第37話

文字数 2,656文字

「どうだった?今日のリサイタル」
 楽屋に花を持ってやってきた芹歌は、明るい顔をしていた。

「凄く良かったわ」
「本当に?」

「勿論よ。片倉先輩の超絶技巧にあれだけ合わせられるなんて、さすが久美子ね。何て言うか、久美子は弾く度に進化してる気がする」

「やぁねぇ。褒めすぎよ。それを言うなら、芹歌だってそうよ?」

 芹歌は静かに微笑んだ。

「やぁ、いらっしゃい!」

 ノックと同時にドアが開いて純哉が入って来た。

「こんばんは。今日は凄く冴えてましたね。絶好調って感じでした」

「ありがとう。芹歌ちゃん、口が上手いんだねぇ。知らなかった。だけど今日は、大丈夫なの?お母さん……」

「はい。折角だから、ゆっくりしてきたらって」

「でも、ヘルパーさんの超過料金が、かかっちゃうんじゃないの?」

 久美子の言葉に芹歌は首を振った。

「一人で大丈夫だって言うの」
「あら……」

 それは驚きだ。
 確かに病人でもなければ小さい子どもでも無いのだから、当たり前の話しだが、それが今までは通らなかったのだから逆に驚く。

「そうは言っても、やっぱり心配じゃない?」

「そうね。でも、余計な事を考えないようにした。本人がいいって言うんだから、信じてみようと思って」

「そうだよ。その方がいい。芹歌ちゃんも、やっと自分の為に時間を使えるようになってきたんだね。いい傾向だ」

「ねぇ、それなら、これから一緒にご飯に行きましょうよ。ね?純哉君もいいわよね」

「勿論。前に芹歌ちゃんに伴奏して貰った時も、ご飯とか一緒に食べた事なかったもんね。やっと一緒に食べれるんだ。嬉しいなぁ」

 純哉はクルクルと回った。
 楽しくなると、よく回転する男だ。

「いいの?ほんとに?お邪魔じゃないの?」

 回る純哉に笑いながら、芹歌が小声で訊いてきた。

「勿論よ。こんな機会、なかなか無いんだし。たまには三人で。このメンツで食事するのって、珍しいじゃない」

「まぁね」
 芹歌はクスリと笑った。

「じゃぁ、折角綺麗な女性が二人もいるんだから、僕がエスコートするよ」

 そう言って連れて行かれた先は、和食レストランだった。

「なんだ、フレンチとかイタリアンのお店に連れてってくれるのかと思ったのに」

 久美子は口を尖らせた。
 エスコートするなんて言うから、まさか和食とは思わなかった。

「あれ?そういうお店が良かったの?でも三人だからさ。こっちの方が落ち着いて食べながら団欒(だんらん)できると思ったんだけどね」

 そう言われれば、そうかもしれない。
 気取ったレストランじゃ、話せない事もある。

 中へ入ると、純哉は座敷を頼んだ。

「良かった、空いてるって」

 三人は少し奥まった場所にある、8畳程度の座敷に通された。

「ここ……、ステキだけど高そうね」
 芹歌が部屋を見まわした。

「そうだね。でも、お勘定の事なら心配しなくていいよ。今日は僕がおごるから」

「わ~い、ラッキー」と久美子は素直に喜んだが、芹歌の方は「ええ?それはちょっと……」
躊躇(ためら)っている。

「遠慮しなくていいよ。折角来てくれたんだし。それに僕、女の子にお金を払わすのは趣味じゃないんで」

「そうよ、甘えちゃいましょうよ。こう言ってくれてるんだから」

 こういう場合、払ってくれると言われたら素直に喜ぶものだと久美子は思っている。
 見返りを求められる場合は別だが。

「こんな事を言うのは上品じゃないけど、僕の方が先輩だし、君より稼いでるしね。可愛い後輩に(おご)るのも仕事みたいなもんだよ」

 芹歌は仕方なさそうに笑った。

「片倉先輩、そんな事をしてたら、そのうち破産しますよ?」
「ははは。大丈夫。そうならない為にも、どんどん稼ぐから」

 純哉は陽気に笑うと、「二人とも季節のコースでいいよね?」と言って料理を注文した。

「ところでさ。芹歌ちゃん、幸也の伴奏役、引き受けたんだってね」

 芹歌は照れくさそうな笑顔で「はい」と答えた。
 久美子は聞いてはいたが、やっぱりそうなるのかと、少し複雑な思いだった。

 あの発表会の時の事を詳しくは聞いていないが、芹歌のお母さんが原因で揉めたと言う事は聞いた。
 あのお母さんの事だから、納得な感じだが、それでも芹歌は引き受けるんだと、意外な気がする。

「お母さん、大丈夫なの?」

 久美子が心配げに尋ねると、「なんかみんなに言われる」と笑顔を向けて来る。

(そんなに嬉しいの?)

 嬉しいのは、母親から解放されて好きな事ができるからなのか。
 それとも真田と組めるからなのか?

「芹歌ちゃん、少し明るくなった……」
「え?そうですか?」

 そうだ。純哉の言う通りだと思う。

「私も同感」
「あれ、やだな。それじゃ、私今まで、暗かったって事?」

 目を細めて不機嫌そうにしたが、わざとだ。
 だから久美子もわざと言い返す。

「そうよぉ~。すっごい暗かった。ねー、純哉君?」

「あははは。いやいや、そんな事は無いよ。すっごい明るかったとも言えないけどね。お母さんが良くなってきたから、気持ちが軽くなってきたんじゃないの?」

「あ、それは確かにそうですね」

 前菜料理が運ばれてきたので、話しが中断する。
「綺麗……」
 オレンジ、黄色、緑の食材を使っていて、目に鮮やかだ。

「ところで芹歌……」
 久美子は気になる事を訊いてみた。

「合唱の伴奏を辞めたって、本当なの?」

 芹歌の箸を持つ手が止まった。

「うん。だけど、どうして知ってるの?恵子先生から聞いたの?」
「それがさ。神永君から……」
「ええ?どうして?」

 芹歌は顔色を変えて驚いている。

「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「だって……」

「発表会の日の帰りにね。大人組の生徒さん達と食事を一緒にしたの。春田さんと朱美ちゃんも一緒よ?それで、今後も何かあったら相談に乗るわ、みたいな話しになって、連絡先を交換したのよ。みんなとね」

 芹歌は表情を固くしたままだ。

「神永君も辞めたんですってね。でもその後、団の方は荒れてるらしいわよ。団員達から、神永君に連絡があるらしいの。自分にはどうにもできないって彼、言ってた。まぁ、そうよね。指揮者とトラぶったようだって聞いたけど、そうなの?」

 動揺している。瞳が揺れていた。

「ごめん、訊いたら悪かったかな」

 芹歌は首を振った。

「ううん。ただね。何て言ったらいいのか、分からないの。上手く言葉で説明できない。簡単に言えば、トラぶったって事に尽きる気がするけど…」

 芹歌は俯いたまま箸を手にした。

「何か嫌な事でも言われた?」
「まぁね……」

 久美子は不思議に思う。
 そんな事くらいで芹歌が伴奏の仕事を辞めるなんて。
 責任感が強いのに。
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