第2話
文字数 4,510文字
「先生、発表会では是非、ショパンのスケルツォをやらせて下さい」
目を輝かせて意気込むような春田に、芹歌は少し戸惑った。
「スケルツォですかぁ……。2番、ですよね?」
訊き返すまでも無いだろうが、訊かずにはいられなかった。
他に言葉が思いつかなかったからだ。
「そうです!2番です!」
小鼻が少し膨らんでいる。興奮しているようだ。
ショパンのスケルツォは4曲ある。
そのうちの2番目の曲で、最も有名な曲だ。多くの人間が聴いた事のある曲だろう。
難易度的には上級に属するが4曲の中では一番弾きやすい曲だ。
と言っても難しい事には変わりはない。
「春田さん。ショパンのスケルツォ、悪くは無いですけど、今回はベートーベンのソナタとかを
お勧めしたいんですけど……」
語調が少し遠慮勝ちになる。
春田秋夫は62歳の年配者だ。28歳の芹歌とは親子ほどの歳の差である。
建前上は教師と教え子だが、年齢的には逆転しているせいか、子どもの生徒に接する様にはいかない。
「ベートーベンのソナタですか……」
春田の眉間に僅かに縦線が入った。
人当たりが良く紳士的な反面、頑固で意固地な面も持ち合わせている。
一廉 の男性なのだから、当然なのかもしれないが、若い芹歌からすると扱い難いと感じる時が多々あるのだった。
定年後の新しい趣味として始めた『初心者』ではない。
音楽好きで、娘の為に買ったピアノで独学で弾き始めて25年のキャリアを持つ。
余程好きなのだろう。忙しい会社勤めの合間に相当練習したに違いない。
独学でありながら、今では上級の曲も弾きこなす。
肝心の娘の方は途中で辞めていて、母親と共に父親のピアノを褒めまくっているらしい。
それに気を良くして、ピアノが置いてあるクラブやカフェで無料で弾くようになり、そこでも中年サラリーマンのピアノを弾く姿に喝采が浴びせられ、益々有頂天になって一層熱心に弾くことの繰り返しの年月だった。
そんな春田の演奏を最初に聴いた時、芹歌は耳が痛くなった。
独学者にしては指はよく動くし、一応楽譜通りの音符で弾けてはいる。
強弱もついているし、何より情感を込めて弾いている。
だが、本人は自身の演奏に酔いしれていて、自分が奏でる音には無頓着なようだった。
とにかく力任せに勢いで弾いている印象だ。
ミスタッチが少なくても、音が汚くて煩い。
音がデコボコしていて、指のコントロールがまるで出来ていなかった。
ただ、間違えずにそれなりに速く弾ければそれで良しと、勘違いしているとしか思えなかった。
難易度の高い曲を、自分なりの情感を込めて、間違えずに弾けている。
その事実に酔いしれて、奏でる音は素通りしている。
それでも、自身で限界を感じているのだろう。
上級の曲とは言っても、上級の中では初級に近い。
もっと難しい曲を弾けるようになりたい。
その為には先生に教わらないと無理だと思ったようだ。
その通りだと思う。
サラリーマンのうちは習いに通う時間が無かったが、定年を迎え、時間はたっぷりある。
これを機に、ちゃんと先生につこう。
そう思って、まずは娘が通っていたピアノ教室の門を叩き、暫く通っていたものの続かずに辞めた。求める物と与える物が著しく不一致だったらしい。
その後、あちこちの教室をたらい回しのようにさすらい、巡りめぐって芹歌の所にやってきた。懇意にしている川野楽器店からの紹介だった。
川野楽器店から紹介される生徒は、一筋縄ではいかないケースが多かった。
去年の発表会に聴きに来ていた友人の久美子は、
「よくあの人を受け入れたね」と半ば軽蔑するような表情を浮かべて言ったのだった。
まだ教え始めて間もない、癖の強い生徒とは言え、曲がりなりにも自分の生徒である。
久美子の言動に不愉快になった。だが、久美子の感想も尤もな事だった。
自分も最初は断ったのだ。とても無理だと思ったからだ。
誤った奏法のまま25年も弾き続け、既に上級曲をそれなりにでも弾けている。
本人自身も自分の演奏に満足しきっている。
出来あがっているのだ。しかも、年輩だ。
おまけに男でもある。
謙虚でもなければ、柔軟性も無い。
だが、熱心だった。
芹歌が何度も断っているのに、諦めない。
もう、ここが最後だと思っていたのかもしれない。
「私、音にはとても煩いですよ?だから、はっきり言いますが、春田さんの音は耳が痛くなるほど煩いです」
この際はっきり言わないと駄目だと思い、意を決した。
春田は芹歌の言葉に目を見開いた。
「そんな事を言われたのは初めてです」
憮然としていた。
それはそうだろう。大の大人の男性に、面と向かってそんな事を言う人間は早々いない。
所詮、趣味の一環だ。ミスタッチもなく、気持ち良さそうに弾いている相手に、敢えて苦言は呈さない。
それどころか「凄いお上手ですね~」と言うのが常套句 だ。
芹歌だって、自分の生徒になるのでなければ、お世辞を述べて終わっていた事だろう。
「春田さん。習うって事は、自分の欠点を認識しないと上達はできません。貴方は弾く事に夢中で、自分の音を全く聴いて無いですよね?そこから始めて、ちゃんと自分の音が分かるようにならないと、駄目です。綺麗な音を出せる指作りをしないと、これ以上の曲は無理だと思います。それには根気がいるし、私の言う事を素直に聴いて実践する努力が必要です。そこを約束して貰わないと、教えられません」
春田はまるで棍棒で頭を殴られて一瞬飛んだ意識を戻すでもするように、軽く頭を振った後、芹歌を睨むようにジッと見た。
「そうしないと、これ以上の難曲を弾けるようにはなれない、と言う事ですか?」
六十年配の男の、ドスの利いた声が響いた。
この人から見れば、芹歌は小娘に過ぎない。
その小娘の言う事にどこまで従えるのか?
できれば生徒にしたくない。
それでもどうしてもと言うのならば、教わる側の心構えをしっかり持って欲しい。
「春田さんは、ご自分の演奏に満足されてますよね?趣味で楽しく弾かれてるんですから、それで十分だと思います。今の実力で弾ける範囲の曲を楽しく弾き続けていかれれば良いんじゃないでしょうか?ただ、今以上の曲となると、今までのように楽しく、と言う訳にはいかなくなります。これまで以上の努力と忍耐が必要です。それは楽しい事より辛い事の方が大きいです。それでも良いんですか?」
春田の表情が少し和らいだように見えた。
「それは、先生がおっしゃるように努力と忍耐は覚悟しています。これまでだって、自分なりに一生懸命頑張ってきたわけですし」
端正な顔に薄らと笑みが浮かんだ。
まるで自分の努力を恥じらいながら称賛しているようだと芹歌には感じられた。
62歳とは言え、まだまだ活力が漲 っていて、年配ではあるが老人臭さは全く無い。
これまでの人生で積み上げて来た自信に溢れている。
だが申し訳無いが、その自信を崩さないと前へは進めない。
「私の元でやりたいのなら、これまで習得してきたものを一度チャラにしなければなりません。
基本的な練習を多く組み込んで、指作りをしていかないと大曲は無理なんです。地道で、時には退屈だと思われるでしょう。それでも文句や愚痴を言わずに、ついてこれますか?」
芹歌の問いに、春田は間髪 いれずに「勿論です」と即答した。
(ああ、分かってないな)
小さく息がフッと洩れた。
こうなったら仕方が無い。やれるだけやるしかない。
途中でどちらかがギプアップしたらそれまでの事だ。
そうして芹歌の教室へ通い始める事になった春田だったが、一つのスタイルが出来あがってしまっているので、それを崩すのは予想以上に大変だった。
小さい子供が多いので、発表会は毎年8月の終わりの日曜日に開催している。
去年の発表会での春田はまだ通いだして半年と言う事もあってか、まさに春田節全開と言った様相の演奏だった。
久美子が苦言を呈すのも無理は無い。
他の参加者の保護者達は、戸惑いが混じりつつも感心しているような反応だった。
この年代の男性が、ここまで弾けるなんて、と思ったのだろう。
老後の手慰みで始めたのなら、もっと簡単な曲をたどたどしく弾くのだろうし、誰もがきっとそうなんだろうと思っていたに違いないのだから、面食らうのも当然だ。
生徒の一人である女子高生の本田朱美が「上手いのか下手なのかわからな~い」と言うと、そばで聞いてた久美子が「下手なのよ」と切り捨てた。
芹歌は思わず苦笑した。
それから一年近く経とうとしていた。今年の発表会まで約2カ月足らず。
どの生徒もまだ何を弾くのか決まっていないが、そろそろ決めて練習に入りたいところだ。
春田は人前で弾く事に慣れていて、大勢から拍手をされる歓びを味わっている事もあり、一般ウケするメジャーな曲が好きだ。特に本人が好んで弾きたがるのがショパンだった。
芹歌もショパンが一番好きだから、好みが合うのは嬉しいところだが、力強い春田のタッチとショパンはそぐわない。
男性で手が大きく、骨格もしっかりしている為、指や脱力の問題が解決したら段違いに上手くなるだろう。
そういう点、男性は得だな、と思う。何の楽器をやるにしても有利だ。
本来なら好きな作曲家の曲をやらせてあげたいところだが、今の段階ではあまり望ましいとは思われない。
優雅さに欠けるからだ。
まだまだ力いっぱい弾きたい気持ちでウズウズしているので、それならベートーベンあたりなら何とか誤魔化しがきくだろう。
「『悲愴』の第一楽章はどうでしょう?春田さんの大きな手なら、多くの和音をしっかり掴めるし、わりと思いきり弾けると思いますよ。緩急のバランスを上手く表現できれば、とても映えると思いますけど」
微笑みながら、更にたたみかける。
「有名な曲ですから、演奏会にピッタリだと思いますし。春田さんの魅力も十分伝わりますよ?」
春田の眉間の縦皺が消えて、表情が明るくなり始めた。
「え、そうですか……?」
満更でも無い顔つきだ。
「ベートーベンのソナタは、実はやった事がないので少し不安なんですが」
そう言いつつも、あまり不安そうには見えない。
「この一年、脱力と、指の粒が揃うように練習してきましたけど、正直言って、まだまだです。
でも、全く成長してないわけじゃありません。少しずつ良くなってますから、この辺でベートーベンに挑戦してみるといいと思いますよ?この曲なら和音、音階、内声とテクニック的にも色んな形が出てきて良い勉強になるし。是非やってみましょうよ」
「なるほど……」
春田は考え込むように腕を組み、何度か頷いたあとに「良かったら先生、ちょっと弾いてみてもらえませんか。お手本って事で」と言い出した。
「あら……」
予想外の要求だったが、芹歌は楽譜棚からベートベーンのソナタ曲集を手に取ると、該当ページを開いて譜面台の上に置いた。
見なくても弾けるが、春田に見せる為だ。
「じゃぁ春田さん、譜面のページめくり、お願いしますね」
「わかりました」
息を整え、拍を取り、最初の和音を深く響かせた。
目を輝かせて意気込むような春田に、芹歌は少し戸惑った。
「スケルツォですかぁ……。2番、ですよね?」
訊き返すまでも無いだろうが、訊かずにはいられなかった。
他に言葉が思いつかなかったからだ。
「そうです!2番です!」
小鼻が少し膨らんでいる。興奮しているようだ。
ショパンのスケルツォは4曲ある。
そのうちの2番目の曲で、最も有名な曲だ。多くの人間が聴いた事のある曲だろう。
難易度的には上級に属するが4曲の中では一番弾きやすい曲だ。
と言っても難しい事には変わりはない。
「春田さん。ショパンのスケルツォ、悪くは無いですけど、今回はベートーベンのソナタとかを
お勧めしたいんですけど……」
語調が少し遠慮勝ちになる。
春田秋夫は62歳の年配者だ。28歳の芹歌とは親子ほどの歳の差である。
建前上は教師と教え子だが、年齢的には逆転しているせいか、子どもの生徒に接する様にはいかない。
「ベートーベンのソナタですか……」
春田の眉間に僅かに縦線が入った。
人当たりが良く紳士的な反面、頑固で意固地な面も持ち合わせている。
定年後の新しい趣味として始めた『初心者』ではない。
音楽好きで、娘の為に買ったピアノで独学で弾き始めて25年のキャリアを持つ。
余程好きなのだろう。忙しい会社勤めの合間に相当練習したに違いない。
独学でありながら、今では上級の曲も弾きこなす。
肝心の娘の方は途中で辞めていて、母親と共に父親のピアノを褒めまくっているらしい。
それに気を良くして、ピアノが置いてあるクラブやカフェで無料で弾くようになり、そこでも中年サラリーマンのピアノを弾く姿に喝采が浴びせられ、益々有頂天になって一層熱心に弾くことの繰り返しの年月だった。
そんな春田の演奏を最初に聴いた時、芹歌は耳が痛くなった。
独学者にしては指はよく動くし、一応楽譜通りの音符で弾けてはいる。
強弱もついているし、何より情感を込めて弾いている。
だが、本人は自身の演奏に酔いしれていて、自分が奏でる音には無頓着なようだった。
とにかく力任せに勢いで弾いている印象だ。
ミスタッチが少なくても、音が汚くて煩い。
音がデコボコしていて、指のコントロールがまるで出来ていなかった。
ただ、間違えずにそれなりに速く弾ければそれで良しと、勘違いしているとしか思えなかった。
難易度の高い曲を、自分なりの情感を込めて、間違えずに弾けている。
その事実に酔いしれて、奏でる音は素通りしている。
それでも、自身で限界を感じているのだろう。
上級の曲とは言っても、上級の中では初級に近い。
もっと難しい曲を弾けるようになりたい。
その為には先生に教わらないと無理だと思ったようだ。
その通りだと思う。
サラリーマンのうちは習いに通う時間が無かったが、定年を迎え、時間はたっぷりある。
これを機に、ちゃんと先生につこう。
そう思って、まずは娘が通っていたピアノ教室の門を叩き、暫く通っていたものの続かずに辞めた。求める物と与える物が著しく不一致だったらしい。
その後、あちこちの教室をたらい回しのようにさすらい、巡りめぐって芹歌の所にやってきた。懇意にしている川野楽器店からの紹介だった。
川野楽器店から紹介される生徒は、一筋縄ではいかないケースが多かった。
去年の発表会に聴きに来ていた友人の久美子は、
「よくあの人を受け入れたね」と半ば軽蔑するような表情を浮かべて言ったのだった。
まだ教え始めて間もない、癖の強い生徒とは言え、曲がりなりにも自分の生徒である。
久美子の言動に不愉快になった。だが、久美子の感想も尤もな事だった。
自分も最初は断ったのだ。とても無理だと思ったからだ。
誤った奏法のまま25年も弾き続け、既に上級曲をそれなりにでも弾けている。
本人自身も自分の演奏に満足しきっている。
出来あがっているのだ。しかも、年輩だ。
おまけに男でもある。
謙虚でもなければ、柔軟性も無い。
だが、熱心だった。
芹歌が何度も断っているのに、諦めない。
もう、ここが最後だと思っていたのかもしれない。
「私、音にはとても煩いですよ?だから、はっきり言いますが、春田さんの音は耳が痛くなるほど煩いです」
この際はっきり言わないと駄目だと思い、意を決した。
春田は芹歌の言葉に目を見開いた。
「そんな事を言われたのは初めてです」
憮然としていた。
それはそうだろう。大の大人の男性に、面と向かってそんな事を言う人間は早々いない。
所詮、趣味の一環だ。ミスタッチもなく、気持ち良さそうに弾いている相手に、敢えて苦言は呈さない。
それどころか「凄いお上手ですね~」と言うのが
芹歌だって、自分の生徒になるのでなければ、お世辞を述べて終わっていた事だろう。
「春田さん。習うって事は、自分の欠点を認識しないと上達はできません。貴方は弾く事に夢中で、自分の音を全く聴いて無いですよね?そこから始めて、ちゃんと自分の音が分かるようにならないと、駄目です。綺麗な音を出せる指作りをしないと、これ以上の曲は無理だと思います。それには根気がいるし、私の言う事を素直に聴いて実践する努力が必要です。そこを約束して貰わないと、教えられません」
春田はまるで棍棒で頭を殴られて一瞬飛んだ意識を戻すでもするように、軽く頭を振った後、芹歌を睨むようにジッと見た。
「そうしないと、これ以上の難曲を弾けるようにはなれない、と言う事ですか?」
六十年配の男の、ドスの利いた声が響いた。
この人から見れば、芹歌は小娘に過ぎない。
その小娘の言う事にどこまで従えるのか?
できれば生徒にしたくない。
それでもどうしてもと言うのならば、教わる側の心構えをしっかり持って欲しい。
「春田さんは、ご自分の演奏に満足されてますよね?趣味で楽しく弾かれてるんですから、それで十分だと思います。今の実力で弾ける範囲の曲を楽しく弾き続けていかれれば良いんじゃないでしょうか?ただ、今以上の曲となると、今までのように楽しく、と言う訳にはいかなくなります。これまで以上の努力と忍耐が必要です。それは楽しい事より辛い事の方が大きいです。それでも良いんですか?」
春田の表情が少し和らいだように見えた。
「それは、先生がおっしゃるように努力と忍耐は覚悟しています。これまでだって、自分なりに一生懸命頑張ってきたわけですし」
端正な顔に薄らと笑みが浮かんだ。
まるで自分の努力を恥じらいながら称賛しているようだと芹歌には感じられた。
62歳とは言え、まだまだ活力が
これまでの人生で積み上げて来た自信に溢れている。
だが申し訳無いが、その自信を崩さないと前へは進めない。
「私の元でやりたいのなら、これまで習得してきたものを一度チャラにしなければなりません。
基本的な練習を多く組み込んで、指作りをしていかないと大曲は無理なんです。地道で、時には退屈だと思われるでしょう。それでも文句や愚痴を言わずに、ついてこれますか?」
芹歌の問いに、春田は
(ああ、分かってないな)
小さく息がフッと洩れた。
こうなったら仕方が無い。やれるだけやるしかない。
途中でどちらかがギプアップしたらそれまでの事だ。
そうして芹歌の教室へ通い始める事になった春田だったが、一つのスタイルが出来あがってしまっているので、それを崩すのは予想以上に大変だった。
小さい子供が多いので、発表会は毎年8月の終わりの日曜日に開催している。
去年の発表会での春田はまだ通いだして半年と言う事もあってか、まさに春田節全開と言った様相の演奏だった。
久美子が苦言を呈すのも無理は無い。
他の参加者の保護者達は、戸惑いが混じりつつも感心しているような反応だった。
この年代の男性が、ここまで弾けるなんて、と思ったのだろう。
老後の手慰みで始めたのなら、もっと簡単な曲をたどたどしく弾くのだろうし、誰もがきっとそうなんだろうと思っていたに違いないのだから、面食らうのも当然だ。
生徒の一人である女子高生の本田朱美が「上手いのか下手なのかわからな~い」と言うと、そばで聞いてた久美子が「下手なのよ」と切り捨てた。
芹歌は思わず苦笑した。
それから一年近く経とうとしていた。今年の発表会まで約2カ月足らず。
どの生徒もまだ何を弾くのか決まっていないが、そろそろ決めて練習に入りたいところだ。
春田は人前で弾く事に慣れていて、大勢から拍手をされる歓びを味わっている事もあり、一般ウケするメジャーな曲が好きだ。特に本人が好んで弾きたがるのがショパンだった。
芹歌もショパンが一番好きだから、好みが合うのは嬉しいところだが、力強い春田のタッチとショパンはそぐわない。
男性で手が大きく、骨格もしっかりしている為、指や脱力の問題が解決したら段違いに上手くなるだろう。
そういう点、男性は得だな、と思う。何の楽器をやるにしても有利だ。
本来なら好きな作曲家の曲をやらせてあげたいところだが、今の段階ではあまり望ましいとは思われない。
優雅さに欠けるからだ。
まだまだ力いっぱい弾きたい気持ちでウズウズしているので、それならベートーベンあたりなら何とか誤魔化しがきくだろう。
「『悲愴』の第一楽章はどうでしょう?春田さんの大きな手なら、多くの和音をしっかり掴めるし、わりと思いきり弾けると思いますよ。緩急のバランスを上手く表現できれば、とても映えると思いますけど」
微笑みながら、更にたたみかける。
「有名な曲ですから、演奏会にピッタリだと思いますし。春田さんの魅力も十分伝わりますよ?」
春田の眉間の縦皺が消えて、表情が明るくなり始めた。
「え、そうですか……?」
満更でも無い顔つきだ。
「ベートーベンのソナタは、実はやった事がないので少し不安なんですが」
そう言いつつも、あまり不安そうには見えない。
「この一年、脱力と、指の粒が揃うように練習してきましたけど、正直言って、まだまだです。
でも、全く成長してないわけじゃありません。少しずつ良くなってますから、この辺でベートーベンに挑戦してみるといいと思いますよ?この曲なら和音、音階、内声とテクニック的にも色んな形が出てきて良い勉強になるし。是非やってみましょうよ」
「なるほど……」
春田は考え込むように腕を組み、何度か頷いたあとに「良かったら先生、ちょっと弾いてみてもらえませんか。お手本って事で」と言い出した。
「あら……」
予想外の要求だったが、芹歌は楽譜棚からベートベーンのソナタ曲集を手に取ると、該当ページを開いて譜面台の上に置いた。
見なくても弾けるが、春田に見せる為だ。
「じゃぁ春田さん、譜面のページめくり、お願いしますね」
「わかりました」
息を整え、拍を取り、最初の和音を深く響かせた。