第61話
文字数 3,231文字
楽屋には、久美子と沙織が押し掛けて来た。
「おめでとう、芹歌!素晴らしかったわよ」
「ありがとう……」
なんだか照れる。
「練習の時とは、全く違ったわね。練習も良かったけれど、本番の素晴らしさと言ったら無かったわ」
久美子の目が輝いていた。
「私もビックリした。学生の時も、二人のコンビは、凄くいいって思ってたけど、何か今日は感動しちゃった。伴奏って侮 れないわね」
沙織も興奮している。
「それにしても、終わった時、真田さんに抱きしめられてたわね。あれにも驚いたわよ」
「そうそう、ほんとビックリ~。あんなの、初めてじゃない?」
「うん……。私もビックリした……」
思い出すと頬が熱くなる。
「客席の一般ファンは凄かったわよ。キーキー言ってた。やめてぇーとか」
「え?そうなの?」
「そーそー。結構、長い時間だったもんね。『早く離れてー』とか叫んでたよね」
「あはは……。そうなんだ。私もちょっと恥ずかしくて、早く離れてーって思ってたけど」
「あら!」
久美子が責めるような顔になった。
「なんて勿体ない事を言うのよ。私なら、ずっとこうしていてーって叫んでる」
「久美子、凄い度胸。ファンの子達から、カミソリとか送られてくるかもしれないのに」
沙織の言葉に、芹歌は「ええ?」と怯 んだ。
「何言ってるのよ。真田さんほどの男なんだから、そのくらいの覚悟はしてるわよ。あー、それにしても凄く良かったな。あ、私、行って来ようかな、真田さんの所に」
久美子は慌ててバックを掴むと、「じゃぁね」と出て行った。
その慌ただしさに沙織と二人、唖然とする。
「何あれ。全く久美子ったら、節操が無いわね。きっと、この後の事を狙ってるのよ」
厭らしい物を見るような目つきになり、芹歌は胸がキュッと締め付けられるような痛みを感じた。
沙織は直接言葉には出していないが、そこには暗黙の了解がある。
演奏後の真田の性癖だ。
素晴らしい演奏をした後ほど、顕著な性癖。
「国芸で教えるようになってから、事務の人とか研究生の人とかを相手にしてるんですってね。そういう所は相変わらずよね、真田さん」
ずっと、当たり前のように見過ごしてきた。
所詮、遊びだし、ああいう人には必要な事なんだろうと。
片倉だって同じような事をしている。
何でも無い事だった。
今までは。
それなのに、何故今になって、胸が締め付けられるんだろう。
この後、真田が久美子か、または別の女性を抱くのかと思うだけで、体の中がザワザワしてきて気持ち悪さを覚える。
「芹歌、どうしたの?大丈夫」
沙織に声を掛けられてハッとした。
「あ、ごめん。大丈夫って?」
「なんか、固まってるような顔してたから。疲れたのかな?」
「うん。さすがにね」
芹歌は着替えて、帰る身支度を整えた。
「それにしても、このドレス素敵。色がいいわよね」
シルクサテンの光沢があって、沙織が言う通り素敵だ。
舞台の上は夢だ。
その夢を飾るのに相応しい装いだったと思う。
夢を見させてくれた真田には感謝だ。
持ってきた衣装と2着分になってしまった為、結構荷物が大きくなった。
沙織が「疲れてるだろうから、持ってあげる」と言って、衣装ケースを持ってくれた。
有難い。
「この後、打ち上げとか無いの?」
言われて気付いた。
そう言えば、そんな話は聞いていなかった。
楽屋口まで行くと、真田が何人かに囲まれていた。
その中に、久美子や須山、大田もいた。
芹歌はそんな真田に一瞥 くれると、外へ出た。
「いいの?声かけなくて」
「うん……」
何となく躊躇 われた。
それに、彼女達と一緒の所を見たくない。
一歩外へ出ると、体が寒さに震えた。
思いの外、冷え込んでいるようだ。
裏口のせいか、人も殆 どおらず閑散としている。
本当に、さっきまでの出来事は夢だったと思えてくる。
いつまでも夢の世界で生きるわけにもいかない。
現実に戻らなければ。
「これから、どうする?久しぶりだし、一緒にご飯食べたいな」
「うん。そうだね。でも一端帰って荷物を置きたいかも。邪魔じゃない?」
「そうだね」
疲れたから、外に出たらタクシーでも呼ぼうかなと考えながら歩いていたら、「浅葱さん!」と自分を呼ぶ声が聞えた。
男の声だ。振り返って驚いた。
山口岳が立っていた。
「山口さん……」
「知ってる人?」
沙織が囁 くように訊ねたので、頷いた。
「合唱団の、指揮者……」
「え?どうして?辞めたんじゃなかったの?」
「辞めたわよ」
そうやり取りしている間に、山口はすぐそばまでやってきた。
「あの……、山口さん。お久しぶりですね」
とりあえず、そう言う。
だが、山口はそれには答えなかった。
「浅葱さん。酷いじゃないですか」
眼鏡の奥の目が、いやに鋭い。
沙織は怯 えたように芹歌の後ろに隠れた。
「あの、酷いって、どう言う事ですか?」
「合唱団の事ですよ。あなたのお陰で滅茶苦茶だ」
投げ捨てるような言い方だ。
「はぁ?おっしゃってる意味がよく分からないんですけど」
「はっ!惚 てもらっちゃ、困ります。あなたが辞めてから、団はボロボロだ。そもそも、人がどんどん抜けてって、まるで歯が折れた櫛 のようになってしまった」
この人は、一体何を言ってるんだ。
芹歌のせいだと言いたいのか。
「理事長が、あなたに戻って来て欲しいと頼んだそうですね。でもあなたは断った。まぁ、私とやりあったから頭を下げて戻りたく無かったんでしょうが、だからって酷いじゃないですか。残ってる団員を唆 して辞めさせるなんて」
「山口さん。変な事を言わないで下さい。私、唆すなんて、してませんよ」
「ほぉ。でも、団員達は、あなたのピアノじゃなきゃ嫌だと言って、辞めていったんですよ。僕の指揮じゃなく、あなたのピアノじゃないと歌えないって。どういう事ですかね、これは。全く持って理解しがたい」
芹歌に隠れるようにしていた沙織が、
「あなたの指導に問題があるからじゃない!」と叫んだ。
芹歌は手をあげて、沙織をけん制したが、山口の顔がヒクヒクと痙攣 した。
「そういう風に、あちこちに吹聴 されてたんですね。これではっきりした。僕は3月でお払い箱だそうです。新年度は更新しない意向だと言われました。それも、あなたの差し金でしょう。僕がいなくなったら、あなたは大手を振って戻ってくるんでしょうね。クリスマスの公演も中止になりましたよ。人数が減り過ぎてできなくなってしまった。みんな、あなたのせいだ……」
山口が、下から睨めつけるように芹歌を見た。
陰鬱 な目をしている。
恨みがこもっているのを感じた。その目つきのまま、ジリジリと迫って来る。
「え?何?やだ?」
背後で沙織が震えた。
芹歌も足が震えてくるのを感じた。
このまま後ろを向いて走り出したい気持ちに襲われたが、後ろを向いたと同時に背後から襲われそうな気がして怖かった。
「山口さん。落ち着いて下さい。私、団に戻る気は全くありませんから」
山口は薄笑いを浮かべた。不気味な笑いだ。
「そんな事、もう僕には関係ない。ただ、あなたが目ざわりなだけだ。たかが伴奏の癖に、出しゃばりやがって……」
沙織が突然、芹歌から離れて逃げ出した。
山口がそれを止めようとしたので、芹歌は山口の服を掴んだ。
その拍子に、山口の腕が飛んできて、芹歌を突き飛ばした。
「きゃっ!」
バランスを崩して尻もちをつく。
そんな芹歌を山口が仁王立ちになって見おろしてきた。
「思い知らせてやるっ。二度と舞台に立てないように」
山口が芹歌の髪を掴んで引っ張った。
「いやっ!やめて!!」
(痛いっ!)
髪を掴んだまま引きずられそうになって、相手の手を両手で掴んだ。
「離せっ、こらぁっ!!」
山口は腕を上下させた。痛くてたまらない。
「やめて!」
山口が急に、手を離したので芹歌は地面に崩れ落ちた。
だが、すぐに衿首を掴まれた。
「お前のせいで、俺の評判は地に落ちた。どうしてくれるんだ!お前のせいで!」
山口が拳を振りあげた。
「おめでとう、芹歌!素晴らしかったわよ」
「ありがとう……」
なんだか照れる。
「練習の時とは、全く違ったわね。練習も良かったけれど、本番の素晴らしさと言ったら無かったわ」
久美子の目が輝いていた。
「私もビックリした。学生の時も、二人のコンビは、凄くいいって思ってたけど、何か今日は感動しちゃった。伴奏って
沙織も興奮している。
「それにしても、終わった時、真田さんに抱きしめられてたわね。あれにも驚いたわよ」
「そうそう、ほんとビックリ~。あんなの、初めてじゃない?」
「うん……。私もビックリした……」
思い出すと頬が熱くなる。
「客席の一般ファンは凄かったわよ。キーキー言ってた。やめてぇーとか」
「え?そうなの?」
「そーそー。結構、長い時間だったもんね。『早く離れてー』とか叫んでたよね」
「あはは……。そうなんだ。私もちょっと恥ずかしくて、早く離れてーって思ってたけど」
「あら!」
久美子が責めるような顔になった。
「なんて勿体ない事を言うのよ。私なら、ずっとこうしていてーって叫んでる」
「久美子、凄い度胸。ファンの子達から、カミソリとか送られてくるかもしれないのに」
沙織の言葉に、芹歌は「ええ?」と
「何言ってるのよ。真田さんほどの男なんだから、そのくらいの覚悟はしてるわよ。あー、それにしても凄く良かったな。あ、私、行って来ようかな、真田さんの所に」
久美子は慌ててバックを掴むと、「じゃぁね」と出て行った。
その慌ただしさに沙織と二人、唖然とする。
「何あれ。全く久美子ったら、節操が無いわね。きっと、この後の事を狙ってるのよ」
厭らしい物を見るような目つきになり、芹歌は胸がキュッと締め付けられるような痛みを感じた。
沙織は直接言葉には出していないが、そこには暗黙の了解がある。
演奏後の真田の性癖だ。
素晴らしい演奏をした後ほど、顕著な性癖。
「国芸で教えるようになってから、事務の人とか研究生の人とかを相手にしてるんですってね。そういう所は相変わらずよね、真田さん」
ずっと、当たり前のように見過ごしてきた。
所詮、遊びだし、ああいう人には必要な事なんだろうと。
片倉だって同じような事をしている。
何でも無い事だった。
今までは。
それなのに、何故今になって、胸が締め付けられるんだろう。
この後、真田が久美子か、または別の女性を抱くのかと思うだけで、体の中がザワザワしてきて気持ち悪さを覚える。
「芹歌、どうしたの?大丈夫」
沙織に声を掛けられてハッとした。
「あ、ごめん。大丈夫って?」
「なんか、固まってるような顔してたから。疲れたのかな?」
「うん。さすがにね」
芹歌は着替えて、帰る身支度を整えた。
「それにしても、このドレス素敵。色がいいわよね」
シルクサテンの光沢があって、沙織が言う通り素敵だ。
舞台の上は夢だ。
その夢を飾るのに相応しい装いだったと思う。
夢を見させてくれた真田には感謝だ。
持ってきた衣装と2着分になってしまった為、結構荷物が大きくなった。
沙織が「疲れてるだろうから、持ってあげる」と言って、衣装ケースを持ってくれた。
有難い。
「この後、打ち上げとか無いの?」
言われて気付いた。
そう言えば、そんな話は聞いていなかった。
楽屋口まで行くと、真田が何人かに囲まれていた。
その中に、久美子や須山、大田もいた。
芹歌はそんな真田に
「いいの?声かけなくて」
「うん……」
何となく
それに、彼女達と一緒の所を見たくない。
一歩外へ出ると、体が寒さに震えた。
思いの外、冷え込んでいるようだ。
裏口のせいか、人も
本当に、さっきまでの出来事は夢だったと思えてくる。
いつまでも夢の世界で生きるわけにもいかない。
現実に戻らなければ。
「これから、どうする?久しぶりだし、一緒にご飯食べたいな」
「うん。そうだね。でも一端帰って荷物を置きたいかも。邪魔じゃない?」
「そうだね」
疲れたから、外に出たらタクシーでも呼ぼうかなと考えながら歩いていたら、「浅葱さん!」と自分を呼ぶ声が聞えた。
男の声だ。振り返って驚いた。
山口岳が立っていた。
「山口さん……」
「知ってる人?」
沙織が
「合唱団の、指揮者……」
「え?どうして?辞めたんじゃなかったの?」
「辞めたわよ」
そうやり取りしている間に、山口はすぐそばまでやってきた。
「あの……、山口さん。お久しぶりですね」
とりあえず、そう言う。
だが、山口はそれには答えなかった。
「浅葱さん。酷いじゃないですか」
眼鏡の奥の目が、いやに鋭い。
沙織は
「あの、酷いって、どう言う事ですか?」
「合唱団の事ですよ。あなたのお陰で滅茶苦茶だ」
投げ捨てるような言い方だ。
「はぁ?おっしゃってる意味がよく分からないんですけど」
「はっ!
この人は、一体何を言ってるんだ。
芹歌のせいだと言いたいのか。
「理事長が、あなたに戻って来て欲しいと頼んだそうですね。でもあなたは断った。まぁ、私とやりあったから頭を下げて戻りたく無かったんでしょうが、だからって酷いじゃないですか。残ってる団員を
「山口さん。変な事を言わないで下さい。私、唆すなんて、してませんよ」
「ほぉ。でも、団員達は、あなたのピアノじゃなきゃ嫌だと言って、辞めていったんですよ。僕の指揮じゃなく、あなたのピアノじゃないと歌えないって。どういう事ですかね、これは。全く持って理解しがたい」
芹歌に隠れるようにしていた沙織が、
「あなたの指導に問題があるからじゃない!」と叫んだ。
芹歌は手をあげて、沙織をけん制したが、山口の顔がヒクヒクと
「そういう風に、あちこちに
山口が、下から睨めつけるように芹歌を見た。
恨みがこもっているのを感じた。その目つきのまま、ジリジリと迫って来る。
「え?何?やだ?」
背後で沙織が震えた。
芹歌も足が震えてくるのを感じた。
このまま後ろを向いて走り出したい気持ちに襲われたが、後ろを向いたと同時に背後から襲われそうな気がして怖かった。
「山口さん。落ち着いて下さい。私、団に戻る気は全くありませんから」
山口は薄笑いを浮かべた。不気味な笑いだ。
「そんな事、もう僕には関係ない。ただ、あなたが目ざわりなだけだ。たかが伴奏の癖に、出しゃばりやがって……」
沙織が突然、芹歌から離れて逃げ出した。
山口がそれを止めようとしたので、芹歌は山口の服を掴んだ。
その拍子に、山口の腕が飛んできて、芹歌を突き飛ばした。
「きゃっ!」
バランスを崩して尻もちをつく。
そんな芹歌を山口が仁王立ちになって見おろしてきた。
「思い知らせてやるっ。二度と舞台に立てないように」
山口が芹歌の髪を掴んで引っ張った。
「いやっ!やめて!!」
(痛いっ!)
髪を掴んだまま引きずられそうになって、相手の手を両手で掴んだ。
「離せっ、こらぁっ!!」
山口は腕を上下させた。痛くてたまらない。
「やめて!」
山口が急に、手を離したので芹歌は地面に崩れ落ちた。
だが、すぐに衿首を掴まれた。
「お前のせいで、俺の評判は地に落ちた。どうしてくれるんだ!お前のせいで!」
山口が拳を振りあげた。