第1話
文字数 2,046文字
「どうしたの?何かあった?」
芹歌がショパンの幻想即興曲を弾き終えた時、恩師である渡良瀬恵子が言った第一声だ。
心配そうな瞳が芹歌を見つめている。
「いえ……」
芹歌は俯いた。確かに心が乱れている。ざわついて落ち着かないから集中できなかった。
原因は分かっている。
昨日来たメールだ。大学時代の友人である中村久美子からだった。
“真田さんが帰って来てる!急きょ、帰国リサイタルが開催される事に決まったって。
七月十二日、サントリーホール。チケット取れそうだから、芹歌も行くよね?”
(真田さんが帰って来てる……)
芹歌はスマホを握りしめた。複雑な想いが頭をめぐり心がざわついた。
その状態が今も続いている。
「お母さんの具合が良くないの?」
「あっ、それは大丈夫です」
芹歌は慌てて否定した。
「そう。それなら良いけれど、あなたも大変よね。本当なら、留学してたっていうのにね」
渡良瀬恵子は軽く頭を振った。困ったものだと、動作で語っている。
「先生、すみません。なんか雑念が入っちゃって。弾きなおすので、お願いします」
「わかったわ。じゃぁ、始めて」
芹歌は頭の中にある諸々の思いをリセットするように大きく息を吸い、これから弾く曲の事を思った。
幻想即興曲はショパンが作曲した即興曲四曲の中の最後の曲で、彼の死後に友人の手によって発表された曲だ。
ショパン自身はこの曲を失敗曲と思っていたのか、世に出さないで欲しいと頼んでいた。
ベートーベンのピアノソナタ「月光」に似ていると言う事で気に入らなかったのではないかと言われているが、本当の所は分からない。
左手と右手の1拍が6等分と8等分と違うリズムの為、弾き始めの頃には、随分と悩まされた。だが、このアンバランスなリズムがこの曲を魅力的にしていると芹歌は思っている。
死後に発表されたと言う事は、生前、ショパン自身が人前で弾く事は無かったのだろうか?
気に入らなかったとしても、どんな思いで作ったのだろう?
1834年の作とされている。
パリで初の演奏会を開いたのが1832年。
男装の麗人である作家のジョルジュ・サンドと出逢う前だ。
この頃はパリで成功して多くの芸術家たちと交流していた時期だった。
(今の自分とは、全然違う精神状態だな。きっと……)
だが出だしの左右異なるリズムから受ける不安定な印象は、今の自分には合っているのかもしれない。
そんな風に思いながら、ひっそりと曲に入った。
世田谷の一角に立つ我が家へ向かう足取りは重たい。
冷涼な電車から降りた途端、重く湿った空気が芹歌の体にのしかかってきた。
出かけて帰る度に、気が重たくなる。
そんな生活が既に五年も続いている。五年経っても、そんな生活に慣れないでいる。
平日の昼間だからか、駅構内も人は多くはない。
いつものように改札を抜け、外へ出ると雲間から差す日差しが眩しかった。
家への道すがら、住宅街のあちこちで咲いている色とりどりの紫陽花が何故か目についた。
先週も同じ光景を見た筈なのに、何故今日に限って気になるのだろう。
特に紫陽花が好きだと言う訳でもないのに。
ただ思う。あの日を境に、華やかな花よりも地味な花を好むようになったと。
そして。
華やかな花が誰よりも似合う、あの人が帰国している。
真田幸也 。新進気鋭の天才バイオリニスト。
八年前、有名な国際コンクールに音大在学中に優勝し、ヨーロッパへ留学。
その後も幾つかの権威あるコンクールで優勝しプロデビュー。
何度か日本でも公演を行ってきたが、今はドイツにずっと住んでいる。
帰国する時はいつも公演の為で、今回のように急な帰国などは無かった。
少なくとも半年の猶予が無ければ会場を押さえる事はできない。
それが、約2週間後にサントリーホールでの公演だ。たまたま空きがあったのか。
これまでの日本公演の時には、最初の頃に一度だけ聴きに行った。
だがそれ以降は、チケットを購入はしても会場へは行っていない。
最初から行く気が無いのだから、本当ならチケットの購入もしたくはなかったが、人間関係上、買わないでは済まないのだった。
だが。
会場へ足を運びはしないものの、テレビ中継があれば見ているし、CDやDVDでは鑑賞している。
聴きたく無い訳では無く、ただ逢いたく無かったのだった。
おせっかない久美子の事だ。しっかり芹歌の分のチケットも入手している事だろう。
そして当日、一緒に行く事になるに決まっている。
胸がざわつく。
もうずっと、生の真田を見ていない。
DVDだって、観たのは1度きりだ。
CDも同じだ。
リリースされた時に1度だけ。
演奏が気になるから聴くには聴くが、それ以降は聴かない。
なるだけ思い出したくないから。
もう、何の関係も無い人だし、これからだって無い。
今の自分の現状と、ここから考えられる将来の見通しだけを考えていれば良いのだ。
(将来の見通しか……)
ふと、ため息がこぼれた。
見上げれば我が家だった。
芹歌がショパンの幻想即興曲を弾き終えた時、恩師である渡良瀬恵子が言った第一声だ。
心配そうな瞳が芹歌を見つめている。
「いえ……」
芹歌は俯いた。確かに心が乱れている。ざわついて落ち着かないから集中できなかった。
原因は分かっている。
昨日来たメールだ。大学時代の友人である中村久美子からだった。
“真田さんが帰って来てる!急きょ、帰国リサイタルが開催される事に決まったって。
七月十二日、サントリーホール。チケット取れそうだから、芹歌も行くよね?”
(真田さんが帰って来てる……)
芹歌はスマホを握りしめた。複雑な想いが頭をめぐり心がざわついた。
その状態が今も続いている。
「お母さんの具合が良くないの?」
「あっ、それは大丈夫です」
芹歌は慌てて否定した。
「そう。それなら良いけれど、あなたも大変よね。本当なら、留学してたっていうのにね」
渡良瀬恵子は軽く頭を振った。困ったものだと、動作で語っている。
「先生、すみません。なんか雑念が入っちゃって。弾きなおすので、お願いします」
「わかったわ。じゃぁ、始めて」
芹歌は頭の中にある諸々の思いをリセットするように大きく息を吸い、これから弾く曲の事を思った。
幻想即興曲はショパンが作曲した即興曲四曲の中の最後の曲で、彼の死後に友人の手によって発表された曲だ。
ショパン自身はこの曲を失敗曲と思っていたのか、世に出さないで欲しいと頼んでいた。
ベートーベンのピアノソナタ「月光」に似ていると言う事で気に入らなかったのではないかと言われているが、本当の所は分からない。
左手と右手の1拍が6等分と8等分と違うリズムの為、弾き始めの頃には、随分と悩まされた。だが、このアンバランスなリズムがこの曲を魅力的にしていると芹歌は思っている。
死後に発表されたと言う事は、生前、ショパン自身が人前で弾く事は無かったのだろうか?
気に入らなかったとしても、どんな思いで作ったのだろう?
1834年の作とされている。
パリで初の演奏会を開いたのが1832年。
男装の麗人である作家のジョルジュ・サンドと出逢う前だ。
この頃はパリで成功して多くの芸術家たちと交流していた時期だった。
(今の自分とは、全然違う精神状態だな。きっと……)
だが出だしの左右異なるリズムから受ける不安定な印象は、今の自分には合っているのかもしれない。
そんな風に思いながら、ひっそりと曲に入った。
世田谷の一角に立つ我が家へ向かう足取りは重たい。
冷涼な電車から降りた途端、重く湿った空気が芹歌の体にのしかかってきた。
出かけて帰る度に、気が重たくなる。
そんな生活が既に五年も続いている。五年経っても、そんな生活に慣れないでいる。
平日の昼間だからか、駅構内も人は多くはない。
いつものように改札を抜け、外へ出ると雲間から差す日差しが眩しかった。
家への道すがら、住宅街のあちこちで咲いている色とりどりの紫陽花が何故か目についた。
先週も同じ光景を見た筈なのに、何故今日に限って気になるのだろう。
特に紫陽花が好きだと言う訳でもないのに。
ただ思う。あの日を境に、華やかな花よりも地味な花を好むようになったと。
そして。
華やかな花が誰よりも似合う、あの人が帰国している。
八年前、有名な国際コンクールに音大在学中に優勝し、ヨーロッパへ留学。
その後も幾つかの権威あるコンクールで優勝しプロデビュー。
何度か日本でも公演を行ってきたが、今はドイツにずっと住んでいる。
帰国する時はいつも公演の為で、今回のように急な帰国などは無かった。
少なくとも半年の猶予が無ければ会場を押さえる事はできない。
それが、約2週間後にサントリーホールでの公演だ。たまたま空きがあったのか。
これまでの日本公演の時には、最初の頃に一度だけ聴きに行った。
だがそれ以降は、チケットを購入はしても会場へは行っていない。
最初から行く気が無いのだから、本当ならチケットの購入もしたくはなかったが、人間関係上、買わないでは済まないのだった。
だが。
会場へ足を運びはしないものの、テレビ中継があれば見ているし、CDやDVDでは鑑賞している。
聴きたく無い訳では無く、ただ逢いたく無かったのだった。
おせっかない久美子の事だ。しっかり芹歌の分のチケットも入手している事だろう。
そして当日、一緒に行く事になるに決まっている。
胸がざわつく。
もうずっと、生の真田を見ていない。
DVDだって、観たのは1度きりだ。
CDも同じだ。
リリースされた時に1度だけ。
演奏が気になるから聴くには聴くが、それ以降は聴かない。
なるだけ思い出したくないから。
もう、何の関係も無い人だし、これからだって無い。
今の自分の現状と、ここから考えられる将来の見通しだけを考えていれば良いのだ。
(将来の見通しか……)
ふと、ため息がこぼれた。
見上げれば我が家だった。