第47話

文字数 2,289文字

 ピアノの練習に身が入らない。
 心が千々に乱れている。

 神永の態度は相変わらずだった。
 別に馴れ馴れしくして欲しいとは思わないが、硬い事務的な態度は(かん)に障る。

 真田も同じだ。
 いつも激情にかられている男が、氷のように冷たい。
 そして演奏は全然、乗らない。乱れは減ったが機械が演奏しているようだった。

 芹歌は首を振る。

(集中しなくちゃ)

 伴奏は何も真田相手だけではない。
 秋にリサイタルを開く演奏家は多く、毎年何人かに頼まれる。

 今年も三人の演奏家のリサイタルで伴奏をする事になっている。
 失敗は許されない。

 こんな事なら、真田の伴奏を引き受けなければ良かったと思う。
 あの人が帰って来た時点で心が乱れたが、逢わずにいればそれまでだった。

 それなのに、と思う。

 放っておいてくれたら良かったのに……。
 そしたら、今まで通りに自分の仕事に集中できたし、神永の事だって、余計な口出しをされる事もなく、上手くいっていたに違いない。

 一緒に弾いてしまったのが失敗だった。
 あれが自分を惹きつけてしまった。

 かつて味わった至福の時間が蘇って、芹歌の心を離さない。
 あそこへ戻りたい。
 あの、身も心も捧げつくした後にこそ味わえる世界に。


「この間の久美子さんのリサイタル、凄く良かったですよ」

 レッスン終了後、楽譜をしまいながら春田が言った。

「先生は行かなかったみたいですね」
「他の人の伴奏の仕事と被ってたから」

 日曜日の話しだ。
 東京オペラシティの小ホールで久美子のリサイタルがあった。

「だけど春田さん、よくご存じでしたね」

「久美子さんから誘われたんですよ。生で聴いてみたいと思ってましたから、ちょうど良かった」

 日本では、チケットはなかなか売り切れない。
 世間的に余程有名な演奏家でない限り、余るのが常だ。

 だから、自分の弟子たちや友人の所にも誘いをかける。
 芹歌の所にも、あちこちからチラシが届くので、興味のありそうな生徒さんの保護者に声を掛けたりするのだった。

「だけど、先生……」
 春田の顔が神妙になった。

「あの……、久美子さんのリサイタル、神永君も来てましたよ」

「え?ああ、そうなの。彼も誘われたのね」

 神永の名前を聞いて、一瞬ドキリとした。

「ええ。それで、終了後に声を掛けたんですよ。食事でもして一緒に帰ろうかと思いましてね。そしたら、断られた」

「あら……。何か用事でもあったのかしら」

「ええ、それがね。僕の事など上の空って感じで。間もなく、久美子さんが出てきて、二人で姿を消しちゃったんですよ」

「ええっと……、それって……?」

 スターと言う訳ではないので、終了後にホールの外に出て来場者に挨拶する事が多い。
 来場者に関係者が多い場合は特にそうだ。

 だから今回もそうなのだろう。
 だが、神永と二人で姿を消したって言うのは少し不可解だ。

「周囲に挨拶とか、無かったの?」

 春田の話しでは事情がよく飲み込めない。

「ああ、ありました。僕も『よく来てくれました、ありがとうございます』って言われたし。でも、ざっと挨拶を済ませた後に、神永君を伴って楽屋口に消えたって言うか。僕は置いてけぼりを食わされてしまったって感じでしたよ」

 少し口を尖らせている。扱いの違いに不満なのだろうか。

「あれって、どういう事なんでしょうね?もしかして、あの二人、付き合ってるのかな。先生は聞いてませんか?」

「え?そんな話しは、全然、聞いてませんけど……」

 いつの間に、そんなに親しくなったのだろう。
 そう言えば、合唱団を辞めた事も、神永から聞いたと久美子が言っていた事を思い出す。
 あの時にも少し不審に感じたが。

「神永君は、先生の事が好きなのかと思ってましたが、久美子さんの方だったのかな。驚きだけど、まぁ、お似合いではありますよね。美男美女のカップルで」

「やだ、春田さん。何言ってるんですか。付き合ってるかどうかなんて、分からないのに」

「ははは。まぁ確かにそうですが、雰囲気は良かったですよ。男女の感情を僕は感じましたけどね。こんなに長く生きてるんですから、少しは分かります」

 自信ありげな顔をしている。
 こういう人の自信ほど、案外あてにはならないものだ。
 そう思いながらも、胸がざわついた。

 正直、久美子は曲者(くせもの)だ。男に関しては手が早い。
 美人で愛想も良く、駆引きが上手い為、大抵の男は落ちる。
 しかも、後まで引くようなタイプの男は絶対に選ばない。

 互いに上手に遊べる相手を見極めるのも上手いのだ。
 神永は、そんな久美子のお眼鏡に叶ったと言う事なのだろうか。

 それにしても、芹歌の前で散々愛の歌を歌いながら、芹歌の友人である久美子と……。
 何だか不愉快な思いが湧いてくる。

 ピアノの発表会の時、『あなたを想って弾きました』と言ったじゃないか。
 それからだって、随分と思わせぶりな事があった。それなのに……。

(ああ、なんなんだろう、私って)

 春田の話しに動揺している自分に、芹歌は愕然とする。
 いつの間にか、自分の中で神永の存在が大きくなっていたと言う事なのだろうか。

 純粋で優しい瞳に見つめられていた時の心地良さ。
 それが事務的な瞳に変わった事で、心が寂しさで満たされていく気がした。

 でも私は、ずっと孤独だった。
 お父さんが死んだ時から、ずっと。
 何を今更、寂しがってるんだ。馬鹿じゃないか、私……。

 急に、梅雨時に玄関脇に咲いていた紫陽花が思い出された。
 あの紫陽花のように、目立たずにひっそりとしていた筈なのに。
 それで良かったのに。

 母のように、全てに背を向けて引きこもりたい。
 初めてそう思うのだった。
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