第46話

文字数 3,845文字

 翌朝、神永は何時頃に帰ったのかと実花に訊かれた。

「あれからすぐに帰ったわよ」

 何事も無かったように装う。
 帰り際の神永の態度が不可解で、芹歌は何だか寝付けなくて寝不足だ。

「そう。だけど、どうしたの?凄く眠そうな目をしてるわよ?夜ふかししたの?」

 起きて鏡を見たら、そんな顔をしていた。
 ただ、神永がここで食事をするようになるまでは、毎晩夜更かしの実花に付き合わされて寝不足気味だったのに、眠そうな顔をしていても、実花に指摘される事など無かった。

 それを思うと、矢張り母は変わった。
 母親らしくなってきていると感じる。

「ちょっと、寝付きが悪かったの」
「あら。もしかしたら、疲れ過ぎたのかもね。過ぎると逆に興奮して寝れなくなったりするわよね」

 確かに、興奮はしていたな。
 元はと言えば、母の昼間の言動が原因なのに。
 本人は少しもそんな風に思って無いようだ。

 三日後の水曜日、神永はいつも通りにレッスンに来た。
 だが表情がいつもよりも硬い。

(いやだな……)

 そう思っても、これはビジネスなんだと割り切るしかない。
 何事も無かったように、なるべくいつも通りにレッスンした。

 終了後、神永は「歌のレッスンはもういいです」と言った。
 それはどういう意味なのだろう?

 今日はしなくていいと言うことなのか、それとも、今後ずっとしなくて良いと言う事か。

 敢えて訊ねる事はしなかった。
 少なくとも当分、あの愛の歌は聴きたく無い。

「あと、今日は用事があるので、これで失礼します。お母さんには謝っておいて下さい」

 神永は事務的にそう告げて、すたすたと部屋を後にした。
 芹歌の返事も待たずに。

 あんな事のあった後だけに、さすがにいつものように笑顔で夕飯を共になどできないのだろうが、それにしても素っ気ないのを通り越して無愛想だった。

 神永が帰った事を告げると、実花はひどく落胆した。

「どうしてなのかしら?もしかして、この間の私の言った事で気を悪くしちゃったのかしら?」

 芹歌は口の端で薄く笑う。
 気を悪くしたのは、実花の言葉にではなく、芹歌の言葉にだ。

 ただ、原因は母の言葉だ。あんな事を言わなければ、多分、今日だっていつもの通りに和やかな水曜の晩を過ごせたんだと思う。

 寂しいと思っている自分に気付いた。
 水曜日。
 一週間のうちの、たった一日に過ぎないのに。

 翌日の木曜日、真田とのレッスンの為に大学へ出かけた。
 道すがら、いつのまにか神永の事を考えている。

 そう言えば、ただ人の役に立ちたいからじゃなく、私の役に立ちたかったんだと言っていたっけ。
 改めて考えると、なんだか意味深だ。

 役に立ちたいと思っている相手から、冷たくされたのだから傷つくだろう。
 だから彼は、急変して帰ってしまったのだろうか。
 親切を仇で返すような事を言ってしまったのか。
 もやもやしたまま、大学へ向かった。

 キャンパス内は生徒達で賑わっていた。あちこちで歌声や楽器の音が響いている。
 ここへ来る度に、自分も通っていた時の事を思い出して懐かしくなる。

 この時代が、最も幸せな時だったと思う。
 充実していた。

 自分には明るい未来が待っていると信じ切っていた。
 有名になるつもりは毛頭なかったが、音楽に溢れた人生が送れると思っていた。

 真田のレッスン室へ行くと、彼は既に来ていてバイオリンを弾いていた。
 なんだか荒れているようだ。

 ドアをそっと開けて中に入る。
 眉間に大きな縦皺を作っていて、もしかして怒ってる?と思うような顔をしている。

 午前中に、何かあったのだろうか。
 芹歌が入室しても、何の反応もせずに弾き続けているが、その音が彼らしくない。
 あまりの酷さに、一歩も動けずにいると、真田の閉じていた目がおもむろにカッと開いた。

(怖い)

 体が震えた。

 それと同時に、バイオリンが止んだ。

 真田は見開いた目で、ほんの数秒芹歌を見つめた後、バイオリンを置いてソファに体を投げ出すように座った。

「何を突っ立ってる」
「あ、すみません」

 芹歌がピアノの椅子の方へ歩き出すと、「ちょっとこっちに来い」と呼びつけられた。
 怖い顔で言われて、足が(すく)む。

「どうした。そこじゃ、話しが遠いんだ」

(話し?)

 何だろう……。

 そう言えば、この間も『話しがある』と言われたんだった。
 相手は神永だったが。

 妙な符牒(ふちょう)を感じるが考え過ぎか。
 いずれにしろ、表情からして良い話しとは思えない。

 警戒心が湧いてくるのを否めなかった。
 芹歌は恐る恐る、真田の前に座った。

「あの……、話しって?」

「俺は忠告した筈だぞ」

 睨みつけられた。
 端正な顔が酷くきつい顔になっている。

 練習中に怒る事はしょっちゅうだから、怖い顔は見慣れているが、さっきの顔と言い、目の前の顔といい、これまでとは少し様子が違っている。

「あの……、何の事でしょう?」

「とぼける気か!あいつの事だっ」

 吐き捨てるような口調だ。
 あいつって?もしかして、神永君の事を言っている?

「先輩……、神永君の事なら、仕方が無いんです。母は凄く彼を頼りにしてるし、今更遠ざけるなんて無理です。そんな事をしたら、また母の状況が戻りかねないし」

「俺は、少しは気を付けた方がいいと言ったんだ。遠ざけろとは言ってない」

 なんだか、よく分からない。
 一体、何が言いたいんだ。それに、何故こんなにも機嫌が悪い。
 何かトラブルがあって苛ついて、それを芹歌にぶつけているのかもしれない。
 たまったもんじゃない、と思った。

「だったら、別にいいじゃないですか。何故そんなにいきり立ってるんですか?」

「この間の日曜日の事だ。俺が言ってるのは」

「日曜日?」

「あいつのレッスン日は水曜だろう。それなのに、何故、日曜日の夜遅くに、お前の家から出て来たんだ」

 思わぬ言葉に驚愕した。
 それに何故、知っているのだろう。

「昼間もいなかったな。車が無かった」

 益々分からなくなった。
 頭の中でクエッションマークが踊っている気がする。

「せ、先輩。何言ってるの?なんでそんな事を……」

「たまたまだ。たまたま近くに用事があって、寄ったんだよ。そしたら留守だった」

 嘘だ。
 明らかにうろたえている。

 口に手をやりながら、目が泳いでる。
 それに、仮に本当だとしても、それなら留守だったと言う事しか知らない筈だ。
 何故、夜の事まで知っているのか。

「レッスン日以外でも出入りしてるって、どういう事だ。しかも、夜遅くに。やっぱり、あいつと付き合ってるのか?」

 どうしてここまで詮索されるのか。
 こういう時、芹歌は無性に反発したくなる。
 面倒臭さも湧いてきた。

「付き合ってたらどうだって言うんですか」

 真田の顔が凍りついた。
 その顔が、あまりにもショックを受けたような表情なので、却って怪訝(けげん)に思える。

 なんだか胸が痛んだ。こんな事、言わなきゃ良かった。
 なーんちゃって、と明るく流せたらいいのに、何故か出来ない。

「そうか……。ならすまない。余計な事だったな」

 真田は力なくそう言うと、立ち上がった。
 下から見上げたら、目が合った。灯が消えたような暗い目だ。

(先輩、違うのっ)

 思わずそう言いたくなった。だが言葉が出て来ない。

 そもそも、何故知っているのか。
 どうしてあんなに怒っていたのか。
 そして今はどうして、そんなに悲しい目をしているのか。

――真田さんとどうなってるの?

 母の言葉が急に蘇った。

 私たち本当に、どうなってるの?
 一体、どういう関係なの?

 今更ながらに思う。
 こんな風に思うのは、キスなんてされたからなのか。
 そうだとしたら、自分はどうかしてる。

 女遊びの盛んな真田なんだ。
 あんな事、彼にとっては、日常茶飯事でどうってことは無いんだ。

 キスなんて、誰とでもできる人だ。
 色んな思いが錯綜する。

 五秒くらいだったろうか。真田の方が先に顔をあげて視線を外した。

「さぁ。練習しよう。時間が勿体ない」

 モヤモヤした気持ちのまま、芹歌は黙って立ち上がった。

 空調が整っていて、楽器にちょうど良い湿度に保たれている。
 無機質な部屋に無味乾燥した空気。心までが乾いて行くような気がした。

 モーツァルトのバイオリンソナタ第8番ホ短調。

 バイオリンソナタでありながら、ピアノが主役的な役割を担っている曲だ。
 モーツァルトの母親が亡くなった頃の曲で、哀愁が満ちている。

 バイオリンとピアノのユニゾンから始まる曲だが、いつもならピッタリと合うのに、今日は酷かった。

 ずれている。
 それなのに、互いに弾く事を中断せずに続けていた。

 ほんの僅かでも合わないと演奏を中止して怒りだす真田なのに、まるで心ここにあらず。
 ピアノの音など聞えていないかのように、一人で走っている。

 おまけに音色も冴えなかった。弓使いがいつになく乱暴だ。
 美しい筈のモーツァルトのソナタが不協和音を奏で出し、芹歌は耐えられなくなって、ピアノをガーンと叩いた。

 真田は無理やり叩き起こされたようにハッとした。
 そんな真田を睨みつける。

「今日の先輩、どうかしてる」

「お前が悪いんだ……」

「はぁ?」

「いや……、やっぱり悪いのは俺だ」

 真田はそのままレッスン室を出て行った。バイオリンを仕舞いもせずに。

 バイオリンと共に取り残された芹歌は、自分の頬に涙が伝っている事に気付いた。

(私、なんで泣いてるんだろ)

 ハンカチで涙を拭うと、置きっぱなしのバイオリンをケースに納め、ピアノの蓋を閉めてからレッスン室を後にした。
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