第6話

文字数 3,833文字

 あの日も雨だった。
 両親が交通事故に遭った5年前の秋。

 夫婦仲の良かった庸介と実花は、芹歌が子どもの頃から夫婦で旅する事が多かった。
 学校が休日の時には家族三人で出かけたが、平日にも休みをとって二人で良く出かけていた。

 旅が趣味と言っても良い程だったから、家にいる実花に趣味が無いのも当然と言えば当然だろう。もう旅に出ないのだから旅行雑誌を読む事もない。

 長野に紅葉を見に行った帰り、対向車線からはみ出してきたトラックと正面衝突し、父・庸介は即死。実花は一命を取り留めたが下半身に大けがを負った。

 目覚めた時、庸介が死んで自分だけが生き残った事、そして下半身に怪我を負って動けない身体になっていた事を呪い、回復後も気持ちはそこから先へ進めずに過ごしてきた。

 足の怪我は良くなり、リハビリすれば問題なく歩ける状況なのに、歩こうとする気力が無いから車椅子のままだ。

「先生のお母さんは、甘えている」

 レッスン後の雑談で、春田が言った。
 芹歌は苦笑した。そう言われても、どう返したらいいのか分からない。

「ご主人を亡くされて、とても悲しいのだろうとは思いますが、もう5年になるのでしょう。いい加減、立ち直ってもいいのにと思いますよ。ひとりぼっちじゃない。娘さんがいるって言うのに」

「そうおっしゃって頂けるのは有難いですけど、こればっかりはね。いくら周囲であれこれ言っても駄目なんです。聞く耳を持って無いので……」

 この5年間、医者や親戚、友人・知人、色んな人から言われてきた。
 だが駄目だった。

 結局、心の問題なので、カウンセリングを受けるよう勧められもしたが、本人が受けようとしないのでどうしようもない。

「行きたがらないのなら、連れて来てはどうですか?」

 春田の提案に、芹歌は軽く微笑んだ。

「それもトライ済みです。カウンセリングの方を連れて来て、馴染みになったら、通うようになるんじゃないかって。でも、それも駄目だったんです。誰が来ても気に入らない」

 誰とも関わりたく無いようだった。
 まさに心を閉ざし、他人をシャットアウトしていた。

「その割には、こうしてピアノのレッスンで人が多く出入りしてる事には、平気なんですね」

「そうですね。人の出入りは平気なんです。むしろ望んでるみたいです。ひとりぼっちは寂しいから。静かすぎるのが嫌なんです。と言っても、この部屋は防音完備ですから、母の所にまで音は伝わって無いですけどね」

「なるほど。まぁ、出入りしているってだけで、関わりは持って無いですもんねぇ」

 腕を組んで軽く首を振ってる姿をみて、芹歌は小さく笑みを浮かべた。

 確かに関わってはいない。
 だが、一見無関心そうに見えながら、実は関心を寄せているようだった。

 そんな節が、時々接しいてる中で見受けられた。
 先日の神永悠一郎のレッスン日を指摘したのが良い例だ。

 あんな風に直接的な発言は初めての事だったが、ポツリポツリとこぼす言葉の中で、生徒達への印象とも思えるような言葉が出てくるのだ。

 一体、いつからだろう?

 ふと考えた。

 留学も消え、就職も辞退し、この自宅でピアノ教室を始めるようになって5年。

 最初の頃は、それこそ全くの無関心だった。
 レッスンの為に自分のそばから娘がいなくなる事に抵抗すら示していた。
 だが遠くへ行く訳ではない。同じ家の中だ。

 ヘルパーの須美子の存在も有難かった。
 無駄口を叩かず、てきぱきと気の利いた介助のお陰で実花の心も次第に落ち着いていった。

 須美子が手伝いに来る前、親戚の三十代の女性が来ていたが、実花はその女性が気に入らないようで何かと酷く当たっていた。
 どうやら、彼女の家庭に対し劣等感と嫉妬を覚えていたようで、それらが辛辣(しんらつ)な嫌みとなって頻繁(ひんぱん)に口や態度に現れていた。

 年齢も気に入らないようだった。
 とうとう彼女の方が耐えられなくなって来なくなり、芹歌は行政に相談に行ったのだった。
 そこから紹介されたNPO団体から派遣されてきたのが須美子だった。

 須美子に対しても最初はかなり抵抗していたが、実花からの仕打ちに(こた)える風でも無く、淡々と、けれども冷たいと言うわけではない態度と、一種独特とも言える雰囲気が良かったようで、須美子の介護を受け入れるようになった。

 須美子は実花よりも年下ではあるが、5つしか違わない上にバツイチで夫がいない。
 ひとり寂しく生きている女だ、幸せではないに決まっている。
 そう思う事で自身の精神の安定を図っているように芹歌には思えた。

 だが、心を開いていると言うわけではない。
 取り敢えずは、自分の介護をさせてやっている、そんな感じだ。
 自尊心の高さからだろう。

 そんな実花と上手く関わってくれている須美子には感謝するばかりだ。
 彼女が来てくれたお陰で、芹歌は伴奏の仕事もやれるようになったのだから。

「では、私はこれで」

 次の生徒がやってきたので、春田はにっこり微笑むと楽譜の入ったカバンを手にして立ち上がった。

「こんにちは」
「こんにちは。頑張ってね」

 次の生徒は女子高生の本田朱美だった。春田は彼女にエールを送って部屋を後にした。
 その後ろ姿はスッキリした印象だ。
 今時の中高年男性にしては無駄な贅肉の無い、引き締まった体つきをしているせいか、後ろ姿だけなら働き盛りの50代くらいにしか見えない。

「春田さんって、ダンディなおじ様って感じで素敵ですよね」

 朱美が既に出て行ったドアの方に視線をやりながら言った。

「まぁ、そうね」
「御年配だし、癖が強いし、先生教えるの大変じゃないんですか?」

 軽い調子で笑顔だ。

「誰に対しても、教えるって事は簡単じゃぁないわよ?」
「そういうものですかぁ?」

「そういうものよ。朱美ちゃんだって、ピアノに限らず、どんな事でも人に何かを教えるのって大変だって思った事ない?」
「う~ん……、そう言われればそうかも。ただ、飲み込みのいい人には楽かなって思うけど」

「打てばすぐに響くような人なら確かに楽かもしれないけどね。早々いないわよ」
「ええー?あたしはどうですかぁ?」

「さぁ、どうでしょう?自分で考えてみて」
「そんな事言われたら、そうです、って言えませ―ん」

 ふてくされたような表情だ。

「それは良かった。そういう部分で偉そうなのは頂けないからね」
「私は飲み込みが早いです、って言っちゃ駄目って事ですか?」

「当たり前でしょう?生徒の分際で生意気だって事よ?人から教わる態度じゃない。上には上がいるんだしね」
「そっかぁ。じゃぁ、良かった、謙遜しておいて」

「はぁ?謙遜だったの?」
「冗談ですよ」
「なら良かった」

 この子の少しボケた所は相手をしていてホッとする。
 国芸に入りたくて芹歌の元へ通って来ている訳だが、難関の音大を受験する他の生徒達のようなガツガツした部分が無い。

「ところで先生、春田さんにお父さんになってもらったらどうですか?」
「ええー?」

 突然の言葉に目を剥いた。
 朱美の顔を見ると、冗談なのか真面目なのか見当のつかない顔をしている。
 邪気のない微笑が浮かんでいる。

「ちょっと、冗談はやめてよ」

「冗談じゃないですよ~。まぁ、大真面目に言ってるってわけでも無いですけど、ふと思いついたんです。グッドアイデアじゃないのかな、って」

 小首を傾げた仕草が可愛らしかった。憎めない子だ。

「それとも先生、まさか、先生自身が春田さんにホの字とかぁ?」

 冷やかすような口調になったので、「こらっ!」と睨みつけた。
 芹歌は改めて真剣な顔になって、諭すような口調で言った。

「あのねぇ、朱美ちゃん。春田さんはね。ちゃんと立派な奥様がいらっしゃるのよ?だから、私のお父さんになって欲しいって思ったとしても無理なのよぉ?」

「じゃぁ、略奪とか」

 明るい笑顔で言われて、思わず苦笑する。
 全く、どういう精神構造をしてるんだろうと思うばかりだ。

「じゃぁ先生、こんなのはどうですか?春田さんのお友達で、ステキなシングルを紹介してもらうの、先生のお母さんに」

 自分の(ひらめ)きに喜ぶように両手を叩いて笑っている。呆れるばかりだ。

「なんでなのかなぁ。そんなに私にお父さんが必要だって思うの?」

「違うよ、先生。そうじゃなくて。必要なのは、先生のお母さん。先生のお母さんに、新しい相手が必要だって思うの。そしたらきっと、お母さん良くなる」

 いきなり真剣な眼差しになった。

「朱美ちゃん……。心配してくれてるのね。ありがとう。だけどね……。無理だよ、そんなの。大体、引きこもってる状態なんだし……」

 春田も朱美も、今の浅葱家の状況を心配してくれている。
 本当に有難いが、事態はそんなに単純に解決する筈が無い。

「先生。結局のところ、男ですよ。ダンナさんが亡くなって一人になったのが寂しいって事なんだから。子どもがいるのに子どもの事なんて二の次な感じじゃないですか。やっぱり女は男なのかなぁ、って先生のお母さんを見るたびに思います。生意気な事言ってごめんなさい、ですけど」

 そう言いながら、ちっとも悪びれてない。
 一介の女子高生の発想とは思えないと驚くばかりだが。

「わかった、わかった。女子高生に言われたくないけどね。まぁ、心に留めておくね。じゃぁ、練習に入りましょう?無駄口叩いてる暇、ないでしょう?」

 芹歌の口から溜息がこぼれたが、まさか朱美の言っている事が核心をついていたと後から思い知らされる事になるとは、この時の芹歌には分からなかった。
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