第97話

文字数 3,993文字

「あの人さ。出て行ってくれないんだよ。すっかり居ついちゃってさ。仕事に行くのに便利だとか言って……」

「な、なんだよ、それは。不法占拠か?」

「ははは、どうなんだろう。まぁ言ってみれば押し掛け女房、みたいな感じ?」

「馬鹿、何言ってるんだよ。お前、もうすぐ結婚するんだろうが」

「そうなんだよ。だから、このままじゃヤバイと思ってね」

 久美子の話しを思い出した。
 婚約者の久坂真弓から聞いたと言う話しだ。

「婚約者との結婚話、渋りだしてるって聞いたが」

「うん……、気乗りしないと言うか、面倒くさくなったと言うか。もう少しフリーでいたくなったと言うか……」

「結婚したって、変わらず恋愛遊戯を続けるって言ってたじゃないか」

 片倉は膝に肘をついて、頭を抱えた。

「あの人に……結婚しないかって言われた」

 真田は言い知れぬ怒りが湧いてくるのを感じた。
 目の前の片倉の様子が、あまりにも色恋にハマっただらしのない少年の様だからだ。
 そして、そんな風にしたのが、あの女だからだ。

 割り切った付き合いなら、別にあの女が相手でも構わない。
 だが、すっかり虜にされている。まるで奴隷のようだ。

「俺はよく知らないが、中村さんから聞いた話しによると、バツ2だって言うじゃないか。しかも、元亭主たちはすっかり腑抜けにされてるって話しだ。だから、中村さんが心配するのも、よくわかる」

「あ、あのさ。話しの腰を折るようで悪いんだけど、なんで久美ちゃんの事を『中村さん』なんて言ってるの?」

 真田は思わず苦笑する。

「ああ、なんか変だよな?自分で言ってても、そう思う。だけど、もう、芹歌以外の女を下の名前では呼べないんだよ。芹歌と約束したから」

「はぁ?」
 信じられない話を聞いているような、唖然とした顔だ。
 
「嫌だって言われたんだ。他の女を下の名前で呼ぶのをさ。じゃないと、特別感を感じられないってね。まぁ、俺だって、あいつが俺以外の男を下の名で呼んだら嫌だからな。気持ちはよくわかる。だから、まぁ、仕方が無い」

 プッと片倉が吹き出した。

「あっはっはっは!すっごい笑える……、クックック……」

 片倉が腹を抱えた。
 そんなに笑う事かよと思うが、さびれた顔をしていたのが笑顔になって嬉しくも思う。

「そう言えば芹歌ちゃん、ユキの事を『幸也さん』って呼ぶようになったよね。アレ、凄くいいよねぇ。なんか芹歌ちゃんに合ってるって言うか、何ての、初々しい感じがたまらないよね。僕の婚約者なんか『純哉さん』って呼ぶけど、あんまり可愛くないんだよ。そんな所もつまらなくなったんだよね」

「それなら考え直すいい機会じゃないのか?だからと言って、あの女と一緒になるのは反対だけどね。あんな年増と一緒になっても後々、後悔するだけだぞ」

「幸也は、あの人を知らないからそう思うんだ。彼女は凄いよ。音楽性も素晴らしいし、女としても最高だ。だらしないのが玉にキズだけどね」

「そんなにいいのか」

「うん……。こうして離れていても、思い出すと抱きたくなる。一緒にいるとさ。朝から晩まで抱き合って、トロトロになるんだよ」

 女遊びを知らない中高年の男なら理解できるセリフだが、これほどの遊び人である片倉がここまで骨抜きにされるとは、相当なんだなと真田は思う。

「だけどお前……」
「わかってる。わかってるから逃げて来たんだ。このままじゃ飲み込まれると思ったから。それでもいいって思う気持ちもあった。だから葛藤したよ」

「そうか。だけど、仕事はどうするんだ」

「それなんだよね。今後、仕事上であの人と全く関わらないなんてのは、無理だろうって思うし。そうしたら、また元の木阿弥(もくあみ)になりそうで不安なんだ」

「取り敢えず、暫くはあの女と一緒の仕事は避けるんだな。いずれ落ち着けば平気になるんじゃないのかな。あの女の年齢を考えてみろよ。どんどん年を取るんだぞ。それに、お前が駄目だったら、他の男に乗り換えるだろうしな」

 片倉は気落ちしたように肩を落とした。

「そう思うと、悲しいよ。あれだけ恋愛は遊びだと思っていたのに、このザマなんだからね。こんな気持ちになるとは思って無かった。そもそもさ。幸也と芹歌ちゃんのせいでもあるんだ」

「何言ってるんだ。なんで俺達のせいなんだよ」

「君たち二人がさ。共に音楽を作り合えるパートナー同士でさ。愛し合ってるからだよ。羨ましくなったんだよ、そういうの。僕には一生、縁のない事だって思ってたけど、加奈子さんと一緒にやるようになって、あの人の音楽性に魂ごと惹かれちゃってさ。だから誘われたら嬉しくて抱いたし、抱いてみたら離れられない程、凄くてさ……。まるで極楽浄土のようだったよ」

 ここまで聞かされると、もう返す言葉が出て来ない。
 極楽浄土なのだとしたら、そこから逃げてくるのは、さぞや大変な事だったんだろう。

 だから、逃げて来た後でも、葛藤が続いている。

「俺と芹歌は公私ともに必要な存在だが、お前とあの女は違うと俺は思う。音楽は別として、お前はあの女とのセックスに溺れているだけだ。体の関係なんて一時的な事だぞ。音楽の上では尊敬してても、それと愛情は別だ。あの女は若い才能を吸いつくして、必要が無くなったら捨てる。今までもこれからも、それは変わらない。その証拠に、俺を誘惑してきたじゃないか。お前を愛していない証拠だよ」

 片倉は寂しそうに笑った。

「確かに、そうだね……。君の言う通りだ。だけど、心は痛むよ。頭でわかっていても、どうにもならないものなんだって、初めて知った気がするんだ」

「なぁ。中村さんとはどうなんだ。彼女はお前の事を凄く心配してたぞ。相性もいいみたいだし、少なくともアイツはお前を好きだと思うけどな」

「加奈子さんと深い関係になる前までは、久美ちゃんの事、好きだったよ。あの子とは体の相性も凄くいいんだ。一緒にいて楽しいしね。だからと言って、彼女と結婚したいとかは思わないけど、今後も良い関係でいたいって思ってた。だけどもう、駄目だね。僕は当分、女の子と恋愛遊戯を楽しむ気が起きそうにないし、久美ちゃんは久美ちゃんで新年度に入ったら、アメリカへ行くとか言ってるし」

「アメリカぁ?」
「あれ、聞いてないの?」
「聞いて無いよ」

 真田は憮然とした。そんな話は初耳だ。

「そうなんだ……。いつ頃だったかな、そんな事を言い出したのは……。確か、僕が加奈子さんと親密になった頃だったかな」

 真田はそれを聞いて、大きな溜息を一つついた。

(原因はお前なんじゃないか)

 結局のところ、失恋して外国へ行くって事か。
 だが、相手から逃げると言う点では、片倉と同じことだな、と思う。

「なんで、アメリカなんだろうな」
「さぁ?武者修行に行くって言ってたよ。どうも芹歌ちゃんに刺激されたみたいだよ」
「はぁ?何だよ、また俺達のせいにするのかよ」

 片倉が薄い笑みを浮かべた。

「そうじゃないよ。久美ちゃんさ。本気になった芹歌ちゃんに対してさ、怯えてるんだよ。危機感を覚えてるんだ。だから、このままじゃ駄目だって思ったんだ。で、君と芹歌ちゃんがヨーロッパに行くなら、自分はアメリカって思ったんじゃない?」

 なるほど。そう言われてみれば分からなくも無い。
 久美子は一介のピアノ教師で伴奏者である芹歌に対し、ピアニストとして優越感を持っているのが感じられた。
 だから、余計に芹歌を怖く感じるのだろう。

「だけど、彼女、お前と一緒にいたいと思ってるんじゃないのか?物凄く、お前の事を心配してたんだぞ。お前の将来を」

「ああ、そうだね。その点は有難いって思ってる。だけど、彼女が心配なのは、音楽家としての僕の将来だと思う。僕を好いてくれているのは確かだけど、それでも一人で武者修行する覚悟を決めてるんだよ」

「二人では、奏で合えないのか?」
「できるけど、それは互いに望んでる音じゃない」
「そうか」

 それぞれが自分の道を自分の足で行くしかないのだろう。

「ところで、芹歌ちゃんの方はどうなの?本選の練習……」

「ああ……。まぁ、良い感じではある。2次予選の演奏は期待通りの上出来だった。これなら優勝確実って思ったんだが」

 真田の言葉に、片倉が眉をひそめた。

「何?どうしたの?なんかある?」
「うーん……。芹歌が悪いんじゃない。ただ、予想外の強敵がいた」
「強敵?」
「ああ……」

 真田はアーロン・M・ラインズの事を話した。
 真田としては芹歌の方が彼を上回っていると思うものの、評価するのは人間だ。
 審査員がどう評価するか、一抹の不安が拭えない。

「そっかぁ……。まぁ、女子より男子の方が有利だよね、全体的に。笛だって肺活量的に男子の方が断然有利だからね。そういう点で、バイオリンはあまり影響ないよね」

「まぁな。でも今はバイオリンの話しじゃない」

「そうだけどさ。そんな事を言ってたらキリが無いよ。何より一番不安に思ってるのは芹歌ちゃん自身じゃないの?君が不安に思ってたら、彼女は一層不安になる」

「ああ。わかってるんだけどな」

 自分自身の事ならば、そんな不安は(ことごと)く打ち砕く。
 だが他者の事となると、違った。
 しかも芹歌なのだ。芹歌を信じていないとかの問題ではなく、ただただ心配なのだ。

 こんなに、自分以外の人間を心配に思うのは初めての事だ。
 これまで他人なんて眼中になく、全てが自分中心だったのだから。

「幸也、変わったね。そんな風に芹歌ちゃんを心配してる姿、なんだか凄くいいよ。単純に俺様だった時と違って、複雑な感じでさ。いい味出してる。男ぶり、増したね」

「おい!なんだよ、いきなり……」
「え?喜んでくれないの?愛する僕に褒められたのに」

 ニンマリと笑みを浮かべる顔が妖艶だ。
 真田は、これでこそ純哉だと思う。

「ああ、すまない。嬉しいよ。俺の純哉……」

 ウインクしてやると、「ゲーー」と吐く真似をされて、二人で大笑いしたのだった。
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