついでに客観的な感想を聞かせて欲しい」と頼まれてやってきた。今度の秋の学際でやるらしい。
 片倉はゲストとして参加する。他は皆、学生たちだ。

 他楽器とのアンサンブルは多いが、フルートだけで12連弾は珍しい。
 基本の楽譜を即興に近い形で演奏する。まるでジャズみたいだ。

 学生たちのやる事は面白いが、何故プロの片倉が参加するんだと訊ねたら、集まったのが11人で半端だったから管楽器部長の園田先生に相談したそうだ。
 そうしたら、「片倉を呼べ」と言ったらしい。

 園田真音(そのだ まおと)は元々はオーボエ奏者だが、その他の管楽器にも精通し、東和音大では管楽器学部の学部長を務めている。
 妻も同じ大学のフルート指導者で、夫婦揃って片倉純哉に肩入れしている。
 母校の国芸では理解されない片倉だが、ここ東和では園田夫妻の影響もあり、神に近いぐらい崇拝されていた。

「じゃぁ、いくよ!」

 片倉が自分から一番遠くにいる、端の男に声を掛けた。その声に従うように、真田から向かって左端の男子が小さく頷いた後、リズムを取りながら吹き始めた。

 ピロピロピロピロ~と、下から上へ音が軽やかに昇って曲が始まった。
 どうやら片倉の曲をやるようだ。確かタイトルは『風』だったか。

 ひと口に風と言っても、風にも色んな風がある。ありとあらゆる風を表現したと言ってもいいくらい、この曲は緩急高低の変化が凄まじく、まさに超絶技巧を駆使した曲だった。

『風』とはよく付けたもんだと思う。
 結局は、自由にやりたいが為の方便タイトルじゃないか、と初めて聴かされた時には思ったが、何度も聴いていると実は良く出来た曲だと言う事に気付いた。

 ただ自由に吹きたくて、法則を無視したデタラメな曲では無かった。
 尚且つ、音楽性の面に置いても優れていた。
 物語性があり、説得力があった。気付いた時には、その凄さに感動し、ゾクゾクしたのだった。

(この曲を12人でやるとはな。大したもんだ、学生たちも)

 12人が揃って吹く所が一番難しいだろう。一糸乱れてもいけないのだ。
 揃って吹いては、個人のパート、といった具合で、ソロの順番が左から右へと移って行く。

 そうして最後の一番の盛り上がりで見せ場に当たるのが片倉だった。

 片倉は、これでもか、と言うくらいに技巧を駆使した。
 原曲よりも更に難しい事をやっている。
 こんな風に自由にアレンジできるのも自分の曲だからだ。クラシックでやったら先生方からは大目玉を喰らうに違いない。

(それにしても、これを分からない国芸の教師どもはクソだな)

 国芸では片倉は過小評価されている。
 テクニックは申し分ないから、それには誰も文句を付けられない。
 だが、カチコチ頭の国芸教師たちは、片倉の自由奔放な音楽性は理解できないのだった。

 そういう点では、東和の方が先見性がある。
 音大のレベルとしては東和の方が下だが、自由な学風のせいかユニークな音楽家を輩出している。

 本来芸術は、人に理解されるものではない。
 他者に(おもね)るものでもない。
 だから片倉のような人間こそ、真の芸術家なんだと真田は思う。

 それに比べて自分はあまりにも正当派過ぎる。
 自分を解放する事ができない。怖いのだ。

 評価を気にして、ウケる曲ばかりを演奏する傾向にある。特に近年は、それが顕著だ。
 学生の時の方が、まだ楽しかったなと思うばかりだ。

 片倉の最後の音が鳴った後、空気が貼り付いたように止まった。

 12本のフルートが織りなす空気の振動による共鳴が、一瞬にして無くなって、かえって緊張しているような気分を覚えさせる。
 そして、その緊張の後に、怒涛(どとう)のように声が湧きあがった。

――うおぉーー!!

 やり切れた事に感動している。
 拳を突き上げたり、オッシオッシとばかりに腰に両拳を引いたり、まるでスポーツの試合に勝利した後のような有り様だ。

 涼しかった部屋が一気に熱気に包まれたように感じる。
 実際は、演奏が乗って来て、皆のテンションが上がっていくに連れて暑くなってきていたのだが、今は更に熱量が放出されているようだ。

(まるで野獣だな)

 そう思いながらも、一方で羨ましくも思った。こんな風に燃焼できるのは若さの証拠だ。
 興奮が少し治まったころ、片倉が「どうだった?」と真田に声を掛けて来た。

「思っていたより良かったな。だけど……」

 真田は左から3番目と6番目、8番目の男子を指差した。

「そこと、そこと、そこ!リズムが少し乱れがちだったな。あと、息がまだ甘い部分が多い。もっと鍛えないと駄目だ。毎朝夕、マスクをしてジョギング」

「うわぁ~、厳しい~」

 まだ息が上がっているようで、目を回していた。

「当然だよ。さすが幸也。俺も同じ事を言うつもりだった」

 片倉が男子達に厳しい視線を投げた。

「これだけの難曲を美しく吹くには、チューバを自由自在に吹きこなせるくらいの肺活量が必要だ。フルートだからと(あなど)っちゃ駄目だ」

 真田の言葉に学生たちは「えー?チューバぁ?」と口々に驚きの声を上げた。

「じゃぁ、片倉先輩はチューバもお手の物って事なんですかぁ?」

 学生の言葉に「そんなの無理!」と片倉は無下に返してきた。
 だが真田は首を振る。

「いやいや、そんな事は無い。コイツはな。驚くような芸当ばかりを持つヤツだからな。昔、学オケ(学生オーケストラの事)のボランティアで小学校へ演奏しに行った時に、校庭の一番高い鉄棒に膝ぶら下がりして、フルート吹き始めて、それはもう子ども達に大ウケしたんだが、後で教師たちから総スカン……」

「ええー?鉄棒にぶら下りながらって、逆さ吊り状態ですよねー?」

「そうだ。しかも、普通に吹いている時と変わりない音色で超絶技巧」

「うわっ!」

「合宿先では、ハンモックに揺られながら吹いてるし……。あ、そうだ。お前確か、ピルエットしながら吹けたよな。ここでやって見せてやれよ」

「ええー?ピルエットぉ?」

 ピルエットとは簡単に言えば、バレエでの回転である。
 片倉はニヤリと笑った。

「しょうがないなぁ。じゃぁ、僕のご自慢のピルエット奏法、お見せしちゃおうかな」

 片倉は靴を脱ぐと、フルートに口を付けながら足をバレエの基本の形にした後、(かかと)と踵が交差するように3番の形にして、おもろに足を上げて回り始めた。
 同時にフルートも鳴りだした。

「ひぇ~」と驚愕の声が上がる。
 何と言っても回転が速い。しかも超絶技巧の曲に、当たり前だがリズムがピッタリ合っている。見ている方が目が回りそうなのに、やっている本人は全く乱れが無いのだった。

 久しぶりに見て、改めて感服する。こいつはやっぱり突き抜けている。
 ここまで来ると気持ちいいくらいだ。

 適当な所で止めてやった。でないと延々回っていそうだったからだ。
 そのうち頭に酸素が回らなくなってパタリと逝ってしまいかねない。

「凄過ぎるっ!」

 学生たちは驚愕の中に恐れが潜んだ目で片倉を見ていた。
 ここまでの芸当が出来なければ、あれだけの笛を吹けないと言う事なのか?
 そんなの、絶対に無理だ!と誰もが目で語っているようだ。

 片倉はと言えば、全く息も乱さずに、優雅な笑みを浮かべながら乱れた髪を手で梳いていた。
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