第108話

文字数 3,629文字

 芹歌は皆と別れて、一人舞台袖へと向かった。
 本選参加者は全員が集う。
 その為、前日に演奏した4人も衣装に着替えて詰めていた。

 舞台の上はオーケストラ用の椅子や指揮台が片づけられており、ピアノだけが置いてある。
 そのピアノも、舞台の少し後方へと移動していた。

 出場者達は誰も口をきかない。揃って祈るような表情をしている。
 自分も同じような顔をしているのだろうか。
 自分の心持ちは、やりきった充足感しか無いような気がした。

 これで優勝しなかったら、真田はガッカリするだろうか?
 いや、そんな事は無い筈だ。
 誰よりもわかってくれているのだから。

「それではこれより、発表致します。出場者の皆さん、どうぞ」

 アナウンスの声が入り、会場内の拍手に迎えられて演奏順に一列になって進んだ。

 芹歌は最後だ。
 こんな場面は何年ぶりだろう。

 演奏以外で舞台に上がり、衆目に晒されるのは非常に緊張する。
 学生の時には、6位より上にいけるとは最初から期待していなかったから、ただ舞台上に並んでいる事が所在ないように感じて嫌だったが、その時と今とではまるで状況が違う。

 まずは奨励賞。
 2次で7位と8位だった二人が呼ばれた。
 ここは順位が変わらなかったようだ。だが、次の6位から入れ変わりが生じた。

「6位入賞、畑地伸一君!おめでとうございますっ」

(あら~……)

 本番前、あんなに意気込んでいたのに。それが却って良くなかったか。
 自分より3つ左隣に立っている畑地だが、呼ばれてすぐに前に出なかった。
 どうやら喜びよりも動揺の方が大きいようだ。

「畑地君……」

 再び呼ばれて、やっと前へ出た。
 審査委員長から賞状を渡されるものの、明らかに表情が硬い。
 彼は女性に対して偏見を持っていたように感じられたが、その女性に抜かされた。

 2次で自分より下位にいた女性が5位に上がり、4位の座も下位に奪われた事になる。
 残るは上位3名。

「第3位、リ・ギジュン君!おめでとうございます」

 リ・ギジュンはすぐさま前に出て、笑顔で客席に挨拶した。
 それを笑顔で拍手しながら、隣にいるラインズが芹歌の方へ敵意のこもった目をチラリと寄越してきた。

 芹歌はそれを敢えて無視する。
 きっと無意識の行為なんだろうな、と思う。
 全てが終わって、今更睨んできたって意味ないし。

「第2位、2位には審査員賞も与えられます。アーロン・ラインズ君!」

 名前を呼ばれたと同時に、ラインズは掌をギュッと握りしめてから前へ出た。

「おめでとうございます」

 思わず、ハァ~っと息が洩れそうになった。
 足が少し震えてくる。

「さて。栄えある優勝者は、浅葱芹歌さん!浅葱さんには、更に聴衆賞、コンチェルト賞、ショパン賞、原道隆賞が贈られますっ」

 会場内の拍手がひと際大きくなった。

「さぁ、前へ」

 芹歌は足の震えが止まらなくて、前へ足を踏み出そうとしても出来ないでいた。
 念願の優勝、そしてそれ以外にも多くの賞を授与されて、こんなに栄誉な事はない。
 なかなか出れずにいる芹歌に、原が近寄って来た。

「浅葱さん、おめでとう。さぁ」

 そう言って芹歌の手を取って舞台中央まで連れだした。
 芹歌は足がもつれそうになりながら、ようやく歩き出す。

 賞状を受け取り、メダルを掛けられ、トロフィと花束を渡された。
 他の賞の賞状も受け取り、最後に指揮者の原道隆がコメントした。

「浅葱さん、本当におめでとう。オケリハを一緒にやった時に、浅葱さんの秘めたる才能の一端を垣間見させてもらって、本番を期待していました。ですが、才能はあっても本番でそれを発揮できるかは、また別の話しです。だけど彼女は絶対にやってくれると僕は信じていました。そして、僕の期待を裏切らず、予想以上の力を発揮してくれた。素晴らしい音楽を一緒にさせて貰って僕はとても嬉しいです。なので、僕からのお礼の気持ちを込めて、原道隆賞を贈らせて貰いました。これからの活躍を期待しています。頑張って下さい」

「あ、ありがとうございます……」

 既に芹歌の頬は涙で覆われていた。
 ハンカチもティッシュも無い。必死で手で拭うが、後から後からこぼれてくる。

「えー、今回、この大会初の、日本人の受賞、そして更に初である、女性の受賞となりました。今のお気持ちをお聞かせ下さい」

 司会者にマイクを向けられたものの、「ありがとうございます……」しか出て来ない。
 マイクを向けられたままなので、もっと喋らないといけないのかと思うと、更にあがる。

 グスグスと涙ぐんで言葉が出て来ない芹歌に、司会者は言葉を促す。

「今回、学生さんが多い中での参加、不安ではありませんでしたか?」

 そこなのか、と思いながら、少し気持ちが落ち着いてきた。

「はい。卒業してから、5年も経っているので……。不安でした」

 司会者は、うんうん、と頷きながら更に質問を重ねる。

「5年ものブランクがあるのに、参加しようと思ったのは何故ですか?」

「……それは、その……、色々……あって……」

 そんな事をここで訊かれても、簡潔に分かりやすく伝えるのは無理だ。
 芹歌が戸惑っていると、原が割って入って来た。

「そんな事より、浅葱さん。今の喜びを誰に伝えたい?誰に一番、感謝してる?」

 原が優しい笑顔で、けれども少し冷やかすような笑みを含みながら問いかけて来た。

「えっ?あ、あの……」

 芹歌の顔が途端に赤くなる。

(やだ、原さん、何を言わそうとしてるのぉ?)

「ほらっ!教えて?」
 子どもに秘密を問うような、そんな顔をしている。

「ほらっ!彼でしょう?彼!」

 赤くなって言えないでいる芹歌に、少し小声で催促してきた。
 そんな原の催促に、芹歌は思う。
 ここで「母です」とか「渡良瀬先生です」とか「天国の父です」とか言ったら、この人はどんな顔をするだろうか、と。

(だけど、言ってもいいの?)

 ここで彼の名前を出しても良いのだろうか。

「あ、あの……。このコンクールに、出る事を勧めてくれて、ずっとサポートしてくれた、真田幸也さんに、心から感謝しています」

「ええ?真田幸也さん?って、あのバイオリニストの真田さんですか?」

 司会者の戸惑うような言葉と同時に、会場内もざわついた。
 だが、そんな事などお構い無しな様子で原が笑った。

「真田くーん、いるよねー?ちょっと、出てきてよー」

 そう会場に声を掛けた。

 場内から一斉に「えー?」「キャー」と声があがる。

 ライトが会場内にいる彼を探すようにあちこちへと動いた。
 そんな中で一人の男性が立ち上がり、客席の中を抜けて出て来た。
 それを見つけたライトが当たる。同時に、更なる歓声があがった。

 周囲ににこやかな笑顔を向けながら、真田がステージに上がって来た。
 芹歌はそれをドキドキしながら見つめていた。
 こうやって見ていると、まるでスターのようだ。
 いつも傍にいる人とは違う人間のような、少し遠い存在に感じた。

 マイクを向けられた真田は「こんばんは。真田幸也です」と挨拶した。

「えーと……、今情報を貰ったんですが、浅葱さんはピアノの伴奏を仕事とされていて、主に真田さんのパートナーを務めてらっしゃるそうなんですね?」

 司会がスタッフから急きょ渡されたメモを見ながら言った。

「はい、そうなんです。彼女のピアノはとても素晴らしいので、是非ピアニストとして頑張って欲しいと思って、今回のコンクールの出場を勧めました」

「そうだったんですか。それで如何でしたか?今回、ご期待通りの結果を得られたと思いますが」

「はい。5年のブランクを全く感じさせず、以前よりも遥かに素晴らしい演奏を聴かせてくれて、とても満足しています。浅葱さん、おめでとう」

 笑顔で手を差し出されて、芹歌は複雑な思いで手を握る。
 その拍子に真田は軽くウィンクした。

(もう!)

 まるで、ただの演奏家同士といった顔で飄々としているのが憎たらしい。

「ちょっと、ちょっと、真田君、何でそんなに他人行儀なの。ほんとはもっと嬉しいんでしょう。浅葱さんも」

 芹歌は思いあまって原を小声で牽制した。

「先生、やめて下さいよ……」

 顔を赤くして、焦ったようにしている芹歌を見て、原は笑った。

「えっとー、浅葱さんと真田君は、今後もパートナーとして続けて行くんだよね?」

 原の話しが少し逸れた気がして芹歌はホッとしたが、直後にそれが誤解だったと悟る。

「それは、公私ともに、なんだよね?」

 心臓が止まるかと思った。

 更に、「はい、そうです」と真田が返事をした事で、卒倒するかと思うほど、頭がクラクラした。

 司会者が「ええ?」と目を剥いて驚いた。
 場内も一瞬、意味を掴みかねたようにざわついたが、それに(とど)めを刺すように真田が言葉を続けた。

「彼女は僕にとって、最高のパートナーです。音楽の上でも、プライベートでも。彼女は僕の婚約者なんです。だから、必ず優勝してくれると信じていました。芹歌、おめでとう!」

 真田は芹歌を抱きしめた。
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