第79話
文字数 4,203文字
バッハはまずまずの出来だった。
正確に、クリアな音で弾く。
芹歌は元々、ロマン派の情緒的な曲よりも、バッハやモーツァルトのような、正確無比で天上に捧げるような、美しくて法則的な曲の方が好きだった。
特にバッハは計算され尽くしていると言っても過言ではない程、美しい教会建築を連想させる。
バッハを弾いていると気持ちが良い。
何も考えず、指の趣くままに無心で弾ける。
ただ音だけに耳を傾けていれば、それで良い。
だが、普段、指の練習でインベンションはよく弾くが、平均律は簡単なものしか、最近は弾いていなかった。
そのせいか、所々テンポに狂いが生じている。
学生の時、あれだけ練習していたのに、やはりブランクは否めない。
「バッハは、まぁまぁね。ブランクがあるし。問題点は自分でもよくわかってるようだから、これは家で集中的に練習すれば、まず大丈夫でしょう。勿論、油断は禁物だけど」
渡良瀬の言葉に芹歌は頷く。思う所は同じで良かった。
「ベートーベンの方だけど……」
こちらは曲が少し長いのもあって、集中力を要する。
とは言え、この程度で集中力を途切れさすようなら、本選での協奏曲は無理だろう。
ベートーベンは様式が古典に近いし、メリハリがあるので弾きやすく、好きな作曲家だ。
だが性格的にあっさり系の芹歌にとって、ベートーベンの情熱を表現するのは得意ではなかった。
だから渡良瀬はモーツァルトを勧めたのだが、バッハとモーツァルトでは近過ぎるから芹歌は避けたのだった。
「ベートーベンも、それなりに弾けてはいるわ。さすがに教える側にいるせいか、曲全体をよく理解してるし、まとまってると思うけど……」
物足りないと言いたいのだろう。
それは自分でも解っていた。
こういう問題に関しては、頭で解ってはいても駄目だ。勿論、解らないよりはマシだが。
渡良瀬は芹歌にもう一度弾かせて、それを録音した。
「今日は、これを家で聴いて、自分なりにどう弾きたいのか。この演奏のどこが足りないのか、よく考えて来て?」
その後、2次で弾くリストと本選のショパンを弾かされて、こちらはもう少し弾き込んでくるように言われたが、まずはベートーベンだった。
「ねぇ、芹歌ちゃん。こんな事を言うのもなんだけど、あなたちょっと感性が鈍いわよ。真田君があれだけ歌えるのは、それだけ繊細で感性が鋭いからなのよ?あの神経質さも傲慢さも、彼の音楽にとっては必要な要素なの。それに引き換え、あなたはポヨンとし過ぎてる。ご両親の事で苦労してきたせいか、学生の時よりはマシだとは思うけど、音楽馬鹿過ぎて経験が足りないわね」
そうなのか。
そう言えば鈍いって、この間も言われた。
片倉だったか?
久美子や沙織にも、何度も言われてきている。
それが自分の音楽に影響していると言う事なのか。
「もっと感受性を豊かにしないと。でもね。一見、無さそうに見えるけど、真田君と一緒にやると、彼の刺激を受けて驚くほど、あなたの音楽、豊かになってるのよ?無いものは、どこまで行っても無いんだから、元々あなたの中にはあるって事なの。それを一人で引き出せるようになれば、ソロも格段に良くなる。そうなる事を期待して、その時期が来たんだと信じて、私も真田君も、このコンクールを勧めたのよ?わかる?」
私の中にもある?
何だか色々言われて落ち込んだものの、渡良瀬の言う事も確かにそうなのかもしれないと思う。
そうでなければ、コンクールに出るなんて鼻から嗤われて終わりだったろう。
これだけ後押しをしてくれているのだから、可能性はあると言う事だ。
感性を鋭くする。
感受性を豊かにする。
だがどうやったら、そうできるのだろう。
「芹歌ちゃん。これだけ言っとくわね。真田君が怒った理由、あなた解ってないようだから」
「え?理由ですか。それは、単に拗ねたんですよ。私が真田さんが来てくれた事を、喜んだり感謝したりしなかったから。勝手に期待して勝手に失望して、私からしたら、ちょっと迷惑って言うか。そんな事で怒られても困ります」
渡良瀬の顔が厳しくなって、芹歌は臆した。
「芹歌ちゃん。確かに真田君は拗ねたんだと思うわ。だけど、彼がどれだけ芹歌ちゃんの事を想っているのか解ってる?そういう所が鈍いって言われるのよ」
渡良瀬は半ば怒っているように見えた。
「真田君は、あなたの事が心配だから来たのよ?少しでもあなたの役に立ちたくて。あなたはそれを心強いと思わないの?感謝の気持ちは湧かないの?真田君の俺様な態度もどうかと思うけど、その気持ちを汲んであげれない芹歌ちゃんも、どうかと思うわよ」
口調が強い。責められているようだ。
「先生……。そんな事を言われても。だって私には解らないんです。本当に鈍いんですね。でも、私が鈍いって、あの人だっていつも言ってるくらいだから、十分わかってる筈ですよね。それなのに、あんなつまらない事で怒るなんて」
「馬鹿ね。つまらない事じゃないから、怒ったんでしょうに」
渡良瀬の顔は、怒りながら呆れているようにも見えた。
「芹歌ちゃんは、もっと感情的にならないと駄目ね。いつまでも自分を抑えつけて、日常の感情をサラッとやり過ごさないこと。それから、真田君と演奏した時の感情をよく思い出して反芻する事」
渡良瀬はそう言って、帰宅を促した。
(なんだか散々だったな)
満足に弾けない自分が悪いんだから仕方が無いが、真田の事に関しては納得できない部分が多々ある。
(私、本当に想われてるの?)
ふと思った。
想われていないとは思わない。だけど、どれだけなのかは解らない。
あの人の音楽に関しては、掛け値なくストレートに入って来る。
だが、恋愛モードに関しては、結ばれた今でも正直、戸惑いがあった。
真田の俺様は嫌いではない。
だが、あんな風に怒られる事が頻繁であるならば、疲れるばかりで着いて行く自信が無い。
渡良瀬に『不毛』と言われたが、結ばれた直後だって、二人は不毛なやり取りで喧嘩になりかけた。
(ずっと、二人で音楽だけを奏で続けられたらいいのに)
音楽の相性は最高だ。
その時間だけが至福に包まれる。
ずっと、その世界にいられたら、他はいらないとまで思う。
実際には無理な話だが。
(音楽馬鹿か)
フッと笑った。先生だって、他のみんなだって、同じなのに。
私だけじゃないのに。
家に着くと、実花が慌てた様子で、自分で車椅子を動かしながら出て来た。
こんな事は滅多にない。一体、どうしたのだろう?
「ただいま。どうしたの?須美子さんは?」
「おかえり。須美子さんは、台所仕事してるわ。それよりも芹歌、今日のお昼過ぎにね、ゆう君が来たの。昨日、置いたままの荷物を取りに」
「ええ?そうなの?」
昨日、神永は兄の健に呼びだされて姿を消したまま、結局、浅葱家には戻って来なかった。
ほぼ手ぶら状態で出て行ったので、来る時に持っていたカバンがある。
だから取りに戻るのだろうと、遅い時間まで待っていたのだが来なかったのだ。
彼の携帯に連絡したが、その返事は来なし、電話も出ない。
何かあったのだろうかと心配していた。
荷物を取りに来たのなら、取り敢えず安心だ。
だが、実花の様子を見ると、あまり安心しているようには見えないのだった。
「そうなのよ。だけどね。ゆう君、難しい顔して、暫く来れないって」
「そう。でも、そろそろ仕事も始まるから、当然じゃないの?」
実花の顔が不服そうになった。
「それはそうなのかもしれないけど、何かね、様子がいつもと違うって言うか、変だったわ」
「変?どういう事?」
「それは、言葉で上手く説明できないわ。雰囲気とか空気とか、そういうのを感じる事ってあるでしょう?」
言いたい事は、何となくわかる気がした。
その場にいないと伝わって来ない事は多々あると思う。
微妙な雰囲気は、その場にいた者にしかわからないだろう。
だから母が変だと感じた事は、気のせいではないのかもしれない。
「ね、やっぱり昨日の事が原因かしらね。お兄さんがいたなんて、私も驚いたけど」
「本人に他に何か訊かなかったの?昨日の事、訊ねた?」
「勿論よ」
実花は大きく頷いた。
「だけど、曖昧に誤魔化されたわ。兄がいた事を言わなくて、すみませんでしたって。それ以外の事は何も。暫く来れないのも、ちょっと事情があるのでって。お兄さんの事と関係あるのか訊いたら、答えずに『失礼します』って出ていっちゃったの。いつも爽やかで明るいゆう君とは別人みたいだった。やっぱり変でしょう?」
「そうね……」
何か事情があるのだろう。言いたくない事情が。
だがいずれ時が来たら、話そうと思っているのだろうか。
それとも今後も言わずにいるつもりか。
「ねぇ、芹歌。お母さん、心配だわ。あんなゆう君、初めて見る。あなたからメールしてみたらどう?」
「え?でも……。夕べだって、メールしたのに返事来て無いし、未だに私の方へは何の音沙汰もないのよ?メールしたって、きっと返事なんて来ないわよ」
実花の顔が少し不機嫌になった。
「あなた、冷たいのね。返事が来るとか来ないとか、そんな事を考える前に、普通なら心配でメールするものじゃないの?返事が来ないなら、尚更心配にならないの?」
実花の指摘に、芹歌はたじろいだ。
「いつだって、理屈ばっかり。結果を先に考えて、損得で行動するなんて情けないわよ。我が娘ながら、ガッカリだわ。感情は無いの?どこかに置いて来てしまった?そんなんで、よく音楽をやってられるわね」
実花はそう言うと、奥へ入って行った。
芹歌は母の言葉にグサリと胸を刺された思いだった。
『感情は無いの?』なんて言われるとは思って無かった。
それに『冷たい』とも言われた。
もしそうなのだとしたら、そうさせたのは誰だと問いたい。
父が亡くなって、感情むき出しで自分以外を顧みなかった母。
自分だって、そうできたらどんなに楽だったか。
だが、二人してそうだったら、どうなっていただろう。
私はあの時に、感情を置いて来てしまったんだ。
それを母に責める資格なんてない。
今、音楽が思うようにできないのだって、みんな母のせいだ。
感性が鈍いのだって、そうしなかったら生きて来れなかったからだ。
みんな、みんな、母のせいだ。
芹歌は心の中でそう叫びながら、頬に伝う涙を拭った。
正確に、クリアな音で弾く。
芹歌は元々、ロマン派の情緒的な曲よりも、バッハやモーツァルトのような、正確無比で天上に捧げるような、美しくて法則的な曲の方が好きだった。
特にバッハは計算され尽くしていると言っても過言ではない程、美しい教会建築を連想させる。
バッハを弾いていると気持ちが良い。
何も考えず、指の趣くままに無心で弾ける。
ただ音だけに耳を傾けていれば、それで良い。
だが、普段、指の練習でインベンションはよく弾くが、平均律は簡単なものしか、最近は弾いていなかった。
そのせいか、所々テンポに狂いが生じている。
学生の時、あれだけ練習していたのに、やはりブランクは否めない。
「バッハは、まぁまぁね。ブランクがあるし。問題点は自分でもよくわかってるようだから、これは家で集中的に練習すれば、まず大丈夫でしょう。勿論、油断は禁物だけど」
渡良瀬の言葉に芹歌は頷く。思う所は同じで良かった。
「ベートーベンの方だけど……」
こちらは曲が少し長いのもあって、集中力を要する。
とは言え、この程度で集中力を途切れさすようなら、本選での協奏曲は無理だろう。
ベートーベンは様式が古典に近いし、メリハリがあるので弾きやすく、好きな作曲家だ。
だが性格的にあっさり系の芹歌にとって、ベートーベンの情熱を表現するのは得意ではなかった。
だから渡良瀬はモーツァルトを勧めたのだが、バッハとモーツァルトでは近過ぎるから芹歌は避けたのだった。
「ベートーベンも、それなりに弾けてはいるわ。さすがに教える側にいるせいか、曲全体をよく理解してるし、まとまってると思うけど……」
物足りないと言いたいのだろう。
それは自分でも解っていた。
こういう問題に関しては、頭で解ってはいても駄目だ。勿論、解らないよりはマシだが。
渡良瀬は芹歌にもう一度弾かせて、それを録音した。
「今日は、これを家で聴いて、自分なりにどう弾きたいのか。この演奏のどこが足りないのか、よく考えて来て?」
その後、2次で弾くリストと本選のショパンを弾かされて、こちらはもう少し弾き込んでくるように言われたが、まずはベートーベンだった。
「ねぇ、芹歌ちゃん。こんな事を言うのもなんだけど、あなたちょっと感性が鈍いわよ。真田君があれだけ歌えるのは、それだけ繊細で感性が鋭いからなのよ?あの神経質さも傲慢さも、彼の音楽にとっては必要な要素なの。それに引き換え、あなたはポヨンとし過ぎてる。ご両親の事で苦労してきたせいか、学生の時よりはマシだとは思うけど、音楽馬鹿過ぎて経験が足りないわね」
そうなのか。
そう言えば鈍いって、この間も言われた。
片倉だったか?
久美子や沙織にも、何度も言われてきている。
それが自分の音楽に影響していると言う事なのか。
「もっと感受性を豊かにしないと。でもね。一見、無さそうに見えるけど、真田君と一緒にやると、彼の刺激を受けて驚くほど、あなたの音楽、豊かになってるのよ?無いものは、どこまで行っても無いんだから、元々あなたの中にはあるって事なの。それを一人で引き出せるようになれば、ソロも格段に良くなる。そうなる事を期待して、その時期が来たんだと信じて、私も真田君も、このコンクールを勧めたのよ?わかる?」
私の中にもある?
何だか色々言われて落ち込んだものの、渡良瀬の言う事も確かにそうなのかもしれないと思う。
そうでなければ、コンクールに出るなんて鼻から嗤われて終わりだったろう。
これだけ後押しをしてくれているのだから、可能性はあると言う事だ。
感性を鋭くする。
感受性を豊かにする。
だがどうやったら、そうできるのだろう。
「芹歌ちゃん。これだけ言っとくわね。真田君が怒った理由、あなた解ってないようだから」
「え?理由ですか。それは、単に拗ねたんですよ。私が真田さんが来てくれた事を、喜んだり感謝したりしなかったから。勝手に期待して勝手に失望して、私からしたら、ちょっと迷惑って言うか。そんな事で怒られても困ります」
渡良瀬の顔が厳しくなって、芹歌は臆した。
「芹歌ちゃん。確かに真田君は拗ねたんだと思うわ。だけど、彼がどれだけ芹歌ちゃんの事を想っているのか解ってる?そういう所が鈍いって言われるのよ」
渡良瀬は半ば怒っているように見えた。
「真田君は、あなたの事が心配だから来たのよ?少しでもあなたの役に立ちたくて。あなたはそれを心強いと思わないの?感謝の気持ちは湧かないの?真田君の俺様な態度もどうかと思うけど、その気持ちを汲んであげれない芹歌ちゃんも、どうかと思うわよ」
口調が強い。責められているようだ。
「先生……。そんな事を言われても。だって私には解らないんです。本当に鈍いんですね。でも、私が鈍いって、あの人だっていつも言ってるくらいだから、十分わかってる筈ですよね。それなのに、あんなつまらない事で怒るなんて」
「馬鹿ね。つまらない事じゃないから、怒ったんでしょうに」
渡良瀬の顔は、怒りながら呆れているようにも見えた。
「芹歌ちゃんは、もっと感情的にならないと駄目ね。いつまでも自分を抑えつけて、日常の感情をサラッとやり過ごさないこと。それから、真田君と演奏した時の感情をよく思い出して反芻する事」
渡良瀬はそう言って、帰宅を促した。
(なんだか散々だったな)
満足に弾けない自分が悪いんだから仕方が無いが、真田の事に関しては納得できない部分が多々ある。
(私、本当に想われてるの?)
ふと思った。
想われていないとは思わない。だけど、どれだけなのかは解らない。
あの人の音楽に関しては、掛け値なくストレートに入って来る。
だが、恋愛モードに関しては、結ばれた今でも正直、戸惑いがあった。
真田の俺様は嫌いではない。
だが、あんな風に怒られる事が頻繁であるならば、疲れるばかりで着いて行く自信が無い。
渡良瀬に『不毛』と言われたが、結ばれた直後だって、二人は不毛なやり取りで喧嘩になりかけた。
(ずっと、二人で音楽だけを奏で続けられたらいいのに)
音楽の相性は最高だ。
その時間だけが至福に包まれる。
ずっと、その世界にいられたら、他はいらないとまで思う。
実際には無理な話だが。
(音楽馬鹿か)
フッと笑った。先生だって、他のみんなだって、同じなのに。
私だけじゃないのに。
家に着くと、実花が慌てた様子で、自分で車椅子を動かしながら出て来た。
こんな事は滅多にない。一体、どうしたのだろう?
「ただいま。どうしたの?須美子さんは?」
「おかえり。須美子さんは、台所仕事してるわ。それよりも芹歌、今日のお昼過ぎにね、ゆう君が来たの。昨日、置いたままの荷物を取りに」
「ええ?そうなの?」
昨日、神永は兄の健に呼びだされて姿を消したまま、結局、浅葱家には戻って来なかった。
ほぼ手ぶら状態で出て行ったので、来る時に持っていたカバンがある。
だから取りに戻るのだろうと、遅い時間まで待っていたのだが来なかったのだ。
彼の携帯に連絡したが、その返事は来なし、電話も出ない。
何かあったのだろうかと心配していた。
荷物を取りに来たのなら、取り敢えず安心だ。
だが、実花の様子を見ると、あまり安心しているようには見えないのだった。
「そうなのよ。だけどね。ゆう君、難しい顔して、暫く来れないって」
「そう。でも、そろそろ仕事も始まるから、当然じゃないの?」
実花の顔が不服そうになった。
「それはそうなのかもしれないけど、何かね、様子がいつもと違うって言うか、変だったわ」
「変?どういう事?」
「それは、言葉で上手く説明できないわ。雰囲気とか空気とか、そういうのを感じる事ってあるでしょう?」
言いたい事は、何となくわかる気がした。
その場にいないと伝わって来ない事は多々あると思う。
微妙な雰囲気は、その場にいた者にしかわからないだろう。
だから母が変だと感じた事は、気のせいではないのかもしれない。
「ね、やっぱり昨日の事が原因かしらね。お兄さんがいたなんて、私も驚いたけど」
「本人に他に何か訊かなかったの?昨日の事、訊ねた?」
「勿論よ」
実花は大きく頷いた。
「だけど、曖昧に誤魔化されたわ。兄がいた事を言わなくて、すみませんでしたって。それ以外の事は何も。暫く来れないのも、ちょっと事情があるのでって。お兄さんの事と関係あるのか訊いたら、答えずに『失礼します』って出ていっちゃったの。いつも爽やかで明るいゆう君とは別人みたいだった。やっぱり変でしょう?」
「そうね……」
何か事情があるのだろう。言いたくない事情が。
だがいずれ時が来たら、話そうと思っているのだろうか。
それとも今後も言わずにいるつもりか。
「ねぇ、芹歌。お母さん、心配だわ。あんなゆう君、初めて見る。あなたからメールしてみたらどう?」
「え?でも……。夕べだって、メールしたのに返事来て無いし、未だに私の方へは何の音沙汰もないのよ?メールしたって、きっと返事なんて来ないわよ」
実花の顔が少し不機嫌になった。
「あなた、冷たいのね。返事が来るとか来ないとか、そんな事を考える前に、普通なら心配でメールするものじゃないの?返事が来ないなら、尚更心配にならないの?」
実花の指摘に、芹歌はたじろいだ。
「いつだって、理屈ばっかり。結果を先に考えて、損得で行動するなんて情けないわよ。我が娘ながら、ガッカリだわ。感情は無いの?どこかに置いて来てしまった?そんなんで、よく音楽をやってられるわね」
実花はそう言うと、奥へ入って行った。
芹歌は母の言葉にグサリと胸を刺された思いだった。
『感情は無いの?』なんて言われるとは思って無かった。
それに『冷たい』とも言われた。
もしそうなのだとしたら、そうさせたのは誰だと問いたい。
父が亡くなって、感情むき出しで自分以外を顧みなかった母。
自分だって、そうできたらどんなに楽だったか。
だが、二人してそうだったら、どうなっていただろう。
私はあの時に、感情を置いて来てしまったんだ。
それを母に責める資格なんてない。
今、音楽が思うようにできないのだって、みんな母のせいだ。
感性が鈍いのだって、そうしなかったら生きて来れなかったからだ。
みんな、みんな、母のせいだ。
芹歌は心の中でそう叫びながら、頬に伝う涙を拭った。