第24話

文字数 4,550文字

 玄関先で二人は暫く話していた。
 それをコソコソと伺っている自分を馬鹿に思えたが、足はそこから離れない。

(誰だ、あいつは……)

 客人をただ見送りに出ただけにしては、話しが長い。
 雰囲気からすると恋人とかではなさそうだった。

 暫くの後、男は手を挙げて別れを告げ、軽やかに立ち去って行った。
 その後ろ姿が見えなくなるまで、芹歌は見送っていた。
 やがて、近くで隠れて様子を伺っている真田に気づく事無く家中へと戻って行った。

 すっかり、インターフォンを押す気が無くなってしまった。
 あの男はピアノの生徒なのかもしれない。社会人なら、この時間のレッスンもアリだろう。
 その日はそう思った。

 だが、次の日も、またその次の日も、あの男は浅葱家に出入りしていたのだった。
 早めの午後3時頃に行った時、ちょうどあの男が浅葱家の門をくぐる所だった。

 手にはメロンの箱を下げていた。どうやら3時頃にやってきて、8時頃に帰るらしい。
 一体、どういう関係なんだ。

 結局、不審感を募らせるだけ募らせて、芹歌とは会わずに終わったのだった。
 なんとも無様だ。

 さっき渡良瀬教授が言っていた言葉を思い出した。
 20代の男の生徒。

 見渡す限り、他には見当たらない。
 あの母親との親しげな様子から見ても、それがあいつなのだと確信する。

 生徒の分際で、毎日教師の家に出入りしているとは。
 しかも、女二人所帯の家に。

 何か良くない魂胆でもあるのではないか。
 そんな風に思えてくる。

「ユキ、どーしたの?拳作っちゃって……」

 片倉に言われて自身の手を見たら、固く握りしめていた。
 知らずに力が入っていたようだ。

「いや……」

 自然と顔はあの男を睨んでしまっている。自分でそう感じる。

「あの子がさっき先生が言ってた千代子ちゃんじゃない?」

 片倉に言われてステージの方を見ると、小学校中学年くらいの少女が挨拶をしていた。
 それに合わせたように、芹歌の母の隣の男が立ち上がってそっと舞台袖の方へと去っていった。

 プログラムに目をやると、今ステージ上にいる丸川千代子の2つ後の出番に『神永悠一郎』の名前があった。

(やっぱり、あいつか……)

 胸が騒ぐ。

「あの子、上手だねぇ。手が柔らかくていいね。将来楽しみかな」

 そばで片倉がそう言っているのも、右から左に素通りだった。
 既に千代子のピアノはただのBGMにしか聞えなかった。

(一体、あいつはどんな演奏をするのか……)

 そればかりが気になった。

 千代子の後にメガネの少女が登場し、その顔と同じように表情の乏しさが感じられる演奏を終え、少し間をおいて神永悠一郎が登場した。

「あれが、さっき先生が言ってた若い男子生徒だね。ちょっと楽しみかな」

 片倉の言葉に、呑気なヤツだと思う。いや、片倉の反応の方が正しいのだろう。
 自分の方がどうかしているのだ。コイツは事情を知らないのだから仕方が無い。

 神永悠一郎は椅子を直した後、ゆったりと腰かけて呼吸を整えていた。
 背が高いのに背筋がピンと伸びて綺麗な姿勢だ。
 プログラムを見ると、曲目は『亜麻色の髪の乙女』となっている。

(微妙な曲だな……)

 初級の人間が弾く曲ではない。
 中級以上の曲だが、簡単そうで案外難しいし、だからと言って難曲と言うほどの技術を要するわけでもない。
 神永はゆっくりと息を整えながら、それに合わすようにゆったりと曲に入った。

「おっ、いい感じじゃない」

 片倉の言葉に黙って頷く。
 音は綺麗だった。ゆっくり丁寧に弾いている。固さも無く、なかなか情緒的だ。

 それに男だけに指がしっかりしていて、後ろまで響いている。
 静かな曲の場合、音を抑える為に響かない演奏になる事が素人では多い。
 そういう点では、よく弾けていると思う。
 ただ、細かい指のコントロールはまだまだな感じだ。

 全体的に静かでも、その中で抑揚がある。
 それを表現するのが難しい。今後の課題だろう。

(だが……)

 この男は舞台映えするな。見栄えが良い。
 姿勢が良い事もあって、弾いている姿が美しい。

 横顔も凛々しさの中に哀愁が僅かに漂っていて、見ているものをうっとりさせる効果を持っている。こういう、しっとりした曲を弾くと尚更それを感じさせる。

 だからか、演奏が終わって手を膝の上に置いた時、発表会とは思えないような拍手が湧いた。まるでプロのリサイタルのようだ。
 その拍手の大きさに、本人が一番驚いている。
 目を丸くして客席の方を見た後で、恥ずかしそうな顔をして立ち上がってお辞儀をした。

「わぁお~」
 片倉も会場の反応に驚いている。

「彼、得してるね。あの雰囲気でさ。実際の数倍良く聴こえる」
「そうだな……」

 だがそれを、本人が勘違いしなきゃいいんだけどな、と思う。
 勘違いして傲慢になったらお終いだ。
 そう思った瞬間、もしかしたら俺がそうなのか?との思いが湧きあがって愕然となった。

「どうしたの?固い表情して」
「あ、いや。今ふいに、俺、自分の演奏に対して傲慢になってるんじゃないかって……」

 片倉はフフンと笑った。どこか揶揄(からか)うような顔をしている。

「幸也は、最初からずっと傲慢だよ。だけど、君はそれでいいの。あの子の事で今更気づいたっての?全く……。それに、相手が僕にせよ、そういう事を口に出すのって、幸也らしくないと言うか、驚き」

 そう言いながら、特技の目玉回しを始めた。
 それを見ると、誰もが吹きだす。
 真田も例外ではない。

「お前、今度、それを舞台の上でもやったらどうだ?盛り上がるぞ」

 笑いながら言うと、「あ、それGood idea!」と言って手を叩いている。
 本当にやりそうだ。

 神永が舞台袖に引っ込んで会場が静かになった所で、次の生徒が登場した。
 60年配の男性だ。

「あの人かぁ。恵子先生、酷いって言ってたけど、ベートベンの『悲愴』の第一楽章だよ?第二楽章じゃないところが、案外ミソかもね」

 ちょうどその時、神永が会場へ戻って来た。
 少し屈んで周囲に小さく頭を下げながら元の座席に着席した。

 隣の芹歌の母親が喜色満面と言った表情でしきりに何か言っている。
 きっと褒めちぎっているのだろう。
 その様子を見るにつけても、二人の親しさが推し量れる。

(可愛がられてるという事か……)

 胸が(うず)いた。

 あの事故さえ無ければ、ああして母親と談笑しているのは自分だった筈。
 そもそも、あの母親は、とても自分を気に入ってくれていた。
 だから、真田の伴奏者として芹歌が活躍する事にも大きな期待を寄せていた。

 それなのに、あれ以来、娘を自分のそばから離そうとしないとは。
 幾ら夫を亡くして寂しいとは言っても、あまりな話だと思う。

 ベートベンの演奏が始まった。

「うわっ、なるほど……」

 最初の音だけで、片倉は全てを悟ったように言った。真田も同感だ。
 渡良瀬の言葉は的確だったと言えよう。

 正直、神永の後だけに、アラが目立つ。
 それでも、これが60年配の男性だと言うだけで、こちらも矢張り得をしていると言えるのかもしれない。

 これが神永だったとしたら、あのルックスでも多くの人間がイマイチと思うだろう。
 だが60年配の男性となれば、よくこれだけ弾けるなと感心する方が大きくて、あっ晴れといった感じでエールを送る事になる。

 だが、それも聴衆が一般人だからであって、プロや批評家、耳の良い音楽人には通用しない。

「あの人は、あの年齢までずっと独学できたんだろうね。ある意味、可哀想だね。芹歌ちゃんも苦労してるんだろうな」

「そうだな。きっと器用貧乏なんだろう。中途半端に出来てしまうから、そのまま突き進んだ感じだ。もっと早い段階で指導を受けていれば良かったのにと思うが、こうして習いに来てるんだから感心だよ。問題は、どこまで続けられるかだな」

 全く弾けない人間なら、どんどん弾けるようになる事で習う喜びが湧く。
 だが既にそれなりに弾けているだけに、逆に目覚ましい進歩は期待できないし、努力をしている割に目に見えた上達感が無いと言う事で、挫折する可能性が高い。

 ただ芹歌の生徒とは思えないような音を出してはいるが、取り敢えず全体としては形になっていた。元を知らないから分からないが、丁寧に弾こうと頑張っているのは伝わってきている。
 ミスタッチが少ないのも感心だ。

 最後の和音が終わった時、場内から拍手が湧いた。
 どうも、生徒達の祖父母連中からは大分評判が良いようだ。

 同年代の男性がこれだけ弾くのだから感動するのだろう。
 良い選曲だったと思う。これが第二楽章なんかだったら、多くが頭にクエッションマークを浮かばせての拍手だったに違いない。

「なんかさぁ。面白い人だね。音は酷いんだけど、何て言うの、雰囲気?で弾いちゃってる感じ。普通の人相手なら、この雰囲気で十分伝わっちゃうね。だとすると、これはこれでアリなのかなって気がしてくる」

「全くだな」

 だからこそ、教える方は一層、難しいと思う。

 トリの本田朱音は、さすがに国芸を目指しているだけあって良い演奏だった。
 少し緊張している様子だが、まずまずだろう。
 生徒全員の発表がこれで終わった。
 そして、司会の紹介で芹歌が舞台の上に立った。

「芹歌ちゃん、ロングドレスじゃないんだね」

 芹歌は薄いエメラルドグリーンの膝下程度の丈のワンピース姿だった。
 オーガンジー製で柔らかい雰囲気だ。

(大人っぽくなったな……)

 全く逢わなくなって、6,7年か。
 あの事故が起きる前は、日本公演の時に逢う事はあった。と言っても楽屋でだが。
 髪型は相変わらずのボブカット。

「どぉ?久しぶりの芹歌ちゃんを見る感想は。昔より雰囲気あるでしょ」

 意味深な口ぶりだ。
 真田はずっと逢っていないが、片倉は何度か一緒に仕事をしている。

「大事なのは見た目じゃない」

 そうだ。ピアノだ。どんな演奏になったのだろう。

 そう思いながらも、彼女が椅子に座った時に、髪を右耳に掛けている為に露わになっている横顔が懐かしく、また昔よりも翳りが感じられる様に胸が切なくなった。

 左手の、Gis《ギス》(ソ#)の2音が深く響いた。
 真田は、この音だけで胸が重くなった。

 淀みなく流れるメロディ。軽やかな指遣い。柔らかな手首と腕。
 ソリストではなくても伴奏を仕事としている為か、腕は衰えていない。

 だが、どこか頼りなげな印象だ。
 曲調には合っていると言われれば、そうなのかもしれないとは思うが。

 彼女のピアノは自己主張が強く無いのが特徴と言っても良い。
 学生時代からずっとそうで、担当教授、つまり渡良瀬恵子から常にそれを注意されていた。

「もっと自分を解放しなさい」

 それが常々言われていた言葉だ。
 技術も優れているし表現力もあるのに、インパクトが薄い。

 今だって、さすが国芸出身と思わせる技量を発揮しているのに、迫って来るものに欠けている。そういう点は、昔のままだ。

 ただ真田は感じる。その音の底辺にある闇を。
 彼女は今、何を思っているのだろう。
 本当に、俺が待っている事を知らないのだろうか。

 このままこうして、ただの伴奏者兼ピアノ教室の先生で人生を終えてしまう気なのか。
 真田は芹歌の奏でる音に耳を傾けながら、これからの事を考えた。

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